NHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~』で、内閣総理大臣・池田勇人が登場します。
池田勇人は、所得倍増計画を打ち出した内閣総理大臣としては勿論ですが、失言安堵名言などでも知られている人物でもあります。
この池田勇人の役を今回『いだてん』では、立川談春さんが演じられます。
総理大臣っぽい風格や噺のプロの方なので、演説シーンみたいなのもあったら見応えありそうですね。
目次
『所得倍増計画』を打ち出した池田勇人ってどんな人?
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
『所得倍増計画』を打ち出した池田勇人として知られていますが、彼は一体どんな人だったと思いますか?
内閣総理大臣まで上り詰めた人なので、ワンマンなイメージをもたれることもあるかもしれませんが、結構人間味溢れる方だったようです。
では、エピソードを少し…。
どんな人だったのか、簡単にご紹介したいと思います。
池田勇人は、とても優秀な人だったようですが、あまり本を読タイプではありませんでした。
では、どこで知識を得ていたかというと、様々な分野の
・専門家の人。
・知識人。
・財界の人。
・官界の有力者。
といった方々の意見を直接聞いて知見を広げ、色々な考え方や知識に引きずられることなく、最終判断は必ず自分で下し、進むべき方向性を見いだしていった人物です。
なんだか彼の凄さがわかりますね。
あと、彼の抜群の記憶力には定評があります。
大蔵省に入った池田勇人は、数字を丸暗記していったそうです。
そのうちに、
・数字の面白さ。
・数字の持つ意味。
などを知り、数字への関心を高めていきました。
頭のなかには常に石炭、電力、米などの生産量や推移、物価指数、などの数字が頭の中にあり、日本経済の将来像を見抜く力を養っていくことが出来ました。
そして、企業の進むべき方向性を示すことができ、経済政策にも強い自信がありました。
池田勇人は総理大臣になる前は、元大蔵官僚ですが、病に倒れ退職しています。
その後、新規採用扱いで再び大蔵省に入省という苦労人でもありますが、最終的には事務次官まで務め上げた実力者であります。
実は池田勇人は、吉田茂の腹心で「吉田学校」の優等生。
官僚生活を経て、1949年に衆院選で政界入るといきなり吉田内閣の大蔵大臣に抜擢されます。
・大蔵大臣。
・通産大臣。
・自民党幹事長。
・政調会長。
などを歴任しました。
そして岸内閣の退陣後、1960年(昭和35)に池田勇人は自民党総裁選に出て、見事内閣総理大臣になりました。
そして、1964年(昭和39)東京オリンピック閉会式の翌日に、療養のため内閣総理大臣から退陣表明しています。
池田勇人総理の内閣
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
「新安保条約」の強行採決を経て、岸信介首相辞任後、日本は「政治の時代」→「経済の時代」へと本格的に移行します。
岸内閣の退陣後、池田勇人は自民党総裁選に出て、1960年に内閣総理大臣となりました。
池田勇人は演説の名手としても知られます。
「経済は池田にお任せください」
「月給を2倍にします」
・わかりやすい言葉を使う。
・聴衆の感情に訴えかける。
聴衆のハートをキャッチする演説は卓越したものがあったと言われています。
1955〜1973年までを日本の経済史では「高度経済成長期」と呼ぶのですが、そのかなりの部分は、池田勇人の政策や外交努力の数々の功績だと言われています。
そして、内閣総理大臣になり、打ち出した政策が「所得倍増計画」。
池田勇人が得意分野だった「経済」に活路を見出すことにしたのです。
日本は彼の経済改革によって一流の国家へと変貌を遂げたのですが
首相なのだから当然のことでは?
それの何がすごい?
と思われた方も多いのでは?と思います。
実はこの時代の首相で経済政策を全面に押し出す首相というのは、殆どいなかったのです。
それは、
・不況でもないのに経済しか見ないのはどうか。
・政治家は政治をしっかりする。
という考え方が当然のことだったので、経済は政治のほんの「一部」にしかすぎず、経済関連のことは
・大蔵省。
・経済企画庁。
・日銀。
の仕事という考えでした。
池田勇人は、戦後、軍隊のない日本。
日本のアイデンティティ = 政治<経済 という明確なビジョンを持っていました。
なので、この「所得倍増計画」という経済政策は本当にすごい政策なのです。
池田勇人は「所得倍増計画」により、高度経済成長を遂げ「経済大国ニッポン」をつくり、また経済政策は国内だけでなく外交面にも及び、外交面の課題に次々と取り組みました。
結果、1963年 GATT11条国への移行。
(GATT=関税と貿易に関する一般協定)
世界の自由貿易の守護神的な協定で、12条国→保護貿易の許される途上国扱い国。
11条国→先進国扱いの国々。
リスクとしては、外国製品に日本市場を荒らされることも考えられるが、日本製品を優秀にして外国にどんどん売れるようになる。
・1964年 IMF8条国への移行。
(IMF=国際通貨基金)
世界の通貨体制の守護神的な組織で、14条国→通貨交換の制限が許される途上国扱いの国。
8条国→それを認めない先進国扱いの国。
・1964年 OECDへの加盟。
(OECD=経済協力開発機構)
OECD→西側先進国で作られた先進国クラブ。
アジアから初めて加盟を認められ、日本は晴れて先進国の仲間入りをしたのです。
他にも、時代は1958年~61年。
・東京タワーが完成。
・民放テレビ局が次々と開局。
・巨人の長嶋茂雄4打席4三振でデビュー。
・南極昭和基地のタロー、ジローの生存が確認される。
・フラフープが大流行。
・イカす、シビれる、などの言葉が流行。
・スバル360やスーパーカブが街中走る。
・ファンタ、チキンラーメン発売。
といった頃。。。
輸入 & 輸出と無関係の好景気がやってきます。
それが「オリンピック景気」!
1959年 第55回IOC(国際オリンピック委員会)総会にて、日本は1964年の東京オリンピック開催を射止めたのです。
祭典まで5年。
一大イベントが東京で開かれるとなれば、日本が戦後丸出しの国のまままでは恥ずかしい…。
大急ぎで国内を綺麗にせねば!と、政府は「東京オリンピック組織委員会」を結成。
オリンピック開催に必要な整備を大々的に始め、
・日本武道館。
・国立競技場。
・ホテル&宿舎。
・観光施設整備。
・東海道新幹線&首都高速道路&営団地下鉄
を造りました。
あんなこんなで一兆円近くの大金が動き、しかもその多くが社会資本の整備。
つまり一兆円規模の公共事業を行ったのと同じ形となり、景気浮揚効果で、岩戸景気後のわずかな不況を払拭したのです。
輸入に頼らない国内完結型の好景気で、日本経済はさらに躍進。
世界45ヵ国に戦後日本の奇跡の成長ぶりを見せつけたのです。
東京オリンピック閉会直後の1964年10月に、池田勇人は病気を理由に辞任します。
そうして翌年、池田勇人は亡くなりました。
池田勇人は失言の様な名言が多かった?
池田勇人は、日本が一流の先進国になるための基盤づくりに貢献した人物だったことはおわかりいただけたかと思いますが、同時に失言の様な名言が多かった人でもあったようです。
ちなみにニックネーム は、
・失言大臣。
・放言大臣。
数々の功績をあげているのにも関わらず、このようなニックネームがつくということは相当の失言…。
いや名言を残していそうですね。
いくつかご紹介しましょう。
- 「貧乏人は麦を食え」
- 「中小企業の5人や10人自殺してもやむを得ない」
これは国会で池田勇人が発言したのを曲解されて新聞報道された失言。
そして辞任に追い込まれています。
この時「池田は高姿勢だ」と国民の反発を買っています。
ですが、暴言を吐くイメージを逆手に取って、嘘のつけない正直な首相という体で所得倍増計画の説明をし、「私は嘘は申しません」の名言を残しています。
◎ 数字が得意で何でも数字に置き換えて説明する癖くせがあり、周囲はうんざり…。というエピソード。
◎ 国のためになるなら電信柱にすら頭をさげるつもりで総裁になったのだ。
「寛容と忍耐」(政治理念)は、総理就任後、池田勇人が周囲に語った言葉です。
池田勇人は豪放な性格に加えて失言があり、高飛車な政治家だ!総理に不適格だ!という声もありましたが、それもこれも池田勇人の魅力の一つとなっていたように感じますね。
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