2019年のNHK大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」が1月いよいよスタートします。

 

宮藤官九郎さんのオリジナル脚本で「東京」&「オリンピック」がテーマの作品!

オリンピック初参加の1912年~東京オリンピック開催の1964年までの52年間を描きます。

近現代史が題材となるのは33年ぶりなんだそうです。

 

大河ドラマ『いだてん』の主役は、

・阿部サダヲさん演じる田畑政治。

・中村勘九郎さん演じる金栗四三。

の二人。

この主役の二人をリレーしながら、“オリンピックの歴史”を描くようです。

 

阿部サダヲさん演じる田畑政治は、日本水泳の礎を築き、のちに日本オリンピック委員会(JOC)の会長に就任した人物です。

 

そんな日本のオリンピック史に欠くことができない、田畑政治の東京オリンピック & 水泳にかけた、熱き思いを見ていきたいと思います。

 

目次

阿部サダヲが田畑政治に!

 

阿部サダヲが田畑政治に!

画像引用元:http://otonakeikaku.jp/profile/profile_abe.html

 

田畑政治は、コーチとして日本水泳の礎を築き、夢や熱情、持ち前の行動力で、1964年「東京オリンピック」を実現させた人物です。

そんな田畑政治役に阿部サダヲさんが抜擢!

 

阿部サダヲさんは、舞台、ドラマ、映画、パンクコントバンド「グループ魂」ではボーカルの“ 破壊 ”としても活動されています。

本当に幅広~く活躍されているので、知っている人は多いでしょうね。

 

コメディなイメージのある阿部サダヲさんですが、大河ドラマでは、田畑政治さんをどのように演じるのか興味深いです。

 

私は、阿部サダヲさんの大河ドラマ出演で印象深いのは、『おんな城主直虎』で演じた徳川家康役ですねー。

徳川家康の優しさと芯の強さを、阿部さん独特の雰囲気で演じてたんで、すごく惹きつけられたなぁ・・・って思い出します。

 

今回の『いだてん』では、脚本が宮藤官九郎さんですからねー。

厳しめな田畑政治といえど、どこかでチラっと面白い場面を出してくれる事を期待せずにはいられません。。

 

田畑政治と水泳

 

田畑政治と水泳

画像引用元:https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/miryoku/masaji/tabatamasaji.html

 

田畑政治(たばた まさじ)は1898年(明治31年)12月1日、静岡県浜松市の造り酒屋「八百庄商店」の次男として生まれました。

 

裕福な家庭で、夏や冬の長期休みには別荘で生活するほどのセレブ生活。

そんな何不自由ない生活に見える一方で、祖父も父も結核で早くに亡くし、田畑本人も病弱で「30歳まで命が持つかどうか…。」と医師に言われていました。

 

それでも田畑政治は水泳が好きで、別荘近くの浜名湾で泳ぎ、地元の水泳クラブ「遠州学友会水泳部」でも、1、2位を争うエース格に成長します。

この当時はタイムを競うのではなく、1等を競う「古式泳法」と呼ばれるものでした。

 

出身校の浜松一中(現在の静岡県立浜松北高等学校)の卒業生が、「遠州学友会水泳部」を立ちあげると田畑政治も参加し、子どもの頃から浜名湾で泳いでいた田畑は、エースとして活躍。

 

実績を積み重ね、順風満帆だった田畑ですが、中学(浜松北高校)4年生の時、慢性盲腸炎 & 大腸カタルを併発してしまいます。

そして医者からは「泳いだら死ぬ」と言われ、水泳選手としての道は諦めざるをえなくなりました。

 

そして水泳の指導者へ

 

しかし、田畑は前向きでした。

選手として水泳にかかわることは断念しましたが、水泳の指導者としての道を選択。

 

そうして選手ではなく、指導者の道を選び、活躍していくことになります。

旧制浜松中学校で後輩の指導をし、大会優勝を勝ち取り、さらなる上の目標を掲げます。

 

それは「浜名湾を日本一にする!」 ということ。

大正5年、浜名湾周辺の水泳部を集結した組織「浜名湾遊泳協会」を田畑は発足します。

 

そして、浜名湾全体で水泳技術の向上を目指しました。

勉学も非常に優秀で、東京帝国大学に進学します。(現在の東京大学)

進学後も、休日になると浜名湾へ帰り、後輩の指導や水泳の普及活動に奔走します。

 

クロールに驚いた日本人

 

1920年、アントワープオリンピックに派遣された競泳代表選手の内田正練斉藤兼吉が、外国人選手のクロールを見て衝撃を受けます。

 

日本にも伝わっていた泳法でしたが、短距離用の泳法と考えられていて、当時はあまり普及していませんでした。

 

ところが、外国選手の殆どはクロールで泳ぎ、続々と大会記録を塗り替え優勝!

日本選手は全く歯が立たず、衝撃を受けました。

 

オリンピック後、大阪の茨木中学校が最も早くクロール泳法を導入し、大会で優勝を飾ります。

そして田畑も負けじと、浜名湾遊泳協会にクロールを導入し、打倒茨木中学校を掲げました。

 

しかし当時、国内に水泳全国大会がなかったので、日本一になりたくてもなれない…。そんな矛盾を抱えていました。

そこで田畑政治は、全国大会開催に向け、地元有力者を味方につけて関係各位に交渉します。

 

大正10年、全国の強豪を招待した全国大会を開催します。

この大会の優勝は茨木中学。

 

でも、2年後に田畑率いる浜名湾遊泳協会が茨木中学校を破り、悲願の全国制覇を果たしました。

日本一になる目標は達成された田畑政治は、「水泳で世界一になる」という、さらなる上の目標を目指し始めました。

 

 

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田畑政治が東京へオリンピックを呼んだ!

田畑政治が東京へオリンピックを呼んだ!

田畑政治は東京帝国大学卒業後、1924年(大正13年)朝日新聞社に入社。

そして政治部に配属となります。

 

そこで田畑は、非常に熱心に取材活動をおこないます。

有力政治家にも顔を知られ、気に入られるようになり、戦後の首相・鳩山一郎からも、目を掛けられるようになりました。

 

休日が取れると浜名湾に戻り、後輩の指導をしながら水泳の発展、普及活動を続けていました。

そうして日本水泳界は「日本水上陸上競技連盟」を設立。

 

水泳の国外進出に力点を置いた田畑の活動が認められ、理事に就任します。

そこで田畑は「オリンピック第一主義」を提唱したのです。

 

1928年(昭和3年)のアムステルダム五輪(オランダ)に向けて水泳競技強化の為、鳩山一郎を通じて大蔵大臣・高橋是清(たかはしこれきよ)から、水泳競技への補助金支出の約束を取り付け、アムステルダムに10選手を派遣します。

結果、

 

【男子200m平泳ぎ】

 鶴田義行→金メダル

【男子800m自由形リレー】

 米山弘、佐田徳平、新井信男、高石勝男→銀メダル

【男子100m自由形】

 高石勝男→銅メダル

 

を獲得。

世界と戦える日本水泳界の実力を確認した田畑は、打倒アメリカ(水泳最強国)を目標に掲げます。

 

4年後の1932年(昭和7年)のロサンゼルス五輪(アメリカ)でも、

 

・金メダル5

・銀メダル5

・銅メダル2

 

を獲得しました。

 

その翌年の1933年(昭和8年)、田畑政治は菊枝さんと結婚。

そして次に目指すは1936年(昭和11年)のベルリン五輪(ドイツ)。

 

しかし、この時代のドイツは、ヒトラー率いるナチス政権の頃。

ベルリンでは1916年にオリンピックが行われる予定でしたが、第一次世界大戦最中で中止に。

 

反ユダヤ政策を掲げていたヒトラーは、オリンピックを「ユダヤ人の祭典」として開催に難色を示していたのですが、ドイツの国力を示すこと & プロパガンダに利用できる。といった事などを説得され、開催に同意。

 

ヒトラーのオリンピック」とも呼ばれたこのベルリン五輪でも、日本水泳選手たちは絶好調!

 

・金メダル4

・銀メダル2

・銅メダル5

 

といった成績を残しました。

東京オリンピック

 

そして次のオリンピックは、1940年(昭和15年)に東京で開催予定。

 

田畑政治も東京オリンピック開催に向けて尽力しましたが、1937年(昭和12年)の盧溝橋事件を発端とする日中戦争により、日本は国際的に非難を受け、孤立します。

 

更に軍部の反対などもあり、1940年東京オリンピックは、中止に…。

幻となるのでした。

代わりにフィンランドのヘルシンキで行う予定になりましたが、第二次世界大戦により、それも中止。

 

そして1944年(昭和19年)にロンドンで開催される予定・・・でしたが、これもまた戦争のため中止。

結局、ロンドンオリンピックは1948年(昭和23年)に延期となりました。

 

そして1945年(昭和20年)に日本は敗戦。

そんな戦争が原因で、日本はオリンピックなどの国際大会に出場出来なかっただけではなく、たくさんの有望な選手たちを失いました。

 

戦後、田畑政治は日本水泳連盟の理事長日本体育協会の常任理事に就任。

水泳をはじめ、スポーツの復興に尽力しました。

 

そして、1948年(昭和23年)のロンドン五輪。

日本は敗戦国ということで参加が認められませんでした。

 

そこで、ロンドン五輪の競泳と同日程で日本選手権を開催

 

古橋廣之進橋爪四郎が、ロンドン五輪の金メダリストの記録や世界記録を上回るなど、日本選手の実力を世界に知らしめ、翌年の国際水泳連盟に加盟したのです。

 

再び東京オリンピックが・・・

 

田畑政治は

・1952年(昭和27年)のヘルシンキ五輪(フィンランド)

・1956年(昭和31年)のメルボルン五輪(オーストラリア)

の日本選手団団長を務めました。

 

田畑政治は、東京オリンピック開催に強い想いを持っていて、1960年(昭和35年)の開催に立候補します。

そして東京を強くアピールし、1964年(昭和39年)の開催を目指しました。

 

東京の他にデトロイト、ウィーン、ブリュッセルが立候補していましたが、1964年の東京開催が決定。

日本中が歓喜に溢れました。

 

田畑政治はオリンピック組織委員会の事務総長に就任。

・柔道。

・女子バレーボール。

をオリンピックの正式種目とすることに成功。

 

そして、「東洋の魔女」と呼ばれる女子バレー日本代表の金メダル獲得に繋がります。

その頃、1960年(昭和37年)ジャカルタであったアジア競技大会で、開催国のインドネシアが、台湾 & イスラエルの参加を拒否するという問題が起きていました。

 

理由は、

・台湾は中国の一部!と主張する中国、

・パレスチナ問題でイスラエルと対立関係にあるイスラム諸国。

 

そういった事を配慮する。という親中国・親イスラム諸国だったスカルノ大統領(インドネシア)の政治的な理由。

 

そこで国際オリンピック委員会(IOC)は、「スポーツと政治は分けるべきである」という考えに反している為、ジャカルタ大会を正規の競技大会とは認めない。としました。

 

しかし田畑政治は、選手をジャカルタ大会に送ります。

後にこのことが国内で大問題になり、田畑政治は責任をとり事務総長を辞任。

 

田畑はオリンピック組織委員会の委員としては残りましたが、その後は積極的に動かず、選手の応援に徹しました。

そして晩年、東京オリンピックの後は、

 

1973年(昭和48年)には日本オリンピック委員会(JOC)の会長に就任。

1980年(昭和55年)にはモスクワオリンピック(ソ連)が開催。

 

東西冷戦の東側諸国の盟主であるソ連で行われる大会では、前年に起こったソ連によるアフガニスタン侵攻の影響を受けて、日本を含む西側諸国がボイコットする結果に。

 

この頃から田畑政治はパーキンソン病で食べ物をのどに詰まらせ脳に障害を持ち、車椅子生活に…。

1984年(昭和59年)のロサンゼルス五輪の直前に危篤状態に。でも奇跡的に回復します。

 

テレビでオリンピックを観戦しながら、涙を浮かべだそうです。

そして、ロサンゼルス五輪閉会から2週間後に田畑政治は、病院で亡くなりました。

享年87。

誰よりも水泳・日本でのオリンピック開催に力を注いだ男の生涯は幕を閉じました。

 

 

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