中原尚雄は西南戦争の直接的なきっかけを作った人物や、拷問された人物。として有名です。

そして川路利良は、維新後の西南戦争で大久保利通と西郷を死に追い込んだ人物。として知られていて、幕末~明治にかけて活躍し、異例の出世を遂げた人物です。

更に、日本の近代警察を築いたことから、”日本警察の父“と呼ばれています。
 
この二人の人物が歴史の中で、どのように交わり、西南戦争へと向かっていったのか…。

見ていきたいと思います。

 

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拷問された中原尚雄と川路利良について

 

拷問された中原尚雄と川路利良について

 

中原尚雄(なかはら なおお)は、弘化2年(1845年)年10月6日、中原正兵衛の長男として伊集院郷下谷口西久保(鹿児島県日置市伊集院町下谷口)にて生まれました。

幼名は雄左衛門。

 

中原尚雄は、戊辰戦争に従軍。

1871年(明治4年)上京。

警視庁に入ります。

「征韓論」で西郷隆盛が敗れて下野した時に、多くの薩摩藩士は西郷に従い行動を共にしました。

中原尚雄も一度警視庁を辞職しました。

(翌年)台湾出兵に参加。

そののち、警視庁に復職しました。

 

 

川路利良は天保5年5月11日、薩摩藩与力(準士分)・川路利愛の長男として薩摩国鹿児島郡鹿児島近在比志島村(現在の鹿児島県鹿児島市皆与志町比志島地区)にて生まれました。

 

川路利良は、征韓論に敗れて下野した大恩人の西郷には従わず決別し、私情は捨てて大久保利通の庇護下のもと、国のために身を尽くす道を選びました。

 

この時、「私情においてはまことに忍びないが、国家行政の活動は一日として休むことは許されない。大義の前には私情を捨ててあくまで警察に献身する」と表明したとされています。

 

川路利良は、警視庁に在職してすぐ病にかかり、在任期間はあまり長くありませんが、警察制度創設者として高い評価を受け「日本警察の父」とも呼ばれ、「聲無キニ聞キ 形無キニ見ル」の精神を説き、現代の警察官にも受け継がれています。

 

警察人として国家のために働くことを第一とする姿勢が、人々からの評価を得てる理由の一つなのかもしれません。

高評価の川路利良ですが、一方で「西郷の恩を仇(あだ)で返した裏切り者」として長い間に渡って嫌われていた。とも言われています。

 

中原尚雄をスパイとして鹿児島へ送り込んだのは川路利良?

 

中原尚雄をスパイとして鹿児島へ送り込んだのは川路利良?

 

相次ぐ士族反乱を鎮圧した内務卿・大久保利通には、最大の悩みが残っていました。

 

西郷隆盛が鹿児島に戻った頃というのは、武士の特権を次々と廃止され、士族の不満が各地で高まっている時で、西郷隆盛は士族のその不満をそらす事を目的に明治7年(1874)6月。「私学校」を設立します。

そうして若い士族の教育にあたっていました。

学校の内容はというと、

・篠原国幹を長とする銃隊学校。
・村田新八を長とする砲隊学校。

といった、見てすぐにわかるような、かなり軍事的な色合いの強い学校でした。

 

その他にも、

・(吉野山の開墾を目的とした)開墾社。

・(少年教育の為とした)賞典学校。


を西郷は設立していて、これらも広い意味での私学校に含まれました。

西郷自身は、開墾社で農作業に加わり汗を流していたようですが、それ以外の指導は全て後進に任せていました。

 

そのこともあって、私学校は西郷の意志とは関係のない方向へ…。
反政府的な性格を強めていったのです。

 

また、鹿児島県令・大山綱良が西郷隆盛寄りだったので、県内の要職を私学校の者が占めるようになります。

それは、

・別府晋介。

・辺見十郎太。
・野村忍介

達でした。

 

そして、明治9年(1876)頃になると鹿児島県は、政府の統治も及ばない部分が目立つようになっていました。

その状況を、木戸孝允などは「独り独立国の如し」と慨嘆したそうです。

 

明治政府の事実上の責任者の大久保は、鹿児島が独立国の様相を呈している状況を見逃すことはできなかったのです。

そして大久保は動きました。

 

明治9年12月下旬。

警視庁・大警視の川路利良は、中原尚雄ら薩摩出身の警察官など 23人を鹿児島に派遣しました。

 

表向き名目は帰省。

でも実は、西郷と私学校党の動向を探る任務をおびた密偵(スパイ)だったのでした。

 

立場上、川路利良が中原尚雄らを派遣した事になりますが、やはり密偵の指示・計画は大久保からのものでしょう。

川路利良は、西郷を裏切った『裏切り者』と言われていたので、川路利良が密偵を派遣した!と強調される言い方をされたかもしれませんね。

 

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結局、西南戦争のきっかけとなったのは・・?

 

密偵として鹿児島に派遣された中原らが鹿児島に着いたのは、翌明治10年(1877)の1月半ばのことでした。

中原らの帰省を知った私学校党は警戒。

 

そして、1月下旬頃。

政府の汽船が、いきなりやって来たのでした。

 

政府は、鹿児島にある陸軍の火薬庫から、夜間ひそかに弾薬を運び出した事で、さらに私学校生達を刺激しました。

 

保管してあった弾薬は政府のものなので、それほど問題ではありませんでしたが、疑心暗鬼になっている私学校党にとっては、これに対してとても憤激したのです。

 

そして1月29日夜、私学校生達は草牟田の火薬庫を襲撃し、大量の弾薬を奪い引き上げたのでした。

この報告を受けた西郷は「しまった」と言い、なぜ弾薬などを盗むか・・・」と残念そうにつぶやいたそうです。

 

政府所有の弾薬を、私学校党が強奪したとなれば、厳しい処置が下されるのは間違いありません。

西郷は落胆します。

いきり立つ私学校党は、2月に入ると中原尚雄らの密偵を全員捕らえ、中原尚雄らは激しい拷問を受けたそうです。

 

そしてその結果、実は自分たちは西郷暗殺の密命をおびていると、中原が自白しました。

拷問に耐えかねて発した言葉の可能性が高く、どこまでが真実かはわかりませんが、刺客であった。ということがわかり激怒。

 

もうこうなると誰も止められる訳もなく…。

他にも拷問されている時、中原尚雄が持っていたとされる電報にボウズヲシサツセヨ」と書いてあったことが事を大きくした。といった事も言われています。

 

この電報を訳すと、

・「ボウズ」→西郷隆盛。

・「シサツ」→「刺殺」。


つまり、「西郷隆盛を暗殺しに来た!!」と解釈したのです。

すると、当然ながら私学校の者たちは大激怒。

 

これを機に鹿児島の士族たちの不満が大爆発。

西南戦争につながっていったのでした。

 

シサツ」は「視察」だともいわれているので、誤解が誤解を生んだ結果が西南戦争だとしたら悲しすぎますね。

 

但し、暗殺計画の真偽は不明です。

拷問を受けた中原尚雄は、西南戦争中に鹿児島入りした勅使に助けてもらい東京に戻った後、(高知・山梨・福岡)県の警部長を務め、47歳頃辞職しています。

故郷で余生を過ごし、1914年(大正3年)70歳で亡くなりました。

 

後に、地元青年団が中原尚雄に『視察』だったのか、『刺殺』だったのかを聞いたところ、『視察だ』と明言したという話があります。

 

拷問した時に、どの様なやり取りがあったのかが解りませんので何とも言えませんが、嘘の自白をしたのか?本当の自白だったのか?そこでのやり取りが、一番重要ですよね。

 

ただ、『刺殺』という言葉を使うのか・・?なんて思ったりします。

殺せ』や『暗殺』なら解るんですけど、『刺殺』・・・

 

いわゆる『刺す』といった、殺し方自体を指定するものなのか・・・?

個人的には、そんな風に思ったりします。

 

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