毎年恒例のお正月のスポーツといえば、「箱根駅伝」ですよね。

正式名称は「東京箱根間往復大学駅伝競走」と言うそうです。

あまり駅伝に詳しくなくても、一生懸命走り襷を繋ぐ青年を観ていると感動しますよね。

 

2019年のNHK大河ドラマの主人公はこの「箱根駅伝」の創設に尽力し、日本マラソンの父と呼ばれた、金栗四三(かなくりしそう)です。

そして、キャストは中村勘九郎さん!!

 

金栗四三は大阪名物の「グリコのネオンサイン」のモデルの方なので、なんとなくのイメージは皆さんあると思いますが、タイトルの「いだてん」とはどういう意味なのか。

彼のマラソン人生とは、どのようなものだったのか。

気になるところを見ていきたいと思います。

 

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主役の金栗四三を中村勘九郎が演じる!

 

主役の金栗四三を中村勘九郎が演じる

画像引用元:http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=09824

 

2019年大河ドラマ(第58作)『いだてん

~東京オリムピック噺(ばなし)~ が、いよいよ始まろうとしています!

 

大河ドラマ初の、4K制作!

 

関東大震災、東京大空襲、高度経済成長…、明治~昭和へ。

移り変わる東京の町並みを映像化!

 

そして、宮藤官九郎オリジナル脚本!

楽しみですね~。

東京オリンピックに向けて、大河ドラマの方も『オリンピック』を題材にしたんでしょうね。

 

今まで、大河ドラマを見たことがなかった人も、大河ドラマ見てみよっ!!な~んていう風な、きっかけになる作品になると思います!

 

ドラマの主役は、2人

 

・オリンピックに初参加した男 ・・・ 金栗四三(かなくり しそう)

・オリンピックを呼んだ男 ・・・ 田畑政治(たばた まさじ)

 

金栗四三は、度重なる悲運にめげず笑顔で生涯を走り続けた、おひさまのような人物です。

そんな金栗四三を演じるのは、歌舞伎役者の中村勘九郎さん。

 

中村勘九郎さんは、ご存知の人も多いと思います。

なので、大体皆さんご存知だと思いますが、中村勘九郎さんは歌舞伎にとどまらず、

 

・舞台「おくりびと」

・「真田十勇士」

・大河ドラマ「新選組!」

・映画「禅」

 

などなど…。

幅広く活躍されています。

 

・2012年松尾芸能賞新人賞。

・2013年読売演劇大賞最優秀男優賞。

・2015年森光子の奨励賞。

 

なども、受賞されているんですよね。

 

演技は勿論ですが、演技では出しにくい中村勘九郎さんの温かさや真っ直ぐさが、今回の金栗四三のマラソン人生を描くのにぴったりだなぁと思います。

中村勘九郎さんの金栗四三!すっごく楽しみですね。

 

いだてんとは?金栗四三のマラソン人生

 

いだてんとは?金栗四三のマラソン人生

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

金栗四三は熊本の山奥で育った超自然児で「韋駄天(いだてん)」。

韋駄天(いだてん)」というのは、仏法の守護神の一つで、『足の速い神』という意味があります。

 

要は、足の速い人のことを「韋駄天走り」と言うので、金栗四三という人物が、何となくイメージできますね。

 

金栗四三は、明治24(1891)8月20日、玉名郡春富村(旧・三加和町、現和水町)で造り酒屋を営んでいた父信彦・母シエの間に、8人兄弟の7人目として誕生しました。

 

吉地尋常小学校(現・水町春富小学校)を卒業後、10歳で玉名北高等小学校(現・南関町)に入学。

往復12㎞の道のりを毎日走って通学したそうです。

のちにこの時の経験が、マラソンの原点だったと振り返っています。

 

明治38年(1905)、玉名中学校(現・玉名高校)へ進学します。

金栗はクラスで1、2番の成績で、とても優秀でした。

 

そんな金栗四三は、特待生として授業料は免除

さすがですね。。。うーん、親孝行!

 

そして金栗は、学校敷地内の寄宿舎(玉名郡弥富村、現玉名市中)で生活していました。

この時も週末になると、寮から片道20㎞走って実家に帰っていたそうです。

 

明治43年(1910)、東京高等師範学校(現・筑波大学)・地理歴史科に入学。

そして、生涯の師と運命の出会いを果たします。

 

そう、その人物こそ金栗四三の才能を見出した校長の嘉納治五郎(講道館柔道の創始者)。

知育、徳育、体育の三育」を教育理念に、勉学だけでなくスポーツも推奨している人物。

そんな嘉納治五郎は、年2回マラソン大会も開催していました。

 

 金栗四三の学校でのマラソン大会の成績は ▼

・  一年目春の大会競技会 → 25位。

・  一年目秋の大会 → 3位。

 

もちろん嘉納治五郎は、1年生からそんな成績を残す金栗四三を放っておくはずありません。

そうして、金栗が2年生進級時に、『徒歩部(陸上部)』入部を勧められ、迷わず入部します。

 

当時の部活はわりとゆる~い感じだったそうですよ。

しかし、金栗四三は自分に厳しかったので、自分自身でノルマを作り練習に励んでいました。

 

そうして金栗は、マラソンのオリンピック日本人選手国内予選会に足袋を履いて出場します。

 

途中金栗は、足袋が破れて素足になるといったピンチな場面もありました。

しかし、その予選会で2時32分45秒という、当時のマラソン世界記録を27分も上回るタイムを叩き出したのです。

 

金栗四三オリンピック初出場

 

明治45年(1912)第5回オリンピック・ストックホルム大会にて、日本人選手が初出場します!

 

そんな初めての海外で不安も大きい上に、金栗の当時のコーチであった大森兵蔵(おおもりひょうぞう)が元々患っていた、肺結核の病状が重くなってしまいます。

そうなると、コーチは頼れないので自主練習となります。

 

そして、オリンピックの開会式4日前。

オリンピック大会事務局から日本代表のプラカード表記についての問い合わせが来た時の事です。

 

コーチは「JAPAN」でいいだろう・・・と、届け出ようとしたところ、金栗四三は『イギリス人が勝手につけた名前は嫌だ!』と拒否したのです。

 

日本人は、漢字で「日本」とすべき!ときっぱりと言います。

しかし結局、恩師である嘉納治五郎が、(2人の間を取ってなのか?)「NIPPON」とする事を提案します。

 

ま、要は『にっぽん』という響きを残しつつ、文字は『ローマ字』という、落とし所を考えたのでしょうね。

金栗四三は、そんな恩師の妥協案には反対する事はせず、受け入れたのでした。

 

そうして「NIPPON」という表記のプラカードを三島弥彦が掲げて代表として入場しました。

プラカードを持って堂々と入場した三島弥彦でしたが結局、自己新記録は出たものの、順位は最下位で終わったのでした。

 

さて、金栗四三はというと・・・

マラソンのスタート直前に送迎車が到着するという、なんとも最悪な出だしでした。

 

そんな中、外国人選手は序盤からハイペースで走ります。

金栗は、なかなか自分のペースも掴めないまま、折り返し地点を17位で通過します。

 

日本のマラソンでは経験しない硬い石畳と、気温35度以上の中でのレースは、金栗四三には過酷過ぎました。

意識もうろう状態になった金栗は、森の方へとコースを外れてしまいます。

 

結局、そのまま意識を失ってしまい、記録的には『行方不明』といった結果になってしまったのです。

金栗が意識を失った時、スウェーデン人の農夫・エルジエン・ペトレに介抱されたので大事には至らなかったのが、不幸中の幸いでした。

 

こうしてオリンピック・ストックホルム大会では、「消えたオリンピック走者」として名を残す結果となってしまいました。

 

金栗四三は3度オリンピックを経験する

 

東京高等師範を卒業した金栗四三は、大正3年(1914)、兄の実次より、養子の話が舞い込みます。

養子先は、熊本県玉名郡小田村の資産家・池部幾江でした。

 

そうして金栗四三は、東京に居住するのを条件に承諾します。

姓も『池部』に変わっていましたが、金栗の名はもはや日本中に知れ渡っていたので、皆『金栗四三』と呼び続けました。

 

そして、地元・熊本の医師の娘・春野スヤという女性と見合いをする話も、兄が勝手に決めていました。

 

そんな勝手に決めた見合いでしたが、上手くいったようですね。

結局、金栗が学校卒業後に、2人は結婚することになりました。

 

そうして金栗四三は、オリンピック・ベルリン大会を目指すため、師範学校の研究科へ進学します。

 

進学する事となった金栗は、新妻のスヤと養子縁組した義母を熊本に残したまま東京に戻り、ストックホルムの反省を活かした練習に取り組み始めました。

 

さて、その後金栗四三は、2度オリンピックに出場します。

 

・大正5年(1916)

第6回オリンピック・ベルリン大会は、第一次世界大戦のために中止。

 

・大正9年(1920)

第7回オリンピック・アントワープ大会では16位。

 

・大正13年(1924)

第8回オリンピック・パリ大会では32.3㎞地点で棄権。

 

3度のオリンピック出場でしたが、自分が思い描いた結果を残せないままオリンピック競技人生に幕をおろしました。

しかし、ベルリン大会が中止にならず行なわれていたら、金栗四三のオリンピックマラソン記録は大きな結果を残したかもしれません。

 

ちょうどその頃が一番、金栗のマラソンランナーとしてのピークだったからです。

年齢的にも経験的にも、最高の結果が期待出来る時期にオリンピックは行われなかったのです。

 

しかし後になってから『あの時・・・』と言っても、正直どうだったかは誰にも解りません。

なので、そういった結果から、金栗四三は『悲運のオリンピックランナー』として語り継がれるようになったのです。

 

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金栗四三が行った足袋の開発と箱根駅伝誕生秘話

金栗四三が行った足袋の開発と箱根駅伝誕生秘話

 

当時はランニングシューズなんてものは無く、地下足袋のような履き物で走っていたそうです。

金栗四三はオリンピック出場後、東京の足袋店「播磨屋足袋店」の職人・黒坂辛作(くろさかしんさく)に予選途中、足袋が破れたことを相談しました。

 

そこから黒坂辛作は足袋の改良に取り組んでいきます。

私達の足袋に対するイメージは、薄~い布・・・としかイメージしませんよね。

 

先程も申しましたが、当時は足袋の形をしたシューズだったのですが、外国人が履いているスポーツシューズの形状と一番違う点は、足底と足袋特有の指が2つ分かれている点です。

 

黒坂辛作は、足袋の底を3重に重ねる事を考えます。

そして厚底で、ハゼ(留め金具)を使うのを止め、甲にヒモが付いた型へ変化させました。

 

もちろん、黒坂自身の発想だけで思いついてのではなく、ストックホルムで外国人が履いている、ゴムを底に付けたシューズから思い付き、改良を重ねていきました。

 

そして出来上がった、その足袋シューズは「金栗足袋」と呼ばれます。

それからは、多くの日本のマラソン選手が「金栗足袋」を履いて走りました。

 

金栗四三が養子となり、結婚してからまた東京でオリンピックの雪辱を果たす為、練習に明け暮れていました。

そして東京高等師範学校研究科を卒業後、神奈川の鎌倉師範学校の社会科教師となります。

 

金栗が教師となった大正6年(1917)、読売新聞が京都~東京間を走るイベントを企画しました。

何人ものランナーでつなぐリレー形式で560kmの東海道を走破する長距離走です。

 

京都~東京間を23の区間に区切り、1区間ごとにランナーたちがリレーして走ります。

そして関東、関西、中部の3つの地域別にセンスを選抜してチーム編成するものです。

 

金栗は関東チームの最終、23区で走りました。

これはかなり盛り上がる大会となりました。

 

大正8年(1919)7月22日には、東京高等師範学校徒歩部の後輩・秋葉祐之から誘われて下関から東京までの1200kmを走破する耐久マラソンにも挑んでいます。

 

それからは、日光から東京まで1300kmの長距離走などもあり、激しい競争はドラマを生み、それに人々が注目する事を更に金栗は感じました。

 

そうして更なるイベントを思いつきます。

箱根の険しい道で駅伝方式による長距離走をやってみるのはどうか?という事です。

 

大正8年(1919)10月には、金栗四三沢田英 一(マラソン選手)と野口源三郎(マラソン&棒高跳び選手)の3人で、サンフランシスコ~ニューヨーク間、アメリカ横断駅伝の構想も話題としていました。

そして、これを報知新聞社に持ち込むと協賛を取り付けることができたのです。

 

こうして国内でアメリカ横断駅伝の予選会という事で『箱根駅伝』を開催する事になったのです。

そのアメリカ横断駅伝の予選会(箱根駅伝)には、

・東京高等師範。

・早稲田。

・慶応。

・明治。

の4校が名乗りをあげました。

 

そうして箱根駅伝第1回大会は、四大校駅伝競走の名で開催され、大正9年2月14日午後1時にスタートしました。

ここから箱根駅伝の伝統が築かれ、今日まで100年近く続く、陸上界の名物イベントとなったのでした。

 

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