大河ドラマ【西郷どん】で、『板垣退助』役を演じるのは渋川清彦さんです。
渋川清彦さんも、髭のイメージがある役者さんですし、板垣退助とは『髭』繋がり!って感じかも。。。
さて、板垣退助のイメージといえば、自由民権運動 & 昔の百円札の肖像画 & すごい鬚!といった事が浮かびますよね。
今回は、そんな板垣退助の功績やエピソードを見ていきたいと思います。
目次
板垣退助のひげはいつからああなった?
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
立派なお髭が印象的な板垣退助。
いつからああなったか知りたくなりますね。
で、調べてみました。
昔の残されている写真や肖像画、周りの証言などを振り返っていき、いつから伸ばし始めたのか探ってみると…。
画像引用元:http://www.wikiwand.com
幕末期、土佐藩の主力部隊・迅衝隊の総督を板垣退助が務めた頃は、髭がありませんでした。
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画像引用元:http://www.wikiwand.com
そして、板垣退助の名言が残された板垣襲撃事件の頃。
この時は、まだ髭はなく綺麗に剃っていたみたいなので、おそらく伸ばし始めたのはそれ以降(1837年生まれなので45歳以降)と考えられています。
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画像引用元:http://www.wikiwand.com
この頃の画像から、髭を伸ばし始めたのがわかります。
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画像引用元:http://www.wikiwand.com
この頃は、第二次伊藤内閣で内大臣として入閣した頃で、おなじみの立派な髭があります。
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画像引用元:http://www.wikiwand.com
この頃の板垣退助は、60歳の頃と比べると、長さは然程変わっていないようですが、毛先(?)髭先(?)のシャープ感は無くなってきました。(笑)
伸ばしっぱなしだったのか?と思っていましたが、もしかすると、お気に入りの長さで切りそろえていたのかもしれませんね。
伸ばすのは時間はかかるし、手入れがいるし、大変そうですが、なぜ伸ばしたのか?
というと、実はこの髭には隠された効果がありました!
人の髭について、『いつから、生やしてるの?なんで生やしてるの?』なんて、あまり深く考えないものですよね。
でも、板垣退助の髭については、特徴的なのか印象深いのか・・
『いつからあんな髭になったんだろう』と気になる人が多い様です。
歴史上の人物について調べていると、こういう事だったんだ・・・というお話はよくありますが、板垣退助の髭も重要な意味(効果)をもっていたという事ですね。。。
板垣退助の功績とは?
板垣退助の功績 & 偉業といえば、
・戊辰戦争での大活躍。
・自由民権運動の政治活動。
が有名です。
その板垣退助の行なった自由民権運動が、日本の民主主義の発展に大きな功績を残したことでも知られています。
では、ざっと板垣退助を年表にしてご紹介しながら、彼の功績を見ていきたいと思います。
土佐藩(現在の高知県)の武士の家に生まれる。
幼名は猪之助(いのすけ)。
父は成乾正成(いぬいまさなり)。
馬廻をつとめるエリート武士。
子どもの頃の板垣退助は、弱い者いじめは絶対にしない子どもだったそうですが、わざとお守りをトイレに捨て本当にバチが当たるか試したり、天ぷらとスイカの組み合わせが本当に腹痛をおこすか試したり、腕白な一面がある THE 子ども!(笑)といった感じだったようです。
この破天荒な性格からか19歳の時、高知城下への立ち入りを禁じられます。
しかし、そこでは多くの庶民と触れ合える時間を持つ事が出来、色々な意見を聞くことができました。
身分制度が厳しい土佐藩では、エリート武士と農民との対話はあり得ませんでした。
しかし、身分に拘らず会話を交わす板垣退助はちょっと変わり者扱いされましたが、この時のこの触れ合いこそがのちの「自由民権運動」のベースとなったのです。
薩土密約を結ぶ。
大久保利通、西郷隆盛と出会い、倒幕の為に土佐藩・薩摩藩間で結んだ同盟。
戊辰戦争(新政府軍 VS 旧幕府軍)に参加する。
新政府軍を率いて活躍。
新政府軍を勝利にみちびき、日本は明治を迎えました。
明治政府で参議になる。
「民衆の立場にたった政治家」として当時から人気者だったとか。
1873年(36歳)
征韓論が受け入れられず、板垣退助は政治家を去る事となる。
高知県で立志社(政治団体)を作る。
自由民権運動の始まりと言われる「民撰議院設立建白書」(民衆が選挙で選んだ議員が参加する議会の設置を求めた)を政府に提出する。
板垣退助はフランスの国をモデルに自由党を結成。
そして、総理(自由党の党首)となりました。
岐阜で、演説中に「板垣死すとも自由は死せず」と言ったとされる、あの有名な暗殺未遂が起こりましたが、命は助かりました。
岐阜での遊説中に襲われます。
有名な「板垣死すとも自由は死せず」の名言を生み出した岐阜事件です。
犯人は、愛知県の小学校教員。相原尚けい。
相原は真面目な性格で、ゆっくりと順序立てて考える漸進(ぜんしん)主義で、板垣退助のスピード感ある革命的考えに不満を抱き、犯行に及んだようです。
相原は無期懲役となり、1889年に大日本帝国憲法発布の恩赦(特別な減刑)で釈放。
そして、真っ先に板垣退助のところへ謝罪に訪れました。
板垣退助は「相原の思想も自由だ!」「彼が日本の将来を思って行動した結果だ!」と言い、相原を許したという逸話が残っています。
やはり板垣退助はただ者ではありませんね。
当時の政治は、薩摩藩や長州藩と、決まった藩の出身者のみが政治を行っていました。
そのことに板垣退助は疑問をもち、士族(江戸時代に武士の身分だった家の者)や一般の人々・・・国民みんなが政治に参加するべき!と考えたのです。
大日本帝国憲法交付。
日本初の選挙が行われ、国会が開設
第2次伊藤内閣で内務大臣となる。
対立していた大隈重信と、憲政党(政党)を作る。
そこで板垣退助は、大隈内閣の内務大臣として活躍しました。(隈板内閣(わいはんないかく)と呼ばれました。)
しかし、4ヶ月で失敗。。。
政界を去る。
そして、社会事業に力を入れました。
東京都にて死去。
板垣退助のエピソード!有名な言葉とは?
板垣退助の名言といえば「板垣死すとも自由は死せず」ですよね。
この言葉には「板垣退助が死んだとしても、日本国民が自由であることに変わりはない」という意味がありますが、そもそも板垣退助の言葉ではない可能性があるそうです。
1881年に板垣退助は自由党を結成して党首となり、全国を遊説してまわって党勢拡大に努めていました。
そして、1882年4月に岐阜で遊説中に襲われ、7ヵ所を刺される事件が起きました。
その時に言ったとされるのが「吾(われ)死スルトモ自由ハ死セン」。
これが→「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く知れわたり、現在に至りますが、のちに板垣退助は「アッと思うばかりで声も出なかった。」と言っていたそうですので、言ってない?可能性があります。
そしてそのあとの新聞の取材で、当時同行していた内藤魯一(ろいち)が、事件時に叫んだ言葉だったが、内藤は板垣退助が言ったことにしてしまった。という話もあり…。
と、いうことで実際のところは諸説あり。という事なので、未だよくわかっていません。
ただひとつわかるとすれば、それだけ板垣退助が人気者だった。ということではないでしょうか。
きっと当時から民衆の立場に立ち考える板垣退助は、英雄(ヒーロー)的存在だったのでしょうね。
さて、その後命が助かった板垣退助は、無事に帝国議会の開設という目的を達成し、それからも議会政治に尽力しました。
そんな板垣退助の政治に対する「自由」という考えは、現在にも受け継がれ、今の選挙のあり方に影響を与えていると言えるでしょう。
大河ドラマ【西郷どん】あらすじ(ネタバレ)1話~最終回まで!