黒田官兵衛(孝高)は、豊臣秀吉に仕えた軍師・竹中半兵衛と共に「両兵衛」とも言われていた程の武将です。
記憶に新しいところでは、2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』で、V6 の岡田准一くんが演じた黒田官兵衛(孝高)格好よかったですよねー。
あのドラマでファンになった方も多いのではないでしょうか。
織田信長から豊臣秀吉へ仕えた、黒田官兵衛(孝高)の人生とはどのようなものだったのか。
さっそく見ていきましょう。
目次
織田信長の家臣となる
黒田官兵衛(黒田孝高)は、1546年(天文15年)播磨国(現在の兵庫県南部)の姫路で誕生しました。
父は、播磨城主・小寺政織(こでらまさもと)の重臣・黒田職隆(くろだもとたか)。
この頃、父は播磨で勢力を誇っていた小寺氏の家老でした。
母は、小寺政織の養女(明石宗和の娘)の「岩姫」(いわひめ)です。
父・職隆は有能で、小寺姓を名乗ることを許され、小寺職隆として支城・姫路城代となりました。
黒田官兵衛は、7歳で読み書きを習い始めており、この時には、すでに頭脳明晰の子どもだったようです。
しかし、単に頭がいいだけの子どもではなかったようです。
1561年(永禄4年)
小寺氏当主の小寺政職(こでらまさもと)に仕え、
1562年(永禄5年)17歳
VS 浦上宗景(うらがみむねかげ)で、初陣。
この頃の官兵衛は、連歌、和歌を好んでおり、この道を究めたいと考えていたようですが、僧の諌めにより、兵法、武道を学ぶようになります。
そして戦が落ち着くと、連歌活動再開。
本当に好きだったようですね。
1567年(永禄10年)22歳 黒田家の家督を継承。
小寺氏の家老となりました。
光姫(てるひめ・播磨国志方城主・櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘)
を正室とし、翌年、嫡男・黒田長政が誕生。
幼名 → 松寿丸。
官兵衛はこの時代には珍しく、一人の正室のみを愛し、側室を持ちませんでした。
1575年(天正3年) 官兵衛がいた播磨国は、東に織田家と西に毛利家に挟まれる位置にあり、播磨の小寺氏は生き残りをかけ、どちらにつくか決断に迫られるのです。
官兵衛は「長篠の戦い」での織田信長の戦略を評価していたので、主君・小寺政職に「守りの毛利より攻めの織田に味方しましょう」と、進言し、織田氏の配下に入るよう小寺政職を説得。
1573年(天正元年)
小寺氏の使者として岐阜城を訪問。
秀吉の取次で信長と面会。
そこで官兵衛は、
「中国を攻めるのであれば調略の上手い武将(豊臣秀吉)を播磨に派遣して下さい。
私も主君、小寺政職とともに兵を率いて、殿のために戦功を立てて見せます。」と、中国攻めを進言。
信長は官兵衛の内に秘める才能に気づき、秀吉の中国攻めに加勢するよう命じました。
1577年(天正5年)
信長による「中国征伐」では、官兵衛が先鋒を務めています。
居城の姫路城は、中国征伐の重要拠点となった為、豊臣秀吉に譲渡。
代わりとして、姫路城の南側にある国府山城を修復し、父と共に居城としました。
これが、官兵衛の初築城となります。
一説によると、黒田家の家宝として伝来する名刀・へし切り長谷部(へしきりはせべ)は、この信長との謁見の時に、中国攻めの献策に対する恩賞として、信長から下賜された物と言われています。
1577年(天正5年)
毛利氏 VS 小寺氏「英賀の戦い」(あがのたたかい)では、乃美宗勝を総大将とした、およそ5千人の兵が英賀の浦に上陸。
英賀の浦は官兵衛が城代だった姫路城から、2里(約8km)離れた所にあり、官兵衛が動員できる兵は5百人と、兵力差は圧倒的。
そこで官兵衛は、毛利勢が長時間船に揺られ疲れていると判断し、奇襲攻撃を仕掛けます。
さらに、近隣の農民に旗、幟をたくさん持たせ、背後の山に待機させました。
これを見た毛利勢は、大援軍が来たと勘違い。
戦意を喪失し、退却。
この戦いで、官兵衛の評価はどんどん上がっていきます。
そしてその後、秀吉の側で、軍師となります。
秀吉が中国攻めを開始すると、織田軍 VS 毛利軍との戦いは激化。
1578年(天正6年)
荒木村重(秀吉軍に属する)が謀反を起こし、「有岡城の戦い」が勃発。
官兵衛は荒木村重と旧知の仲だったので、説得する為に単身、有岡城(現在の兵庫県伊丹市)に乗り込みますが、捕えられ幽閉されてしまいます。
信長は、官兵衛が寝返ったのでは。と思い、怒り狂います。
そして豊臣秀吉に、黒田長政(官兵衛の息子)を斬るよう命じます。
1579年(天正7年)有岡城陥落。
官兵衛の頭髪は抜け落ちて、足に障害を負い、全身疥癬(皮膚感染症)だらけでしたが、奇跡的に救出されました。
しかしその後、官兵衛のその姿が逆に凄みを与え、人々から信頼されるようになったと言われています。
秀吉は、官兵衛が寝返っていなかったことを知り、息子の長政を処刑したことを泣いて詫びたと伝えられていますが、このあと実は、生きていたことがわかります。
なぜかというと、竹中半兵衛が、秀吉に処刑を命じられていたのですが、実は長政を殺さずに匿っていたのです。
竹中半兵衛とは、官兵衛と共に秀吉に仕え、「両兵衛」と呼ばれた謀将で、官兵衛が裏切るはずはないと、上の命令に密かに背き、黒田長政を守っていたのです。
このことを知った
・信長
・秀吉
・官兵衛
は、竹中半兵衛に心から感謝したそうですが、この時既に、半兵衛は病死していました。
その後官兵衛は、半兵衛への感謝を忘れないようにと、
竹中家の家紋 → 餅紋
を、使うようになったと言われています。
そしてそれ以降、秀吉は官兵衛を重用するようになります。
官兵衛の主君である小寺政織が、荒木村重に続き、信長に謀反を起こします。
そこで、小寺政織と官兵衛の主従関係は破綻したのです。
官兵衛は、体調が戻ると、
・兵糧攻め
・水攻め
など多様な策を秀吉に献策し、次々と毛利勢の城を攻略。
1582年(天正10年)「本能寺の変」
信長が本能寺で光秀に襲撃された時、秀吉軍は備中高松城を水攻め中でした。
秀吉は本能寺の知らせを聞き、激しく動揺。
泣き崩れていると、官兵衛は秀吉に「殿、天下を取る機会が訪れましたぞ」と進言したと言われています。
官兵衛は信長の死を隠し毛利軍と素早く和睦をまとめ、京までの道中、
・松明
・炊き出し
・替え馬
・渡し船
など、準備を進め、明智光秀を討つ為、
備中高松〜京(約200km)を10日で駆け戻りました。
「中国大返し」成功の影にも官兵衛の機転エピソードがあります。
本能寺の変のあと、織田家配下の武将が光秀に味方しないように「織田信長&信忠親子は生きている」と偽情報を流しました。
光秀は信長の首をまだ見付けていなかったので信憑性があり、光秀に味方する者はいなかったのです。
また、官兵衛は毛利軍と和睦した時、毛利氏の軍旗を借り受け、これを掲げて進軍。
これは、毛利氏が秀吉に味方したと思わせる為の策。
秀吉 or 光秀
で、迷っていた諸勢力は、この旗を見て毛豊臣軍に参加。
秀吉が京に着く頃には、軍列が4万人にもなっていました。
光秀軍1万6千人を上回り「山崎の戦い」を優位に進めることができたのです。
本能寺の変後 豊臣秀吉の家臣へ
「本能寺の変」で、信長亡きあと、天下統一を目指す秀吉は1590年(天正18年)小田原征伐に向かいました。
北条氏が立て籠もる小田原城は難攻不落で知られる堅城で、過去に武田信玄、上杉謙信の軍勢を撃退しています。
そこで官兵衛は、小田原城の近くの石垣山の山頂に城を築き、小田原城と支城を14万人の軍勢で取り囲みました。
北条氏は、
・徳川家康
・伊達政宗
が、秀吉に反旗を翻し、援軍を出してくれるだろうと期待しましたが、来るはずもなく…。
戦意喪失の北条氏がいる小田原城に、官兵衛は単身乗り込み、北条氏を説得。
北条氏政、北条氏直親子は降伏。
小田原城は無血開城。
北条氏政は、秀吉との間を仲立ちした礼にと、官兵衛に名刀「日光一文字」を贈ったそうです。
1592年(文禄元年)「文禄の役」
1597年(慶長2年)「慶長の役」
「文禄の役」では、軍監(軍事の監督をする役職)として、朝鮮に出陣。
そこで石田三成と戦略を巡り対立。
そして秀吉に直談判すべく、帰国。
しかし、勝手に戦線離脱したことを咎められ、1593年(文禄2年)、官兵衛は「如水軒円清」(じょすいけんえんせい)と号して出家したのでした。
秀吉の死後
秀吉の官兵衛への信頼は、どんどん強くなっていきます。
しかしその反面、官兵衛の頭脳明晰な、その力を恐れるようにもなっていきます。
この先、十分な石高を持った頃に、天下を狙うのでは。と心配し、武功に見合った俸禄を与えませんでした。
1598年(慶長3年)
豊臣秀吉が死去。
1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」勃発。
豊前国中津城で留守居をしていた官兵衛は、蓄えていた金銀を放出し、領内の百姓など、およそ9千人を集め東軍として挙兵。
旧領の豊後国の奪還に攻めてきた西軍 大友義統(おおともよしむね)と戦う事になります。
「石垣原の戦い」
この戦に官兵衛は勝利。
さらに臼杵城や久留米城など、九州の西軍の諸城を次々に攻め落としていきます。
そして、薩摩の島津氏を攻めようとした頃に、徳川家康の停戦命令が下りました。
関ヶ原の戦いがあと少し長引いていれば、黒田官兵衛は、
・九州を征伐
・中国地方に攻め込む
・天下統一を狙ったのでは
とも言われています。
タラレバの話は全く意味はありませんが、面白いですね。
もし、そうなっていたとしたら、黒田官兵衛の天下人としての歴史が開かれていたかもしれませんね。
実際に秀吉は、自分の死後、次に天下人になるのは黒田官兵衛だろうと言っていたそうです。
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