篤姫が徳川家定に嫁ぐ事は、すんなりと決まった話ではありませんでした。
徳川家定の母である『本寿院』の意見は重要だった様です。
やはり、姑を味方につける事って大切なんですね。。。
今回、本寿院役を演じるのは泉ピン子さん。
怖そうな姑になりそう。って感じですが。(^_^;)
目次
篤姫が輿入れに至るまで
島津斉彬は、13代将軍・徳川家定に篤姫を嫁がせ、更に幕政に関与しようと画策します。
反対する者もおり、なかなか思うようにことは進みませんでしたが、篤姫の教育係の幾島を使い、家定の母、本寿院を口説き落とし、篤姫の輿入れを成功させます。
篤姫を迎え入れましたが、本寿院は次期将軍後継者に関して、大奥から嫌われる徳川斉昭の子・一橋慶喜を擁立することには反対でした。(斉彬は一橋慶喜派)
篤姫は夫の家定に言い聞かせ、何とか一橋慶喜を次期将軍にすることを決定させましたが、喜びもつかの間、家定が病床に臥せてしまいます。
その途端大老になった井伊直弼が、徳川慶福を次期将軍にすることを発表したのです。
篤姫は必死に抗議しましたが、徳川慶福は家定のお見舞いに来てくれたので、本寿院と乳母・歌橋は、すっかり気に入ってしまいました。
一橋慶喜は一向にお見舞いに来ず。
なので、当然ですが本寿院は嫌悪感を露わにして完全に形勢逆転。
こうして「南紀派」の勝利が確実となりました。
幾島が本寿院を味方につけたおかげで篤姫が徳川家定に輿入れできたまでは、戦略通りだったのに…。
床に伏せるとは誰が想像したでしょう。
しかもこのタイミングで…。
こののち徳川家定は35歳の若さで亡くなりました。
篤姫は数奇な運命に本論され、徳川家で生きると決意を胸に…。
戦争などの戦には出ないものの、女性も戦っていた幕末。
凛とした女性だったのだと、改めて感じました。
本寿院とは
そもそも本寿院とは、どんな女性か。
生まれは1807年、父は跡部惣左衛門正寧(諸説あり)。
実名は「美津」か「堅子」です。
1822年15歳になった美津の人生に転機が訪れました。
西ノ丸大奥へ出仕を始めるため、姉のところに泊まりに来ていると偶然、第12代将軍・徳川家慶の御中臈(おちゅうろう(将軍の側室候補にあった大奥の役職。))候補のお目見え(面接)が行われたのです。
もし選ばれたら一気にスターダムに、のし上がる事も!!
と、このとき面接を受ける予定の一名が欠席していて、担当の人が「妹を貸してくれ」と姉に頼み、襖の陰から眺めていた家慶が気に入り、お美津はそのまま側室となるのでした。
このとき家慶には、他にも側室はいましたが、
さらなる幸運が…!!
それから約2年たった1824年、西ノ丸大奥にて政之介(後の第13代将軍・徳川家定)を出産しました。
(家定の他に男児を二人出産しましたが早世しています。)
紛れもなく将軍様の生母となり、本寿院に十人扶持が与えられました。
家慶は、14男13女合計27人のたくさんの子どもに恵まれましたが、成人したのは四男・家定のみ。
そのため、母・本寿院は他の側室とは別格扱いになり、次期将軍生母として「御年寄(老女)上座」に出世したのです。
出自すらハッキリしないのに、ここまでのぼり詰めたのは、いくつもの幸運が重なったからだといえるでしょう。
一つ目は、将軍家継嗣の徳川家慶のお眼鏡にかなったこと。
二つ目は、無事妊娠、男子を出産し成人できたこと。
三つ目は、成人した男児が将軍後継者となったこと。
この時代、子どもが無事に成人するのは、大変なことでしたので、成人できたことは素晴らしい幸運なのです。
美津は、子育てに関しては乳母の歌橋に任せていたので大奥では「お部屋さま」(側室のこと)と影で言われていました
しかし、唯一成人した家定も子ができず、苦難の日々が待ち構えていました。
そして家慶が死去。
家定が将軍に即位。
13代将軍・徳川家定の生母として本丸大奥に居を構えました。
もともと家定は病弱で体が弱く、極度の人見知りで人と会うのは大の苦手。
第13代将軍の徳川家定は既に青年ですから、立派に政務を行わなければなりませんが、黒船来航後で、てんやわんやの幕府を切り回す将軍様には鋼のメンタルが必要でした。
残念ながら家定にそこまでの器はなく、代わりに老中・阿部正弘が奔走します。
『西郷どん』では藤木直人さんが演じていますね。
【西郷どん】阿部正弘役の藤木直人!イケメンさに大奥でも人気者!
よく二番手が大事!!と言いますが、残念だったのは幕府のメンバー。
阿部以外の老中は使い物になりません。
なので将軍就任してすぐ次期将軍問題が持ち上がります。
しかも、その阿部も間もなく急死し、家定は国の舵取りもしなければなりませんでしたが、何より徳川家のためにお世継ぎを作らなければならず…。
とはいえ体は弱く、正室を2人立て続けに亡くしてしまうという不幸が続き、側室との間にも子ができませんでした。
幕府内は外交問題などもあり「南紀派」と「一橋派」の抗争に発展していく最中、家定は死去。
14代将軍は本寿院や大奥が支持した紀州藩主・徳川慶福(家茂)が迎えられました。
その後も本寿院は1868年の江戸城無血開城まで大奥に留まっていたそうです。
城を出た本寿院は、天璋院(篤姫)と共に一橋邸に移り平穏な余生を送り1885年死去。
享年79歳でした。
大河ドラマ【西郷どん】では本寿院が篤姫の輿入れを決定づける
篤姫に徳川家との婚姻で話があがったのは1850年頃。
当時、家定は公家から二人の正室を迎えていましたが、子どもができず、二人とも相次いで亡くした事情があり、体の丈夫な家系である島津家の女性を正室に迎えてみようと婚姻を持ちかけたのでした。
そこで白羽の矢が立ったのが、島津家の分家の子、篤姫です。
しかし本寿院は、『分家の出である篤姫は側室で十分』というのです。
島津斉彬は正室に迎え入れられるために、篤姫を斉彬の養子として迎え体裁を整えました。
さらにそこから、老中の阿部正弘に働きかけ、公家で五摂家の一つである近衛家の養女としてもらうことにします。
このとき朝廷工作を行い、近衛家に接近したのが西郷隆盛であったとされています。
こうして6年の準備を経て、1856年に篤姫は徳川家に輿入れしました。
大河ドラマ【西郷どん】では、篤姫が正室になるため、色んなやり取りが行なわれますね。
本寿院が家定の妻に望むことは、家定は二人の妻に先立たれているので、家定より長生きできる妻。
幾島は、篤姫の長所は「丈夫な体」「運が強いこと」とピーアールすると、本寿院は「ならばその運に乗ってみよう」と後押しすること約束してくれます。
その後、本寿院は阿部と井伊直弼同席のもと、御台所候補者の絵を並べ、家定に選ばせることにしました。
本寿院は家定に「死なない命はない。しかし体が丈夫で運が強いのはこの姫です」と言って篤姫の絵を見せると、家定は「そうか。これにする」と言います。
阿部はすぐに準備を進めると言いますが、井伊直弼はこの決め方に反論しました。
本寿院は「家臣の分際で異を唱えるのか」と井伊を叱り、黙らせ、ついに家定と篤姫の婚儀が決定したのです。
ここまでは、篤姫や島津斉彬らの思惑が順調に進むだろうと予想されていたでしょう。
しかし、先程も書きました様に、一橋慶喜が次期将軍になる事は叶いませんでした。
一橋慶喜が将軍になるまでには、たくさんの困難があり、それには本寿院も関係していたのでしょうか。
本寿院というか、大奥から嫌われてしまう事は大きな損害に繋がる事だったかもしれません。
いつの時代も、女性は怖い。。。という事でしょうか。(^_^;)
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