2024年度(令和6年)より一万円札の表面の図柄が、福沢諭吉から日本を代表する実業家、渋沢栄一にかわります。

 

2021年(令和3年)NHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公は、その渋沢栄一。

青天を衝け』で渋沢栄一を演じるのは吉沢亮さんです。

 

では、渋沢栄一とはどのような人物なのか。

功績や人柄など、見ていきたいと思います。

 

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渋沢栄一を吉沢亮が演じる!

 

渋沢栄一を吉沢亮が演じる!

画像引用元:https://www.talent-databank.co.jp/search/t2000066611

 

2021年(令和3年)NHK大河ドラマ『青天を衝け』主人公の渋沢栄一を演じるのは、目がセクシーな俳優の吉沢亮さん!

吉沢亮さんは色々な有名ドラマ&映画に出演されていて、演じた役柄も様々で、イケメンだけじゃない演技の幅に注目されている俳優さんで、数々の賞を受賞されています。

 

少し前にNHK連続テレビ小説『なつぞら』に出演されて、認知度も人気もうなぎ登り。

優しいセクシーな目に一目惚れしちゃった方も多いのでは。

 

筆者も朝から吉沢亮さんが登場するたびにキュンキュンしてました!

 

これからは毎週日曜日20時。

初回放送は2/14!

楽しみですね。

 

一万円札の顔となった渋沢栄一とは?

 

一万円札の顔となった渋沢栄一とは?

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

渋沢栄一は、幕末~昭和初期に活躍した実業家で「日本資本主義の父」「近代日本経済の父」と呼ばれている人物です。

 

そんな渋沢栄一は、1840年 (天保11年)、現在の埼玉県深谷市血洗島の、農商家の家庭で誕生しました。

 

栄一は、三男で二人兄がいましたが、二人とも早くに亡くなったので、長男として育てられました。

 

幼い頃から家業の

・藍玉の製造

・販売

・養蚕

を手伝い、仕入れ&販売を通して経済感覚が磨かれていきます。

父の教育方針で、文武両道を成すべく、武家の子と変わらない教養を身に付けられた渋沢栄一。

 

父・市郎右衛門は、

・商才あり

・武芸にも通じる

・『四書五経』を読める程の教養をもつ

・俳諧も理解

 

そんな人物である父に中国古典の手ほどきを受け、近所に住む従兄弟の尾高惇忠(新五郎)の元で、日本史や中国古典を学びながら、教養を高めていきました。

それは「昼夜、読書三昧では困る。家業にも精を出してくれ」と、父からブレーキをかけられるほど夢中だったとか。

 

14歳の時には、不在の父に代わり、藍の葉の買い付けを任されるようになりました。

弟と一緒に、各製造者による藍玉の品質を調査し、藍玉製造者を招きランキングを発表。

 

そして栄一は、ランキングの結果で席順を決め、ごちそうを振る舞って製造者たちの競争心を煽り、藍玉の品質は向上を図るという新しい試みをしています。

 

渋沢栄一は、人のやる気を引き出せるのか。

合理性と人間の心の動きに着目していました。

 

ちなみに藍玉の事業は、村全体を豊かにする為に、父が農家に藍の葉の栽培を勧めて始めたもの。

 

新事業で地域の経済を豊かにする

渋沢栄一の発想と商才の豊かさの根本には、父から受け継がれたものが大きいのです。

 

1858年(安政5年)従妹ちよ(尾高惇忠の妹)と結婚。

 

当時、日本は長く鎖国状態にあり、交流する国を制限していましたが、ペリーが来航し、外国の軍事力に恐れた幕府が開国したことにより、外国人が国内に多く入り込んできたのです。

 

天皇は外国人を恐がっていたので、「天皇が何より大事!」と考える日本人の多くが「尊王攘夷」(天皇を守り、外国人を追い出そう」という思想のこと)を掲げました。

 

渋沢栄一も尊王攘夷派で、20代で「倒幕」の思想を抱くようになりました。

 

1863年(文久3年)

・尾高惇忠

・尾高長七郎(惇忠の弟)

・渋沢喜作(渋沢栄一の従兄弟)

 

らと、「高崎城」を乗っ取り横浜焼き討ちし、幕府を倒す計画を企てますが、長七郎は京都での見聞から反対し、計画は中止して京都に出奔。

 

1864年(元治元年)

一橋慶喜に仕えます。

この決断が運命を切り開いていく一歩となるのです。

 

1866年(明治19年)

一橋慶喜が将軍・徳川慶喜となり渋沢栄一も幕臣となりました。

渋沢栄一は一橋家で実力を発揮し、徳川昭武(慶喜の異母弟)に随行。

 

1867年(慶応3年)

徳川昭武に従いフランスへ出立。

パリ万国博覧会を見学。

 

ヨーロッパ各国を視察した栄一は、

・先進的な産業

・資本主義

・独特の経済学

などを学びます。

視察中の栄一に語学を指南していたのは、ドイツの医師シーボルトの長男、アレキサンダー・フォン・シーボルト

 

このシーボルトは、のちに日本赤十字社の設立の際に、協力してくれる人物でもあります。

今まで見たことがない文明が外国にはあり大きな感銘を受けました。

 

1868年(明治元年)

明治維新となって帰国。静岡で慶喜に面会。

 

1869年(明治2年)

静岡藩に日本初の合本(株式)組織「商法会所」設立。

明治政府の大蔵省に仕官。

 

1870年(明治3年)

富岡製糸場設置主任となり、製糸場設立にも関わります。

 

1872年(明治5年)

大蔵少輔事務取扱。

抄紙会社設立出願。

 

1873年(明治6年)

大蔵省を辞任。

辞任後、一民間経済人として株式会社組織による企業の創設 & 育成に力を入れ、道徳経済合一説を唱え、第一国立銀行をはじめとする、およそ500もの企業の設立に関わったと言われ、他にも、およそ600程の

・社会公共事業

・福祉

・教育機関の支援

・民間外交

にも取り組み、数々の功績を残しました。

 

1882年(明治15年)

ちよ夫人が死去し、翌年には伊藤兼子さんと再婚しています。

プライベートも充実しているのはさすがですね。

 

1909年(明治42年)

古稀を機に多くの企業 & 団体の役員を辞任。

 

1911年(明治44年)

勲一等に叙し瑞宝章を授与されました。

 

1916年(大正5年)

喜寿を機に実業界を引退。

論語と算盤」を刊行。

 

1917年(大正6年)

日米協会創立 名誉副会長

 

1918年(大正7年)

徳川慶喜公伝」(竜門社)刊行。

 

1919年(大正8年)

協調会創立・副会長

 

1920年(大正9年)

国際連盟協会創立 会長。

子爵を授けられました。

 

1921年(大正10年)

排日問題善後策を講ずるため渡米し、ハーディング大統領と会見。

 

1923年(大正12年)

大震災善後会創立 副会長。

 

1927年(昭和2年)

・日本国際児童親善会創立 会長

・日米親善人形歓迎会を主催

 

1931年(昭和6年)

・11月10日正二位に叙せられる。

・11月11日永眠。(満91歳)

 

渋沢栄一の主な功績は?

 

渋沢栄一の主な功績は?

 

渋沢栄一は数々の功績をのこしています。

主な功績をみていきましょう。

 

  • 日本初の銀行を開業

1873年(明治6年)6月11日

日本初、国立銀行が設立。

 

この銀行は、現代では「みずほ銀行」と名を改めています。

そしてこの第一国立銀行を設立したのが渋沢栄一です。

 

大政奉還によって、朝廷に政権が返上された後、栄一は明治政府の役人として働き、たくさんの実績を残し、辞任後、第一国立銀行の総監役となりました。

また、渋沢栄一の指導により、多くの地方銀行も設立されました。

 

経済大国として日本が外国と肩を並べるようになったのは、この金融機関の整備なくして、語れません。

渋沢栄一は、銀行だけではなく、様々な会社を設立しましたが、その数なんと500社以上!

その多くが、現在の日本経済を支える大企業として君臨しています。

 

その名声はすぐに起業家たちの間に広まり、成功を目指す若者を中心に「竜門社」と呼ばれる勉強会が結成されました。

竜門社は現在も「渋沢栄一記念財団」として運営されています。

 

では、渋沢栄一が関わり設立した企業から、特に有名な四つを

ご紹介します。

 

・東京海上保険(現在の東京海上日動)

1879年(明治12年)8月1日

日本初、海上保険会社として設立。

 

明治時代、成長の著しかった産業が「海運・貿易業」です。

取引をうまく進めるのに、海上保険が必要とされていました。

 

・東京瓦斯(現在の東京ガス)

明治維新後、ガスが日本人の生活に取り入れられるようになり、

横浜でガス事業が始まり、ガス灯が夜道を照らすように。

東京にもガス灯が輝き始めましたが、ガス事業は官営で行われていました。

 

そこで1885年(明治18年)

民間で初のガス会社「東京瓦斯(現在の東京ガス)」が誕生したのです。

 

・大阪紡績(現在の東洋紡)

当時、貿易が盛んに。

それとは逆に、業績が伸び悩む産業が出てきたのですが、紡績業もその一つ。

海外から良質な綿製品が大量に輸入され、

国内の綿製品生産量が減少。

 

そこで、渋沢栄一は、旧大名や商人から出資を募り、近代的設備を整えた工場を設立。

1882年(明治15年)

大阪紡績設立。

 

これを機に紡績会社がどんどん設立され、「東洋のマンチェスター」と呼ばれる大阪を中心に、紡績大国日本として世界に名をはせるようになりました。

 

大阪紡績は、現在、三重紡績、天満紡績などとの合併を経て、「東洋紡」になっています。

 

・東京証券取引所

株式会社の株主は、持ち株を好きなように売る権利を持ち、また、その株式を買いたい人もいます。

これらの人の間に入って、スムーズに取引するのが証券取引所です。

 

公債の売買をする証券業者は明治時代にもあったのですが、個人では市場全体の情報を掴みにくく、株式の売買を取りまとめる仕組みの必要性が高まっていました。

 

海外のその仕組みを見た渋沢栄一は、両替商の今村清之助と組み、

1878年(明治11年)

東京株式取引所(現在の東京証券取引所)を設立。

 

この設立で、株式を投資家に買ってもらい、出資金を元手に事業を始める株式会社の制度が導入できるようになったのです。

このように起業家として活躍する一方、渋慈善家の一面も持ち合わせていて、教育機関の設立にも協力しています。

 

国を豊かにするには、利益を社会へ還元するべきである」とする「道徳経済合一説」のもと、渋沢栄一は教育の発展にも惜しみなく尽力。

 

・一橋大学

・東京経済大学

・日本女子大学

・東京女学館

女子に高等な教育が与えられる機会など殆どなかった時代でしたので、日本女子大学が設立まで、女性の社会進出のきっかけとなったと言えます。

 

明治維新で、社会が変動し、職を失う人も多く、孤児や老人、障害者を含め、人口の60%が生活困窮者といわれていました。

 

政府が富国強兵を進め、養育院の廃止を決定すると、窮民救済は資本主義にとって必要なこと」という持論の元、渋沢栄一は委任経営者として運営を続けることを決意。

 

さらに、

・東京慈恵会

・日本赤十字社

などの設立にも携わっています。

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