大河ドラマ『青天を衝け』で、一橋(徳川)慶喜(よしのぶ)が登場します。

一橋(徳川)慶喜役は「つよぽん」こと草彅剛さん!

 

徳川家最後の将軍、一橋(徳川)慶喜と渋沢栄一は、関係はあったのでしょうか?

さっそくみていきましょう。

 

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目次

一橋(徳川)慶喜を草彅剛が演じる!

 

一橋(徳川)慶喜を草彅剛が演じる!

画像引用元:https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=M94-0579

 

公私共にのりにのってる元国民的アイドルのSMAPのメンバーだった草彅剛さんが、一橋(徳川)慶喜役を演じられます!

 

SMAPは老若男女に認知度がありますのでご存知だとは思いますが、一橋(徳川)慶喜は幕末のイケメン将軍で知られている将軍なので、言うまでもないのですが、草彅剛さんってオシャレ&超スタイリッシュ&爽やか!

ほんでもって、声がステキ。

一橋(徳川)慶喜のイメージにぴったり!

草彅剛さんに似合う役どころですよね!

 

そしてそして草彅剛さんは、俳優としても活躍されていますが、どれも高評価!

憑依型俳優としても知られていて、優しい好青年はもちろんですが、強面の役どころも違和感なく、どちらも格好よかったです。

個人的には『任侠ヘルパー』は好きでしたね。

 

それこそ色々な役に自然となりきって演技されるので、視聴者は知らない間に、その世界に引き込まれていくのです。

 

たくさんの賞を受賞されていますし、演技力は折り紙つき!

今回のドラマではどのように演じられるのか楽しみですね。

 

徳川家最後の将軍 徳川慶喜

 

徳川家最後の将軍 徳川慶喜

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

ざっくり言うと、江戸幕府&徳川家最後&日本の最後の将軍です。

では、徳川慶喜を簡単に年表にまとめて見ていきたいと思います。

 

1837年(天保8年)水戸藩(現在の茨城県)で誕生しました。

父は、水戸徳川家の9代目藩主・徳川斉昭

慶喜は7番目の男の子です。

 

慶喜は、小さい頃から大変賢かったそうで、徳川家康と同等と言われる程で、幕府の中の偉い人の中にも次の将軍には慶喜を!」と考えるも人も結構いたようです。

 

父も慶喜の賢さは認めていたので、長男に何かあった場合、慶喜を跡継ぎに考えていたのだそうです。

 

・1857年(安政4年)

一橋家(徳川家の一族)の養子となり、一橋慶喜」と名乗ります。

 

第13代将軍・徳川家定の跡継ぎの有力候補になりましたが、第14代将軍は徳川家茂に決まりました。

 

1858年(安政5年)「日米修好通商条約

 

天皇の許可を得ず勝手に進めた大老・井伊直弼の行動を批判。

 

・1859年(安政6年)「安政の大獄

政治の表舞台から退けられますが、安政の大獄」主導者の大老・井伊直弼が殺され、再び政治の表舞台に復帰しました。

 

1862年(文久2年)

将軍後見役となり、江戸幕府の体制を立て直すべく「文久の改革」を実行します。

 

・1864年(元治元年)「禁門の変

長州藩(現在の山口県)VS幕府

幕府側の軍を指揮し、勝利。

 

・1866年(慶応2年)

14代将軍・徳川家茂が死去。

 

慶喜は、第15代将軍となりました。

・日本の開国

・江戸幕府の再建

に、積極的に取り組み、力を尽くしました。

 

で、この時、

江戸幕府

VS

薩摩藩(現在の鹿児島県)&長州藩(現在の山口県)連合軍

の真っ最中で、危機的状況を迎えていました。

 

薩摩藩や長州藩といった倒幕派(江戸幕府&徳川将軍家を倒すのが目的の人たち)の動きが活発になっていて、江戸城(徳川家の本拠地)でいつ戦いが起きてもおかしくない状況。

薩長軍の勢いが日に日に増していく中、ついに慶喜は決意します。

 

・1867年(慶応3年)「大政奉還

(幕府の持つ政権 → 天皇に返す)

倒幕派は幕府を倒さなくてよくなり、幕府への攻撃を止めました。

 

実際、政権は徳川家が引き継いでいたので、江戸幕府と同じような権利を徳川家が持つという予定でしたが、倒幕派は「権利は天皇が持つべき」と幕府に反発。

そして「戊辰戦争」勃発。

 

・1868年(明治元年)

話し合いで江戸城の明け渡しを決定。

 

江戸城を新政府側に明け渡し、江戸を去りました。

江戸城は明治政府に明け渡され、江戸の町が戦争に巻き込まれることはありませんでした。

 

慶喜も明治政府へ抵抗はしていないので一命をとりとめ、徳川家も養子に継がせ滅びませんでした。

 

なので、「大政奉還」は徳川家を救ったとも言われてます。

日本の行く末を考えて行動していた将軍です。

 

上記のことから、「大政奉還」は絶妙なグッドタイミングだったことがわかりますよね。

本当に賢い人物だったのでしょう。

 

余生は趣味の

絵画

・写真

・弓道

・サイクリング

・手裏剣

など、趣味に没頭した生活を送っていたそうです。

 

・1913年(大正2年)

風邪による肺炎で亡くなりました。

76歳でした。

 

一橋(徳川)慶喜と渋沢栄一との関係

 

一橋(徳川)慶喜と渋沢栄一との関係

 

一橋(徳川)慶喜の功績の一つに、渋沢栄一の発掘が挙げられています。

 

二人の出会いは、尊皇攘夷運動を起こそうと江戸に出た渋沢栄一が、一橋慶喜の知遇を得ようと一橋邸を訪れたこと。

慶喜の謀臣の平岡円四郎に推挙され、慶喜に仕えることになりました。

 

栄一は、勘定組頭になり、

・米の流通

・特産の白木綿の販路開拓

・硝石の本格的生産工場を創設

・藩札を流通させる

など、才能をみせました。

 

渋沢栄一の類まれな能力に目を付けた慶喜と栄一は、直に話をし合う懇意な間柄になりました。

慶喜が将軍となると、昭武(慶喜の弟)をパリ万博に派遣することに。

 

栄一はその随行員の一人として渡欧。

このパリ留学体験が、後に、「日本実業界の父」と呼ばれるほどの功績を残していくのです。

 

つまり、慶喜は、間接的にではありますが、現在の日本で代表的な企業の発展に貢献したことになるのです。

 

そして、大隈重信に説得され政府役人となり、国の経済力向上に力を尽しましたが、その影で、終生にわたり慶喜へ様々な支援の手を差し伸べていました。

 

それから、大政奉還の真実を解き明かすことが渋沢栄一の任務でした。

慶喜の死後、相当の時期に発表するという約束で、慶喜自身に幕末の史実を聞きだしています。

 

全8巻から成る「徳川慶喜公伝」の編纂を成し遂げます。

渋沢栄一が常日頃から語っていたのは、「徳川慶喜公の名誉を回復しなければいけない」ということでした。

 

1868年(慶応4年/明治元年)

徳川慶喜の命により、勝海舟西郷隆盛は会談。

 

江戸城」(現在の東京都千代田区)を、戦うことなく新政府に明け渡すことを決意します。(「江戸無血開城」)

 

慶喜は、江戸約100万人の市民の命を守りたい想いで江戸無血開城を決めたのですが、江戸幕府が新政府に対して負けを認めるということなので、徳川慶喜は、「逆賊」とまで言われる程の悪評を残しました。

 

しかし、この決断こそが結果、東京を守ることに繋がったと現在では評価されています。

その、徳川慶喜の思いを誰よりも深く理解していた渋沢栄一。

 

徳川慶喜公伝」では、

侮辱されても、国のために命を以って顧みざる、偉大なる精神の持ち主」と徳川慶喜のことを評し、最高の敬意を表しています。

 

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