橘家圓喬(たちばなや えんきょう)は、明治時代、東京で絶大な人気を誇った伝説の落語家です。

大河ドラマ『いだてん』では、松尾スズキさんが演じられます。

 

橘家圓喬は、どん底にあえぐ古今亭志ん生の才能をただ一人見抜き、最初の師匠となった人物です。

落語の神様と呼ばれた「古今亭志ん生」が、生涯を通して自分の師匠は橘家圓喬だ!と仰ぎました。

 

普段は物腰柔らかい橘家圓喬ですが、一度芸のこととなると一転!

相手が先輩であろうが、後輩であろうが妥協せず毒舌を吐くので、人付き合いは決していい方とは言えません。

 

ですが、芸に対する熱い思いから、自分の弟子であろうがなかろうが、芸の話になると熱血指導するほど全力投球。

次に出番があっても時間を忘れて話し込んじゃうなんてこともあったようです。

 

真摯に向き合う姿勢からは、芸を愛する者同士分かち合える部分があったのかもしれませんね。

不器用ですがどこかにくめない橘家圓喬の生き方は学ぶべきところが多いように感じます。

 

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目次

落語家・橘家圓喬(たちばなや えんきょう)

 

落語家・橘家圓喬(たちばなや えんきょう)

画像引用元:http://blog.livedoor.jp/bunnzaemon/archives/11509495.html

 

橘家圓喬(たちばなや えんきょう)は、明治時代の伝説の落語家です。

落語の神様」と呼ばれる古今亭志ん生が、生涯師匠と仰いだのが橘家圓喬です。

 

橘家圓喬(本名、柴田清五郎)は、1865年(慶応元年)東京で生まれました。

父は政府のお役人さんです。

 

家の近くに義理の姉の婿(4代目橘家圓太郎(「ラッパの圓太郎」))が住んでいて、叔父が三遊亭圓朝の贔屓客という関係ということもあり、幼少期から寄席に出入りしていたそうです。

そういった事もあり、どんどん落語の魅力の虜となっていきました。

 

そして橘家圓喬は、三遊亭圓朝門下に入門し、1872年7歳で才能を発揮し、なんと落語家に!

名は、三遊亭朝太

 

落語家・橘家圓喬(たちばなや えんきょう)

 

生意気だ!と仲間内からのウケはわるかったようですが…。

そして次第に力をつけ、1878年、13歳の時には二つ目の昇進をして「二代目三遊亭圓好」と改名。

 

この頃から4代目三遊亭圓橘の助言で、素噺(すばなし)に転向。

落語家としての実績を積んでいきますが、協調性がなく、仲間内の評判が悪く東京を離れることに…。

 

1882年、東京を離れ焼き物師を志し、京都へ。

道中、立花家橘之助の一座に出会い帯同(一緒に行く)、上方落語を経験してから3年程経った、1885年兵役検査で東京に戻ります。

 

1887年、22歳頃に四代目三遊亭圓生の引き立てで「四代目橘家圓喬」を襲名し、真打に昇進となります。

 

圓朝門下の逸材で師の名跡を継ぐといった話もあり、実力は十二分にあったので「二代目三遊亭圓朝」の名を継いでもおかしくなかったとも言われますが、性格が災いし立ち消えになったとか…。^^;

 

長編人情噺、三題噺、上方系の噺に至るまで多芸を誇っていました。

小説家・小島政二郎に「圓喬よりもうまい落語家はいない」と言わしめ、その語り口は誰にも真似できなかったもののようです。

 

ちなみにこの「橘家圓喬」の名跡も、その後「止め名(同亭号の中の最高位の名跡)」になっている程なので、本当に上手い噺家だったことがわかります。

そして、日本橋瀬戸物町の伊勢本で真打昇進披露。

 

1903年「第一次落語研究会」が発足。

橘家圓喬は、それに参加します。

 

落語家・橘家圓喬(たちばなや えんきょう)

 

芸を極め、誰もが認める名人として確固たる地位を築きました。

しかし、芸を磨き昇進したからと言っても、性格というものはなかなか変わるものではありません。

 

気に入らない相手には、

・攻撃的。

・公然と悪口を言う。

など、周りの人と仲良くできず…。

 

ですが、芸に対しては、

・実に真剣。

・妥協しない姿勢。

・噺(はなし)の指摘を受けると正座してお礼をする。

など、本当に芸に対しては真摯な方で別人のようでした。

 

橘家圓喬の凄さって?

 

さて、悪評が際立つ橘家圓喬ですが、人情に厚い面もあったそうです。

関西時代の仲間が上京して、苦労しているのを見ると、

 

さて次に上がりまする右女助は大阪から来たばかりなので、よろしくおひきたてのほどをお願い申し上げます。

 

と、自分が高座から降りる際に、毎回フォローする言葉をかけたり、弟子ではない後輩に稽古をつけるなど、面倒見の良い面もあったとか…。

 

で、橘家圓喬の何が凄いっ!って?!それはやっぱり・・・

落語の名人!と呼ばれる

 

・五代目 古今亭志ん生。

・八代目 桂文楽。

・六代目 三遊亭圓生。

 

が、橘家圓喬を高く評価しているところではないでしょうか。

 

橘家圓喬の高座が終わると、しばらく余韻が残る程。

誰も次の高座には上がりたがらないのだそうです。

 

橘家圓喬の凄さって?

 

晩年は「お富さん」で知られる日本橋住吉町の玄冶店に住んでいたので「住吉町の師匠」とか「住吉町さん」とか「玄冶店の師匠」とか呼ばれていたそうです。

 

しかし、1912年11月16日、新宿末廣亭で高座にあがったその6日後、宿痾の肺病のため死去。

46歳でした。

これが最後の高座となりました。

 

六代目圓生も「自分が聞いた噺家のうちではっきり名人といえるのはこの四代目橘家圓喬ただ一人である。」と絶賛しています。

 

鰍沢」「双蝶々」「牡丹燈籠」といった大作を得意とした橘家圓喬。

いずれも絶品とされています。

橘家圓喬の技量がどれだけ抜きん出ていたかが伺えますね。

 

橘家圓喬が伝説の落語家と言われるのは?

 

橘家圓喬が伝説の落語家と言われるのは?

 

鰍沢(かじかざわ)」(日蓮宗がらみの噺。三題噺の傑作です。)は、四代目橘家圓喬が得意とした落語です。

その高座は伝説と化して、こんな証言が残されています。

 

 八代目桂文楽 

「・・・耳にこびりついているから、演れったってとても出来はしませんよ。・・・急流のところでは本当に激しい水の流れが見え、筏が一本になってしまうのも見えた。」

 

 五代目古今亭志ん生 

「さっきまで晴れていたのが雨音がする。『困ったな』と思ってたら師匠が鰍沢の急流を演ってた。」

 

 小島政二郎 

胴巻の金(腹に巻きつける帯状の袋)を見つけ「それを見逃すおくまではない。」と、じろりと見る流し眼のよさ。凄さ。

 

 六代目三遊亭圓生師匠 

圓喬の「鰍沢」を意識していて、金子を見つめるお熊の一瞥(ちらっとみる事)を「ここが眼目です。」と述べ、「自身の腕をどこまでできるか試すために演じている。」

(圓生師匠の最高の演目とされています。)

などなど…。

四代目橘家圓喬は、それだけ名人だった。ということです。

 

鰍沢」は、三遊亭圓朝作の三題噺で、日蓮宗(身延山)がらみの噺なのですが、壮大な雰囲気があって、わくわくする…。

景色が見えるように噺す名人の名演が伝説になっています。

 

圓朝は芝居噺を捨て、素ばなし一本で名人に上り詰めました。

そして「鰍沢」も人情噺として演じられることが多くなり、現代にも受け継がれています。

 

近年では六代目円生、八代目正蔵に正統が伝わり、五代目志ん生も晩年好んで演じました。

 

しかし、明治の四代目橘家円喬の迫真の名演は、今でも伝説的なのです。

 

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橘家圓喬と似ている美濃部孝蔵(古今亭志ん生)

 

美濃部孝蔵(古今亭志ん生)は本当に弟子だったの?

 

若い頃、古今亭志ん生は橘家圓喬に弟子入りしています。

志ん生は橘家圓喬が亡くなった後も何人か師匠を持つことになりますが、生涯を通して「橘家圓喬が自分の師匠」だ!と尊敬し続けたそうです。

 

橘家圓喬は、人付き合いがあまりとくいではありませんでしたが、そういうところは古今亭志ん生も似ていますね。

 

古今亭志ん生は、ばくちや酒が大好きだった逸話があり豪快な人物ですが、橘家圓喬に弟子入りしてきた時は古今亭志ん朝の事をどんな人物だと感じたのでしょう?

きっと、その豪快そうな性格に驚く事も無かったのでしょうね。

 

2人とも周囲と協調しようとせずに、嫌われることも多かったですが、芸への熱い思い、真剣さ、真摯さ、は誰よりもあるところなどから、分かち合える気持ちがあったり、惹かれる部分があったのかもしれません。

 

古今亭志ん生は、橘家圓喬の技量だけではなく、生き方も尊敬していたのでは。

そう感じるのは私だけでしょうか。

 

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