島津斉彬らが次期将軍として一橋慶喜を推す一方で、井伊直弼らは徳川慶福よしとみ(家茂いえもち)を次期将軍に!と奮闘していました。

最終的には、井伊直弼らの勝利という形となり、徳川慶福が将軍となります。

さて、その徳川慶福とはどんな人物だったのでしょうか。

 

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目次

徳川慶福と一橋慶喜の将軍継嗣問題

 

 

大河ドラマ『西郷どん』ですが、幕末の将軍といえば、やっぱり徳川慶喜(一橋慶喜)の印象が強い人は多いのではないでしょうか。

水戸藩の徳川斉昭が父で、一橋家に養子に入った一橋慶喜。

 

その一橋慶喜ですが、島津斉彬(西郷隆盛)、松平春嶽(橋本左内)に擁立されて第14代将軍を目指しましたが、井伊直弼たちの一派に負け、安政の大獄で謹慎処分となってしまいます。

 

このときの後継者争いに勝利して、第14代将軍になったのが徳川家茂(徳川慶福)です。

 

徳川慶福(家茂)は、人見知りであまり人前に出る事は、好きじゃなかった様です。

そう聞くと、パッとしない感じで、周りに利用されてる感もありますよね。

 

体も弱くてあまりに短い生涯だったので、歴史的にも存在感が薄くなっているのかもしれません。

 

また幕府と朝廷を婚姻によって結びつける…という背景を持った縁談は、徳川家代々の将軍の中でも、最も重大深刻な論争を巻き起こしましたが、この発案者は井伊直弼

 

この縁談は幕府だけではなく、近衛忠煕中山忠能岩倉具視らの公家も推し進めていたようですが、もちろんそこには家茂の意見はありません。

 

それに井伊直弼はあまり良いイメージじゃない人が多いので、井伊直弼が推していた徳川慶福(家茂)が将軍になった事に対して、『井伊直弼の戦略?』『徳川慶福(家茂)は戦略将軍?』などといわれているのだと思われますが、実は徳川慶福(家茂)は決して無能ではないんです。

 

井伊直弼らに担がれたのも、それ相応の実力があったからです。

勝海舟もその才を惜しんでいたほどなんだそうです。

 

今回はそんな徳川慶福(家茂)にスポットを当ててみたいと思います。

 

徳川慶福(よしとみ)/家茂(いえもち)とは

 

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

病弱だった徳川家定のあとの将軍後継者問題で、一橋慶喜と争った、徳川慶福。

 

若年でしたが第13代将軍・徳川家定の従兄弟にあたり、前将軍の最近親で血縁を徳川家康まで遡らなくてはならない一橋慶喜を抑えます。

そして、井伊直弼のゴリ推しで将軍に就任しました。

 

しかし、徳川慶福(家茂)は13歳の少年でしたので、全く実権はありませんでした。

 

慶喜は「将軍後見職」に就いていたため、その権力は抑制されていました。

 

また、この将軍宣下の際、これまでは新将軍が上座で天皇勅使が下座でありましたが、尊王の世情を反映して逆に改められました。

 

徳川慶福(家茂)は、生まれた翌年に第12代和歌山藩主・斉彊(なりかつ)の養子になります。

そして、二年後の1849年に養父が亡くなったため藩主となりました。

 

さらにそれから二年後の1851年に元服し、将軍・徳川家慶より偏諱を与えられて徳川慶福と改名しました。

 

家茂はひ弱な印象ですが、13歳で将軍に就任すると責任感も滲み出てきて「徳川吉宗の再来のようで、将来頼もしそう」と、側近から言われるようになっていました。

 

本人も意識していたようで、吉宗を模した具足を作らせたみたいです。

 

また、池の魚や籠の鳥を可愛がるのを楽しみとしていましたが、将軍になってからは、文武両道を修めるように努めたそうです。

 

乗馬を好み、剣術や歌や文学は好まなかったとされていますが、実際はそんなこともなく、徳川一門の大名にふさわしい、即興で歌を詠む才能の持ち主で、儒教の経典もよく読み、教養も身につけていたようですね。

 

ささやかな楽しみすら捨て、良い将軍であろうと心がけていた姿は幕臣達を没後も感激させたといわれています。

聡明で、責任感が強く、悪いことをしたらきちんと謝罪する。

しかも優しく温厚、動物が好きで、育ちも性格もよい申し分のない貴公子。という話もあります。

 

そう思うと、これほどの好人物もなかなかいないですよね。

 

それに徳川一門…となれば、将軍継承問題で家茂に白羽の矢が立てられても、なるほど納得ですよね。

 

勝海舟も家茂のことを「文武に長けた人物」と評価していています。

 

その後、家茂に和宮との縁談がでます。

 

和宮親子内親王は有栖川宮熾仁親王と婚約していましたが、幕府の公武合体構想からの要請により熾仁親王との婚約を破棄し、和宮は徳川将軍第14代徳川家茂に降嫁しました。

 

いわゆる政略結婚です。

ですが、ちょくちょくプレゼントするほど二人はラブラブで知られています。

 

和宮が大奥に馴染めないでいると、いつも家茂は味方でいてくれていたみたいです。

当時にしてはハイカラですよね。

 

その後、徳川慶頼が後見の座を退き、親政が成立します。

そして薩摩藩の「国父」島津久光が、朝廷の意思を携えて江戸に入り、慶喜を将軍後見職にし、松平慶永を政事総裁職に任命することを要求。

 

幕府はこれをのまざるを得ませんでした。

これ以来家茂は、後見職である慶喜の陰に隠れがちになります。

 

享年21(満20歳没)。若いですね。

 

余談ですが、羊羹、氷砂糖、金平糖、カステラ、懐中もなか、三色菓子など甘いものが好きだったようで、虫歯説もあるそうです。

 

勝海舟はのちに「若さゆえに時代に翻弄されたが、もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を残したかもしれぬ。武勇にも優れていた人物であった」と賞賛し、訃報に接した際は悲嘆のあまり、日記に「徳川家、今日滅ぶ」と記したほどでした。

 

家茂は死に際して、徳川宗家の後継者・次期将軍として田安亀之助(慶頼の子、後の将軍家第16代当主・徳川家達)の指名し遺言を残しましたが、実現されることなく慶喜が第15代将軍となりました。

 

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なぜ井伊直弼の思惑通りになったのか

 

 

1853年7月から、“幕末”という激動の時代に突入しました。

 

アメリカ合衆国大統領の開国要求書を持って、ペリーが黒船来航したのですが、これは井伊直弼が彦根藩主として表舞台に出て、わずか3年後の出来事でした。

 

井伊直弼は、「いったん開国して海外貿易を行って富国強兵を果たしたあと鎖国に戻す」という条件つきの開国論を主張したのですが、そんなときに起こったのが「将軍継嗣問題」。

 

ペリー来航から10日後、将軍・徳川家慶が病死。

体が弱く跡継ぎもいない徳川家定が第13代将軍に就任したため、将軍後継者争いが勃発します。

 

一橋派の跡継ぎ候補は一橋慶喜。

派閥の主立ったメンバーは、前水戸藩主・徳川斉昭、福井藩主・松平春嶽、薩摩藩主・島津斉彬です。

 

南紀派の跡継ぎ候補は徳川慶福。

主要メンバーは彦根藩主・井伊直弼、会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)、老中・松平忠固

 

派閥で争っている間に、ペリーは将軍が交代したことを知り、約束の1年を待たずに再び来航して開国を迫ってきました。

 

条件つきの開国を認める和親論を訴える井伊直弼と、絶対に開国を認めない徳川斉昭の対立が決定的となりました。

 

この二人は上記で書いたとおり「将軍継嗣問題」でも南紀派と一橋派に別れて争っており、最大の政敵同士であったと言われています。

 

1854年3月31日、日本はアメリカの開国要求を受け入れて「日米和親条約」を結びました。

 

このことだけをみると開国論を支持者の井伊直弼の勝利にみえますが、鎖国体制は放棄したものの、要人たちのさまざまな思惑は複雑に絡み合ったままの混乱状態。

 

幕府は初代駐日本アメリカ合衆国弁理大使に貿易を認める条約の締結を迫られ、具体的な協議に入ることになり、京都入りして孝明天皇の勅許を得るために奔走しましたが失敗。

 

失敗の報告を将軍・家定にすると「家柄にしても人物にしても大老は井伊直弼しかいない」と言ったので井伊直弼の大老就任が決まったとされています。

 

1858年6月4日、井伊直弼は江戸幕府における将軍の補佐役で、実質的な最高権力者である大老に就任しました。

 

井伊直弼は開国も貿易も認める立場を取っていましたが、無勅許での条約調印には最初から最後まで反対していました。

 

調印当日「やむ得ないときはやむを得ないが、なるべく調印せずに引き延ばすように」と井伊直弼は調印担当者に言いましたが、言質を取ったと思った担当者は、その数時間後に「日米修好通商条約」に調印してしまうのです。

 

これに孝明天皇をはじめとする朝廷は激怒。

 

幕府を通すことなく「戊午の密勅」で水戸藩へ直接、攘夷推進、公武合体、幕政改革などの指令を下し、井伊直弼は幕府の存続に危機感を抱き弾圧をかけます。

 

いわゆる「安政の大獄」です。

 

戊午の密勅」を受け取った水戸藩の関係者、「将軍継嗣問題」で対立した一橋派に近い皇族や公家、大臣、僧侶、藩主、幕臣、浪人、学者、名主、町人たちを徹底的に弾圧しました。

 

水戸藩も、「戊午の密勅」への対応で、揺れに揺れました。

 

藩内は密勅の内容を実行すべしという過激派と、勅書は朝廷か幕府に返納すべしという鎮静派に分裂し、対立したのです。

 

安政の大獄」では前藩主・徳川斉昭が永蟄居(一生の謹慎)、藩主・徳川慶篤が隠居謹慎を命じられたほか、家老・中山信宝と安島帯刀らも処罰を受け、切腹させられました。

 

それでも事態を収拾できなかった井伊直弼は、数度に渡って水戸藩に勅書の返納を要求。

藩を取り潰して改易する可能性まで示唆しました。

 

井伊直弼の対応に激怒したのが過激派の水戸藩士たち。

薩摩藩士らと具体的な計画を練りはじめます。

 

過激派の水戸藩士たちの怪しげな動きは、井伊直弼も察知していました。

 

桜田門外の変」は1860年3月24日総勢60名からなる彦根藩の行列が、屋敷から約400メートルのところにある江戸城外の桜田門外で襲撃されました。

 

襲撃者の人数や人物には諸説ありますが、水戸藩の脱藩者17名と薩摩藩士1名だったのではないかといわれています。

 

取り組みの流れだけをみると、井伊直弼の思っていたように進んでいるかのようにみえますが、結果、恨みを買い命を落としたので、思惑とは違ったのではないかと思います。

こればかりは、本人に聞いてみないとわかりませんね。(^_^;)

 

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