2019年NHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~』で三島弥彦役を生田斗真さんが演じます!
役どころは、金栗四三(中村勘九郎)の盟友で、金栗四三と共に日本で初めてオリンピックに出場した人物です。
あらゆるスポーツに秀で「運動会の覇王」と呼ばれた、日本人初のオリンピック選手とは、どのような人物なのか?
そして、どのような一生を過ごしたのか?
見ていきたいと思います。
目次
三島弥彦役を演じるのは生田斗真!
三島弥彦は、学習院の初等科から高等科に通い、中学から野球、陸上、ボート、スキー、柔道、水泳、乗馬などのスポーツに取り組み、実力を発揮します。
そんな三島弥彦の身長は170cm超え↑の長身!そして、東京帝国大学の法学部。
秀才でスポーツ万能な人物でした。
そんな「いだてん」の主要人物である三島弥彦を演じるのは、ジャニーズ事務所所属で俳優メインで活躍されている生田斗真さんです!
なんだか生田斗真さんのイメージにピッタリですよね。
生田斗真さんは、ジャニーズ事務所所属ですが、俳優&タレントというちょっと異色な方です。
ドラマや映画、舞台など活躍されていますが、最近のTV出演のイメージといえば・・・そう!CMでよく見ますよね。
「バスロマン」や「アリエール」は、結構長く続けていらっしゃいますよね~。
今回の役はスポーツマンの三島弥彦なので、今、正にトレーニングで肉体改造中!なんだそうです。
あんなにイケメンで筋骨隆々ってなったら・・・
きっと、さらなる女性ファンが増えること間違いなし!だと思います。
それと三島弥彦は、POTATOの川﨑皇輝君のひいひいじいちゃんなんだそうですーーー!!
で、斗真くんに似てるって言われることがあるって、ご本人言っておられるので、これは見た目も近いのか?!
・・・と、さらに見た目の完成度と、生田斗真さんの演技力に期待が膨らみます。
とにかく楽しみですね!
運動会の覇王と呼ばれた三島弥彦とは
三島弥彦は、1886年2月23日、東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)で、第5代警視総監だった父・三島通庸(みしま みちつね)が52歳の時の末子として生まれました。
兄は銀行家の三島弥太郎。
父は元薩摩藩士の警視総監(弥彦が2歳のとき他界。)警察内部の武術の振興に尽力していました。
父の三島通庸は、『西郷どん』でも登場した精忠組の一員で、あの寺田屋事件にも関与しています。
この事件で通庸は謹慎を命じられますが、のちに西郷隆盛の取り立てで藩に仕えました。
そして明治以降も、東京府参事や銀座煉瓦街建設の大任を果たし、明治政府の一員として活躍している経歴の持ち主です。
19歳年の離れた兄・弥太郎は、弥彦の少年時代には既に貴族院議員に当選し、後に、日本銀行の頭取になるくらい優秀でした。
おかげで、三島弥彦は生活に何不自由することなく育ったお坊っちゃまです。
学習院の時には、
・野球部でエース兼主将!
・ボート部では一軍選手!
東大時代には、
・スキー術!
他にも
・柔道二段
・乗馬
・相撲
・スケート
選手意外にも早慶戦で審判を務めています。
これほど様々なスポーツができたのは、持ち前の運動神経と、やはり家が裕福だから。といった事もあるでしょう。
東京帝国大学(現在の東京大学)でありながら、色々なジャンルのスポーツにも秀いでていたので「運動会の覇王」と呼ばれたそうです。
頭が良くて、スポーツマン!なんてスゴすぎやしませんかっ!!
当時の成人男性の平均身長は155㎝前後。
で、三島弥彦はというと、なんとっ!身長170㎝越えの長身!!
なので体格の面では相当恵まれていたといえるでしょうね。
1909年(明治42年)、野球好きの冒険小説家・押川春浪を中心にできた「天狗倶楽部」。
この「天狗倶楽部」は、野球の試合が始まりでしたが、メンバーは相撲、テニス、柔道、陸上競技、ボート競技などあり、三島弥彦もそのメンバーの一人でした。
そして、1912年(明治45年)、ストックホルムオリンピックが開幕します。
三島弥彦は旗手として開会式に参加。
しかし成績は、思うような結果を出せずに終わります。
翌年、帝大を卒業した三島弥彦は、兄・彌太郎のいる横浜正金銀行に入行。
そして、四年後のベルリン大会は第一次世界大戦で中止。
1920年に開催されたオリンピック・アントワープ大会は、弥彦にとって8年のブランクは大きく、予選会にも出場しませんでした。
結局、大学卒業以降、弥彦はスポーツ界から退き、1954年に死去するまで、ほとんどメディアには登場しなかったそうです。
三島は金栗と共に日本初のオリンピック選手だった
引用元:金栗四三の生涯
1911年(明治44年)にスウェーデンで開催される、ストックホルムオリンピックの代表選手を決める予選会が羽田運動場で行われました。
(羽田運動場は「天狗倶楽部」の尽力でできた日本初のスポーツ競技会場です。)
当初、三島弥彦はオリンピック予選会審判委員として来場するよう要請されていましたが、その要請には応じなかったものの、スポーツは好きなので観戦に出かけました。
で、本人いわく→「生来の好戦癖はムクムクと起って、到底ジッとして傍観しては居られぬ。久しく練習も絶えていたけれども、兎にも角にも交はって走って見やう」。
と、いう感情が沸いてきたようで、なんと予選選考会に飛び入り参加しちゃいます!
そして
・100m → 一位!
・400m → 一位!
・800m → 一位!
・200m → 二位!
という高成績をおさめたのです!
この時、三島弥彦は25歳。
他にも予選会で好成績をおさめた人もいましたが、予算の関係上、最終的にオリンピック選手に選ばれたのが、マラソン及び10000mの金栗四三と、短距離走は三島弥彦だったのです。
そして1912年(明治45年)、家族や天狗倶楽部、東京倶楽部(慶応義塾大学野球部OB会)のメンバーに見送られストックホルムへ出発。
当時は、ストックホルムまで2週間以上かかりました。
福井県からロシアに渡り、ウラジオストクからシベリア鉄道で西に進み、船で移動。
そして現地ではホームステイ。
着くまでに精神的にも肉体的にも、本当に疲れそうですね。
そんな中、7月6日ストックホルムオリンピックが開幕します。
そこで三島弥彦は、旗手として開会式に参加。
三島は、さっそく最初の100mの予選に参加しますが、いきなりトップと1秒以上の差をつけられ敗退となります。
この結果にすっかり落ち込んだ三島弥彦は、金栗四三に「日本人にはやはり短距離は無理なようだ」と語ったそうです。
日本にいたら一位だった三島弥彦。
そう思うと三島はこの時、初めて負けたのかもしれませんね。
だとすると、相当気持ちは沈んだ事でしょう。
その後も、
・200m予選 → 最下位。
・400m予選 → 米選手が棄権し、準決勝進出の権利を得ますが、足の痛みが激しく棄権。
競技種目について情報が伝わっていなかったので、現地で競泳種目もあったことがわかり、スポーツ万能の三島弥彦は悔しがったという話もあったりします。
さて競技を終えた三島弥彦は、嘉納団長、金栗四三と共に四年後のベルリン大会での雪辱を誓い合い、閉会式を待たずドイツに向かって、次大会の会場を視察しました。
この時、日本ではまだない槍や砲丸といったスポーツ用品を購入し帰国します。
しかし四年後の、オリンピック・ベルリン大会は、第一次世界大戦で中止となってしまいます。
中断期間を経て開催された1920年の、オリンピック・アントワープ大会。
この頃既に、オリンピックに出場できる肉体でなかったのか、気持ちが大会に向かなかったのかはわかりませんが、予選会にも三島弥彦は出場しませんでした。
育ちがよかったからか、三島弥彦の性格はスポーツマンにしてはおっとりしていて、楽天家で陽気なうえに、度量が大きく、些事に無頓着なあくまでも鷹揚な人であると、天狗倶楽部の中心人物・押川春浪は評しています。
また、学生や若者から人気が高かったことから、その人柄が伺えます。
そんな性格だったからこそ、たくさんのスポーツを楽しみながら取り組む事が出来、そして好成績を残せたのでしょう。
金栗四三役は中村勘九郎!いだてんの意味とマラソン人生を紹介!