NHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』で、徳井義実さんが、なんとあの「東洋の魔女」率いる大松博文監督を演じるられます!
大松博文監督はスパルタで有名ですが、温かく人間味溢れる素敵な方で、人望もあつかったようです。
どんな方だったのか、名言、スパルタっぷりも含め見ていきましょう。
目次
大松博文を徳井義実が演じる!
全日本女子バレーボールチームを東京オリンピックで金メダルに導いた監督、大松博文をお笑い芸人「チュートリアル」ボケ担当の徳井義実さんが演じます!
徳井義実さんがなぜバレーの監督役???と、思われた方もいるかもしれませんが、何を隠そう徳井さんは学生時代バレーボール部に所属されていて、バレーボール通でもあるんです!
身長も、まぁまぁ高くて178cm。
しかも、イケメン!
よしもと男前ランキングで殿堂入りをしています。
今もモテてますけど、若い頃もモテてたんでしょうね。
つまり、ドンピシャな役どころってなわけなのです!
大松博文監督は「鬼の大松」で知られるくらいのスパルタ練習が有名なのですが、徳井さんは甘いマスクなので「鬼」みたいに見える厳しさを出せるのかは気になるところです。
でも、そこも大丈夫!
徳井さんは芸人さんですが俳優としてもお仕事されてます。
俳優、映像の編集、アーティスト、イラスト、家電芸人、猫好き芸人などなど、色々な顔をもつ多才な方でもあるんですよねー!
なので、表現力は期待できそうです。
どんなふうに演じられるのか楽しみですね。
東洋の魔女を育てたのは大松博文?
画像引用元:http://www.ssf.or.jp/history/Olympic_legacy/tabid/1735/Default.aspx
東京オリンピック女子バレーボール監督大松博文(だいまつ ひろぶみ)は、日本女子バレーボールチームに金メダルに導いた人物でもあります。
彼と「東洋の魔女」との関係を見ていきたいと思います。
大松博文は、関西学院大学卒業→ニチボーに入社という経歴の持ち主。
その後、陸軍に召集。
ビルマで無謀と言われた「インパール作戦」に従軍しました。
インパール作戦は、別名「白骨街道」とも呼ばれるとても悲惨な戦場…。
生死をさまよって生還した数少ない一人です。
このときから「オレについてこい!」精神があり、「インパール戦線」では英軍の捕虜となっているのです。
「やるからには勝たねばならない!」が本当の意味で身に染みている人でもあります。
「鬼」と呼ばれた大松博文は、この軍隊経験が原点となって考え方や性格を変えていった。と言われています。
終戦した後、大松は大日本紡績に復帰します。
大日本紡績で大松博文が監督に
昭和29(1954)年。
大日本紡績の貝塚工場に女子バレーボールチームが発足。
大松は監督に就任します。
そして社内の女子社員3,000人から選手を集めました。
「強くなるには練習のみ!」という考えから、すぐに猛練習スタート!
連日の夕方~深夜。。。休みなく続く練習…。
それも「鬼」のようなトレーニング。
よくみんなついていきましたよね。
それもすごい!
その結果、
・全日本総合。
・全日本実業団。
・都市対抗。
・国民体育大会。
の日本国内四大タイトルを独占しました。
そして、1961年ヨーロッパ遠征→全勝。(22連勝)
チームを「東洋の魔女」と呼ばれる程にまで成長し、恐れられました。
同時に、スパルタ式の練習で選手を育てる大松博文のことを「鬼の大松」とう呼び名で広く知られるようになり、その後、日本女子バレーチームは奇跡の175連勝をし、世界に知られるようにまでなりました!
1962年 第4回女子世界選手権で優勝。
宿敵ソ連(現ロシア)を破っての、悲願の優勝を果たしました!
優勝したご褒美は、『世界一周旅行&・監督と選手の引退』。
(チームが結婚適齢期を迎えた時期だったので。)
東京オリンピック出場
1964年、東京オリンピックから女子バレーボールが正式種目になることが決定。
で、引退表明後「オリンピックまで続けて!」という周囲の声があり、悩んだ挙げ句、大松博文と選手達はオリンピックまで続けることを決めたのです。
オリンピック出場まで2年。
そうして再び猛練習がスタートします!
この間の選手たちのスケジュールは、
・午前中社業に従事。
↓
・16:00~26:00練習。
(といっても、24:00に終了を予定していた練習が一時間延び、一時間半延び…。と、増えていきます。)
当然睡眠時間は減っていくという…。
すると労働組合が問題視し「大松をやめさせろ」と会社に申し入れがあったほど。
でも、ハードなのは選手だけではありません。
大松博文は16:00まで社業し、練習に合流。という選出も監督もハードな日々。
チームにはコーチがいなかったので、練習の時には監督一人でボールを打ち続ける姿が、選手たちの心を掴み、絆となっていったのです。
そして迎える1964年、東京オリンピック。
全日本女子バレーボールチームを金メダルに輝かせました。
世界では圧倒的な強さを誇っていたソ連相手に、守備を重視した戦法「回転レシーブ」により、見事優勝を勝ち取りました!
おもちゃを見ていて思いついた秘策のレシーブだったそうです。
マスコミに「魔法使いのようだ」と書かれるほど斬新な技で、当時の流行語も…。
・「鬼の大松」。
・「黙ってオレについてこい!」。
・「スパルタ練習」。
・「回転レシーブ」。
・「東洋の魔女」。
と、全日本女子バレーボールチーム関連のフレーズが多いこと。多いこと。
日本中が盛り上がり、どれだけの注目を集めていたかがわかりますね。
オリンピックに向けて練習を始めた時、大松博文は、
「私は勝たなければならない。絶対に勝たなければならない。
選手も私もやる気になった。
これまで私たちはあらゆる苦闘を味わってきたが、今はあの過去の猛練習以上のことをやらなければならない。
そうしてオリンピックでの優勝があるのだと思った。」
と、語られています。
スパルタの練習スタイルは「鬼の大松」言われ、当時、反対派もいたようなのですが、彼は魔女たちだけに鬼になったわけではありません。
自分自身に対しても、とても厳しい鬼でした。
それは、全ては勝つためだけに…。
一つの目標を掲げている姿勢はチームみんなも同じだったということです。
初めは練習を辛く感じたことも皆さんあるようですが、それを乗り越えられたのは、大松博文の姿勢と人柄ではないかと思います。
厳しくもあり、温かな人でもあり、包容力もあり…。
今思えば、素晴らしい監督だった。と振り返る人は多いです。
「東洋の魔女」は大松博文が育てたと言っても過言ではありませんね。
大松博文の名言は『根性論』?
「東洋の魔女」を率いたバレーボール女子監督・大松博文。
彼の代名詞は「根性論」。
なぜそう言われるのかというと、
【 スパルタ式の指導法 】
叱り→選手を成長させる。
この指導法に対して賛否はありますが、選手との間にあった絶対的な信頼関係。
なかなか作れる人間関係ではありません。
卓越したリーダーシップを発揮し、東京オリンピックで金メダルをとりました。
座右の銘は「率先垂範(そっせんすいはん)」。
率先垂範とは、『人の先頭に立って物事を行い、模範を示すこと。』
大松博文は選手と苦楽を共にしました。
1964年東京オリンピックで金メダルに輝いた後、出版された『誰のために生きるか』。
こちらに「根性」に関する記述があります。
「人生航路は常に突風あり、暗礁ありで、予期しない出来事が発生するものです。ですから、それに堪え、打ち勝つ精神を持つことが必要なのです。この精神こそ根性というべきもので、人間だけがもち、最後の喜びをもたらすところの尊い無限の力なのです」
選手たちは大松博文のことを「先生」と呼んで、とても慕っていたそうです。
反対に大松博文は選手たちのことを、その時その時に付けた愛称で呼んでいて、自然と緊張感が和らぎユーモアから親近感が生まれていったといいます。
ひたすら厳しかっただけ…。というわけでなかったようですね。
オリンピックに初めて出るとき、未知の体験をこれからしようというときにある不安と、日の丸の重圧を感じていたと言います。
これは、私たちの想像をはるかに越えるものだった。と思います。
それでも、猛練習をしたことで「これだけ練習したのだから大丈夫」という自信に変わったそうです。
大松博文は「鬼の大松」と呼ばれていますが面倒見のいい性格で、東洋の魔女たちが引退したあとも気にかけ、4人の選手は結婚相手を大松博文の紹介で見つけたといいます。
怖いエピソードばかりではなく、ほっこりエピソードもたくさんある彼は、人の心を掴むのが上手い真の名監督ではないでしょうか。
そんな大松博文監督の名言はいくつかありますが、特に口癖のように言っていた事。
それは、
「1日休むと2日損する。
1日休むと、まず休んだ1日分だけ損をする。
そして落ちた体力と技術を取り戻すために、もう1日使う。
合計して、2日間損をすることになる。」
時代が変わったと言われる現代でも学ぶべきことがたくさんありそうな気がしますね。
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