2019年大河ドラマ【いだてん】は、宮藤官九郎さんが脚本を手掛けていますので、原作本はありません。

いだてん』は、東京オリンピックを実現させた、実在する人物達の物語です。

 

大河ドラマでは宮藤官九郎さんの脚本ですので、更に面白く仕上がっていると思います。

では、その大河ドラマ放送前に大まかなストーリーとして内容を知っておきましょう。

 

予想あらすじとして捉えて頂ければ。と思います。

 

スポンサーリンク
 

大河ドラマ【いだてん】各話のあらすじ(ネタバレ)はこちらから ↓

 

いたてんあらすじ(ネタバレ)

 

いたてんあらすじ(ネタバレ)

 

金栗四三 誕生

 

金栗四三(かなくり しそう)は、明治24年(1891)8月20日に熊本県玉名群春富村(現在の和水町)で生まれた。

 

父は金栗信彦。

代々、家業の造り酒屋を営んでいたが、信彦の代で廃業となっていた。

 

優しい性格だったが病弱な体質だったので、金栗四三(しそう)にとっては、いつも憂鬱な雰囲気の表情をしている父のイメージだけが大きく残っている。

 

金栗自身も父の病弱さを受け継いでいたのか、幼少の頃はとてもひ弱だった。

その上、そんな父の印象があるので、金栗は走る事で健康体質を目指す事にしたのだった。

 

小学生の頃は、走る事で段々と健康優良児へと変わっていった。

険しい山を超える往復12キロの通学路を、金栗は毎日走った。

 

金栗四三 誕生

 

そんな金栗の姿に周りの子供達も影響を受け、村の子供達はマラソン通学が習慣となっていった。

14歳になった金栗は、旧制玉中学校(現在の熊本県立玉名高等学校)へ転入した。

 

中学校があるのは、自宅から30キロも離れていた為、寄宿舎暮らしとなったが、日曜日にはその山道を走って実家まで往復するのだった。

 

そんな日々の暮らしの中で、金栗は長い距離を走っても疲れない呼吸法やフォームを自分なりに考え、身につけていったのだ。

 

明治43年(1910)4月、金栗は東京高等師範学校に入学した。

師範学校は創立以来、代々の校長は軍人が務めていた。

 

体罰が横行する軍隊式の厳しい教練もあり、先輩たちの私的な制裁も日常茶飯事だったが、嘉納治五郎(かのう じごろう)が校長に就任してからは、改革が行われ、かなりマシな状況になっていた。

 

金栗四三 誕生

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki 【 嘉納治五郎 】

 

嘉納治五郎は、暴力を使わなくても生徒達の心身を鍛える為には、スポーツをするべきだと思っていた。

ライバルの存在で切磋琢磨する事もあるだろうし、目的意識をもって心身を鍛えれる。という理想は、金栗の気質にも合っていた。

 

小学校から走る通学が身についていた金栗は、寮と学校4キロを走り、往復8キロを毎日通学していた。

日頃は口数少なく、静かで大人しい男だったが、熊本県人の『肥後もっこす』と呼ばれる気質を持っている。

 

肥後もっこす』とは正義感が強く、頑固で妥協しないという意味であるが、その中にも負けず嫌いがある。

金栗は特に、その負けず嫌いが大きかった。

 

最初に体験した春の校内レースでは、不本意なレースに終わった。

600人中の全校生徒の中で25位という成績は立派だったが、本人は全く満足せず、笑顔の下では『肥後もっこす』の負けじ魂に火が点きっぱなしだった。

 

金栗四三 誕生

 

そうして、その半年後の校内レースは雪辱戦という気持ちで挑んだ。

前回の反省点も克服し、ゴールの氷川神社には3位で到着した。

 

一年生が3位だと?!

 

その結果に全生徒が驚愕する。

そして、金栗の驚異的な走力に注目が集まった。

 

もちろん嘉納治五郎も、その頃から金栗の存在を意識する様になったのだ。

2年生になった金栗は、自分が所属する運動部を決めなければならなかった。

 

もちろん、これほどの逸材を徒歩部が放っておくはずもなく、かなりの説得を受け、金栗は徒歩部へ入部する事となった。

 

明治29年(1896)アテネで第1回近代オリンピックが開催された。

嘉納は、駐日フランス大使のオーギュスト・ジェラールから打診を受け、東洋初の国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任していた。

 

金栗四三 誕生

 

そして嘉納は、3年後の第5回オリンピック・ストックホルム大会に日本人選手を送り込む為、大日本体育協会を設立して動き始めた。

 

明治44年(1911)11月18日、国内予選競技会で陸上競技において、選手を選考する事となった。

金栗も、これに出場する為に練習量を増やし、毎日24キロを走りつづけた。

 

そして、万全の状態で予選当日を迎えた。

その日は雨でコンディションは良くなかったが、金栗は走りながら『これなら行けそうだ』という手応えをつかんでいた。

 

金栗は予想通り1位で羽田競技場に入ってきた。

 

みんな、ちょっと興奮しすぎじゃないか?

 

そう思う位の大歓声が上がっていた理由は、金栗のタイムだった。

2時間32分45秒。

 

世界記録を20分以上も上回る驚異的なものだったのだ。

そうして、マラソンで世界新記録を樹立した金栗と、短距離や龍距離の競技で1位となった東京帝国大学卒業生の三島弥彦を、大日本体育協会では日本初のオリンピック代表として、ストックホルムへ送り込む事を決めた。

 

しかし、渡航費と滞在費は全て自腹だという。

現在では考えられない事だが、当時はまだオリンピックの認知度が低かった時代だったので、遊びの様なものに国費を使う事に反対する者も多かったのだ。

 

金栗四三 誕生

 

その費用というのが、約2,000円はかかる。

教師の初任給が18~20円だったので、ほぼ10年分の年収に相当する金額だ。

 

それでも行って欲しい

 

と言う嘉納も、どうかしているが、それをあっさり承諾する金栗もまた、現代の思考では考えられない。

土地の名士である金栗の実家にはそれなりの余力はある。

 

金栗にとっては心苦しいが、実家の当主である兄に頼るしかない。

そして不足分は、学友達が募金運動をして捻出してくれた。

 

しかし、金栗はその恩義に報いようと頑張ったが、途中棄権という散々な結果となってしまったのだ。

多くの日本人が期待した、金栗四三の金メダル獲得は夢と消え、苦い挫折だけが残ったオリンピック初挑戦だった。

 

ストックホルムでの失敗をもとに・・・

 

国内では無敵の金栗だったが、世界では自分がかなわぬ強豪が大勢いる事を思い知らされた。

そして帰国すると『肥後もっこす』の負けじ魂にも火が付き、すぐに激しいトレーニングを再開した。

 

第一にやるべき事は、暑さを克服する事。

過去のオリンピックを経験した欧米の選手達は、夏のレースの過酷さを知っていた。

 

そのための訓練と準備をして本番に望んでいるが、金栗はそれを知らず無防備なまま走り、途中棄権となった。

 

金栗が訓練の場所に選んだのは、房総半島最南端の館山市。

海岸近くで合宿し、炎天下を毎日走るのだ。

 

ストックホルムでの失敗をもとに・・・

 

館山での対暑訓練は、最初、母校の徒歩部だけだったのが、金栗の背中を追いかける様に大人数のランナーが年々増え、いつしか夏の風物詩となっていった。

 

夏の酷暑と並んで、ストックホルム大会で金栗を苦しめたのが硬い石畳だった。

それに対応するため、学校近くの大塚仲町市電停留所前の『播磨屋足袋店』に特注して、足底を三重に補強した足袋をストックホルムに持参してもいる。

 

しかし、金栗の想像以上に石畳は硬く、練習中にも足袋が何枚も破れ、慌てて追加発注をする事態にもなっていた。

欧州の石畳を克服する為には、足袋の改良もまた急がねばならない。

 

幸い、播磨屋の主人・黒坂辛作は喜んで協力してくれた。

それに『金栗さん、今度はどんな要望をしてくるかな?』と、それを待ち望んでいたりもした。

 

そして、第7回オリンピック・アントワープ大会直前の大正8年(1919)には、長距離走用に成形した、ゴム底を貼り付けた究極のマラソン足袋が完成。

 

黒坂はこれを、『金栗足袋』と名付けて販売し、ヒット商品にもなった。

昭和11年(1936)の第11回オリンピック・ベルリン大会のマラソン競技で金メダルを取ったソンギジュンも、この金栗足袋を履いて走っている。

 

ストックホルムでの失敗をもとに・・・

 

大正時代になると競技人口も増え、マラソン専用足袋が商売として成立するようにもなっていた。

しかし、なぜ足袋なのだろうか?

 

足先が2つに割れた形状をしているが、それ以外の箇所は欧米人が履くスポーツシューズと変わらない。

2つに割れた足先へのこだわりさえなければ、欧米から輸入したシューズを履けばいいという事になる。

 

当時は、足袋や草履が普段の生活での履物だった。

それゆえ、欧米人の履く運動靴に違和感を覚えていたのだ。

 

また、足袋にはそれなりの利点もある。

衝撃緩和や耐久性はシューズに劣るが、その分軽く、足への負担は少ない。

 

そうして足袋を履き続けた金栗は、学生最後の1年は、練習と足袋の改良に明け暮れて終わった。

それから地元・熊本の医師の娘だった春野スヤと結婚したが、スヤと養子縁組した義母を郷里に残したまま、金栗は東京で走り続けた。

 

そんな金栗は、日本で一番有名な選手であり、自身の世界記録を更新し続け、充実していた。

第6回オリンピック・ベルリン大会が開催される大正5年(1916)には26歳で、体力的にも最良の時だろう。

 

今度は勝てる

 

金栗は、ストックホルムの雪辱を確信していた。

しかし、大正3年(1914)に第一時世界大戦が勃発し、2年が過ぎてオリンピック開催の年になっても、戦争は激化するばかり。

 

ストックホルムでの失敗をもとに・・・

 

ついにIOCは、ベルリン大会の中止を決定する。

金栗は、愕然となった。

 

この4年間、死に物狂いで練習し、マラソン選手をとしては年齢的にピークでもあり、この機会を逃せば永遠に雪辱の機会は果たせないと思った。

 

しかし、流した汗を無駄にしてはいけないと思い、更に走りつづける決意をした。

自分が走れば、後輩達もついてきてくれるだろう。

 

その中からオリンピックの表彰台に立つ者が現れるはず。

それでこそ、ストックホルムの雪辱をも果たされると思った。

 

それから金栗は、鎌倉の鎌倉師範学校で社会科教師となり、翌年の大正6年(1917)4月には東京に戻り、ドイツ学協会学校に勤務した。

 

金栗が教師となった大正6年(1917)に、読売新聞が京都~東京間を走るイベントを企画した。

長距離走となると、国内第一人者である金栗は協力を求められた。

 

京都~東京間を23区間に区切り、1区間ごとにランナー達がリレーして走る事になった。

そして、関東、関西、中部の3つの地域別に選手を選抜してチーム編成をし、三つ巴の競争にするる事となった。

 

それは『東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競争』と名付けられた。

日本発祥の人気スポーツとなる『駅伝』の始まりである。

 

ストックホルムでの失敗をもとに

 

金栗は関東チームのエースとして、最終23区を走り、1着のテープを切った。

大正8年(1919)7月22日には、東京高等師範学校徒歩部の後輩・秋葉祐之から誘われて、下関から東京までの1200キロを走破する耐久マラソンにも挑んだ。

 

それから金栗はアップダウンの激しい箱根の難路で、駅伝方式による長距離競走をやってみてはどうかと、母校の東京高等師範学校や各大学の徒歩部に声をかけ、『報知新聞』に話を持ちかけた。

 

そうして大正9年(1920)2月、『第1回関東大学箱根駅伝競走』の開催を実現させた。

これが、100年近く続く陸上界の名物イベントになろうとは、金栗も予想していなかっただろう。

 

険しい箱根で活躍した選手の中から世界に挑戦する者も現れ始めた。

そして、第一次世界大戦が大正7年(1918)11月に終結し、翌8年の夏にはベルギーのアントワープで第7回オリンピックの開催が決定していた。

 

ストックホルムでの失敗をもとに

 

それからオリンピックマラソン選手選考会で、上位4人が代表に選出された。

東京高等師範学校・茂木善作、早稲田大学・三浦弥平、北海道から八島健三、そして金栗の4名だ。

 

そうしてオリンピック大会では、すでに30歳の金栗が日本人の中では、トップで入ってきた。

しかし、入賞圏外の16位。

 

不本意な成績だったが、ピークを過ぎた30歳の自分が勝てるほど、甘くない世界だと解っていたので、ある程度は予想していた結果である。

 

それに何より、自分を含めた日本人全員が完走出来た事が、一番うれしかった。

その後、大正3年(1924)の第8回オリンピック・パリ大会でも、金栗は日本代表選手となった。

 

34歳のベテランランナーには真夏のレースは過酷過ぎた。

32キロ地点で意識もうろうとなり、棄権した。

 

しかし、ストックホルムの時の様な挫折感はない。

心地よい達成感が湧き上がってきていた。

 

そうしてレース後、金栗は現役を引退した。

タスキは次の走者にたくし、自分が達成出来なかったゴールへ運ばれる事を期待したのだった。

 

日本水泳黄金時代を築いた男・田畑政治

 

日本競泳陣を率いた総監督・田畑政治は、背は低くて恰幅の良い体型だ。

競技会場のプールでは、疲れ知らずによく動きまわり選出以上に目立っていた。

 

数年前までは、日本の水泳は世界のトップレベルからは、はるかに劣っていた。

しかし、田畑政治のせっかちとも言える目標を掲げながら、世界との距離を縮めていった。

 

ロサンゼルス・オリンピックで、日本を一流のスポーツ大国に躍進させた最大の功労者は田畑政治だ。

 

そう高く評価したのは、IOCのブランデージ会長だ。

第8回オリンピック・パリ大会閉会直後に大日本水泳競技連盟が発足した。

 

そして、田畑政治が理事となった。

田畑の本業は新聞記者である。

 

朝日新聞社の政治部に所属していたことから、政治家とのツテや面識はある。

大物政治家を説き伏せて協力を得たりした事もあった。

 

日本水泳黄金時代を築いた男・田畑政治

 

そんな田畑政治は、明治31年(1898)12月1日、静岡県浜松市の造り酒屋『八百庄』の次男として生まれた。

広い敷地には土蔵や醸造所、中庭に庭園があるという裕福な豪商だった。

 

田畑家は、海辺の近くに別荘も所有していた。

そんな環境で暮らしていたので、田畑は自然に泳ぎを覚えていった。

 

中学で水泳部に入部した田畑は、子供の頃から泳いでいただけに、泳ぎの腕前は抜きん出た存在だったという。

 

しかし田畑は、慢性虫垂炎に大腸カタルを併発する大病を患い、このまま水泳ばかりしていたら腸結核になる。と医者から言われ、水泳をやめる事になった。

 

田畑は、もともと世話好きで後輩からも慕われる典型的な親分肌。

有名な後輩たちを鍛えていく方が、自分が泳いでいた頃にもまして、水泳にのめり込むようになっていった。

 

少しでも早く泳げるクロール泳法を厳しく田畑が指導する。

金栗の様に実績を残していない田畑は、ネームバリューで人がついてくるはずはない。

 

なので何キロも泳がせ、大声で怒鳴り散らし、その迫力で実力をつけさせる指導だった。

そんな田畑は、遠目で見ても圧倒される迫力をみなぎらせていたという。

 

日本水泳黄金時代を築いた男・田畑政治

 

そんな田畑は第一高等学校から東京帝国大学に進学するが、夏休みには弁天島で後輩たちを熱血指導していた。

第1回の全国競泳大会では優勝を逃したが、翌年には浜名湾遊泳協会で優勝を勝ち取った。

 

しかし田畑は、こんな事で喜んではいられない!世界に目を向けなければ!と、更に目標を高く持った。

そんな中、大正13年(1924)、田畑は東京帝国大学を卒業して朝日新聞社に入社した。

 

社会人になってからも、水泳に関わり続けたというか、どちらかというと新聞社の方が副業といった感じだった。

当時は田畑にとって、新聞社は水泳に取り組める居心地の良い環境だったようだ。

 

朝日新聞社に入社した年の10月に、田畑は大日本水上競技連盟理事にも就任している。

第8回オリンピック・パリ大会で、日本競泳陣は100メートル自由形、1500メートル自由形、100メートル背泳ぎ、400メートル自由形、それぞれで入賞を果たしていた。

 

しかし、学連がもっとオリンピックに本腰を入れ、選手の選出や育成に協力してくれたなら、メダルにも手が届いたかもしれない。

 

更に高みを目指すには、学連との関係を改善し、水連の組織を強化せねばならない。と、田畑はすぐに本腰を入れた。

 

戦争の影に幻となった東京大会

 

昭和3年(1928)の第9回オリンピック・アムステルダム大会が開催された頃、田畑は水連の名誉主事となり、日本水泳界を代表してJOCの仕事にも関わる様になっていた。

 

当時、アメリカに敗れて日本は世界第2位の地位だったが、アメリカを追い抜く事は出来ると田畑は踏んでいた。

そうして昭和7年(1932)田畑は自ら総監督となり、ロサンゼルスへ乗り込んだ。

 

そこでは、男子競泳6種目中、日本は5種目で金メダルを取った。

 

やっぱり、オリンピックはいいものだな。いつか日本でも・・・

 

勝利の歓喜に沸くプールサイドで、ふとそんな思いがよぎった。

 

戦争の影に幻となった東京大会

 

昭和11年(1936)には第11回オリンピック・ベルリン大会が開催された。

日本選手団はロサンゼルス大会の時よりも多い179人、田畑も今回は日本選手団本部の役員として参加している。

 

この大会でも日本競泳陣は健闘している。

前畑ガンバレ、前畑ガンバレ、』と絶叫する様なアナウンサーの声が響く。

 

200メートル平泳ぎで女子では初となる金メダルを奪取。

そして競泳陣は男子を含め、日本は金メダルを4個獲得した。

 

しかしベルリン大会ではプロパガンダに利用しようとするヒトラーの過剰演出が随所に目立ち、他国の者が萎えるシーンも多かった。

 

日本でもオリンピックを開催したいという思いは田畑にもあるが、政治に影響力を強めている軍部の協力が必要になってくる。

 

今はオリンピックをやるべき時ではない。

 

しかし、田畑の危惧はもはや現実のものとなっている。

日本はすでにオリンピック招致に成功していた。

 

昭和15年(1940)に第12回オリンピック・東京大会の開催が決定した。

 

戦争の影に幻となった東京大会

 

その頃、金栗は郷里の熊本にいた。

東京オリンピックの開催決定は、金栗四三の生活設計に激変をもたらした。

 

恩師の嘉納治五郎から要請され、昭和12年(1937)1月に単身上京する事になった。

日本初のオリンピック選手であり、国民的人気者の金栗は、東京にいた方がいいという嘉納の判断だ。

 

金栗が熊本で暮らした5年の間に、東京はすっかり変わってしまった。

久しぶりに東京駅に降り立った時に、駅舎やホームに軍人の姿が目立って増えていると感じた。

 

戦争の影に幻となった東京大会

 

そんな中、オリンピックの開催を予定通り決行するには難しい問題が多々あった。

オリンピックまで、あと2年になった昭和13年(1938)になっても、駒沢のメインスタジアムを初めとする施設はまだ着工も出来ずにいる。

 

中国との戦争も拡大の一途をたどり、イギリスのICOは、このまま戦争が収束しなければ、オリンピックをボイコットする可能性が高いと示唆してきた。

 

ICO総会を終えた後、嘉納はアメリカに渡り、シアトルから氷川丸に乗船して帰国している途中、長旅の疲れもあったのか、風邪をこじらせた。

 

そして船中で急性肺炎を併発し、急死してしまった。

恩師の突然の訃報を聞いた金栗はショックだった。

 

嘉納の死後、日本国内のオリンピック開催反対派が俄然勢いづいてきた。

中国との戦いは泥沼化し、全ての物資が軍の統制下に置かれる。

 

戦争の影に幻となった東京大会

 

反対の声はしだいに大きくなり、とうとうオリンピック中止が正式に閣議決定された。

それから昭和18(1943)には、在学中の高校生や大学生も徴兵されるようになり、各種競技の有名選手も多くが戦地へ送られた。

 

日本からスポーツが消えた。自分が東京にいる意味も無い。と金栗は思った。

そうして熊本に帰る事にした。

 

一方、田畑の方はベルリン大会閉幕後は、全く存在感がなかった。

オリンピックの開催中止と共にやる気が起こらなくなっていたのだ。

 

戦争が終われば自由にスポーツを楽しめる世に戻るはず。

田畑は、黙って嵐が過ぎ去るのを待っていた。

 

再びオリンピックへ向けて動き出す

 

昭和20年(1945)戦争が終わり、田畑は再び吠えだした。

戦前に大日本水上競技連盟と呼ばれていた水連は、日本水泳連盟に名称を変更して活動を再開させた。

 

金栗は、やっと戦争が終わり待ちに待った箱根駅伝が復活した事が嬉しかった。

昭和22年(1947)1月には箱根駅伝が復活した。

 

終戦から2年が過ぎると日本の情勢もかなり落ち着きを取り戻してきた。

昭和21年(1946)には、東京六大学野球やプロ野球も復活し、多くのファンが球場に押しかけた。

 

昭和22年(1947)の日本選手権400メートル自由形で、日本大学水泳部の古橋廣之進が非公開ながら世界新記録を上回る4分38秒4を記録していた。

 

ロンドンオリンピックの400メートル自由形はアメリカのウィリアム・スミスが4分41秒0の記録で優勝したが、同じ種目で古橋が4分33秒4でゴールして世界新記録を更新していた。

 

ロンドンオリンピックに出場していれば日本選手が金メダルを取った事になる

 

水泳王国の実力は錆びついていなかった。

ロンドンオリンピックから閉め出された悔しさを払拭するのだ。

 

昭和27年(1952)に第15回オリンピック・ヘルシンキ大会が開催される。

そして、この大会で日本は念願だったオリンピックへの復帰を果たしたのだ。

 

しかし、日本人選手の成績は思わしくなかった。

金メダルがレスリングの1個だけだというのは想定外だった。

 

その後の第16回オリンピック・メルボルン大会では、ヘルシンキ大会に比べれば躍進していた。

日本は、金4個・銀10個・銅5個、合計19個だった。

 

水泳の金メダルは、200メートル平泳ぎの古川選手の1個だけだった。

ロサンゼルス大会の栄光を知る者には何とも寂しい限りだ。

 

ここから田畑は水泳界を東京オリムピック目指し、盛り上げていく。

一方、金栗もマラソンの強化合宿に参加したりと、若い選手の指導に熱が入る。

 


 

日本が始めて出場したストックホルム大会から半世紀が過ぎ、ついにオリンピックが東京にやってくる。

誘致活動の戦闘に経ってきた田畑政治と、若い世代をその大舞台に送り出す事を使命とする金栗四三。

 

立場は違えど、2人の男たちはオリンピックをめぐって交錯していく。

昭和39年(1964)10月10日、東京の上空に五輪のマークが鮮やかに描き出される・・・・・・・

 

 

スポンサーリンク
 

 

こちらのあらすじは、

【『金栗四三と田畑政治 オリンピックを実現した男たち』 青山誠 】

から抜粋・簡略化して記載しています。

この続きや詳しくは、こちらで確認してくださいね。↓