山縣有朋は、最下級武士から最高権力者に登り詰めた「立身出世」の具現者。

何度も失脚の危機をくぐり抜け、復活を果たした人物です。

 

大河ドラマ【西郷どん】では、村上新悟さんが山県有朋役を演じます。

むらかみしんごさん』と言っても、関ジャニ∞の村上信五さんじゃないですよ!^^;

 

さて、その村上新悟さんが演じる山県有朋ですが、現存する勲章の中で最も名誉な勲章と言われるイギリスの勲章 『メリット勲章』を与えられているんです!

 

メリット勲章は、日本人で与えられているのはたったの3名!!

なので山縣有朋は、その中の1人なのです!!

 

幕末~明治にかけ、「国軍の父」と呼ばれ、明治~大正時代は政治家として、史実ではよく登場する人物なのですが、なぜか知名度は低く、現代ではあまり知らない人も多いようです。

 

そんな山縣有朋には、いい話ばかりではなく実は黒い噂も…あります。

明治を代表する汚職事件といえば山城屋事件。

 

その事件の名前にもなっている山城屋和助との関係や事件となった原因は一体何だったのか。

山縣有朋がどのような人物だったのか、と合わせて見ていきたいと思います。

 

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目次

山縣有朋とは

 

山縣有朋とは

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

山縣有朋は、1838年に長州藩領内、蔵元付き仲間、山縣有稔(ありとし)の長男として誕生しました。

 

※長州藩領内→現在の山口県萩市。

※蔵元付き仲間→足軽以下の卒族。武士身分を有さない下級家臣。

 

山縣有朋の父は下級家臣でしたが、国学も学び、和歌、謡曲、挿花も嗜む風流人。

その父の影響で、和歌を早くから学び、素晴らしい和歌を数多く遺しています。

 

武術も熱心に取りくみ、宝蔵院流槍術・明倫館師範代の岡部半蔵について槍も習い、朝食後に必ず槍の稽古をするという規則正しい毎日を過ごしていました。

 

1858年7月、長州藩が京の政情探索として6名を派遣。

そして、この中に山縣有朋と後の初代内閣総理大・伊藤博文がいました。

 

山県有朋と伊藤博文

 

山県有朋は在京中、久坂玄瑞(禁門の変で壮烈な最期を遂げた人物)に出会い感銘を受け、久坂玄瑞に推薦してもらい帰郷して、松下村塾(吉田松陰の叔父が開塾し、松陰が引き継いだ有名な私塾)に入塾しました。

 

山縣有朋が入塾してまもなく吉田松陰は刑死したので、吉田松陰から受けた教育は短かったですが、生涯「松陰先生の門下生」と言い続けました。

 

吉田松陰死後、塾生たちと尊皇攘夷運動に参加。

高杉晋作は、身分に拘らず人材を集め奇兵隊を再編成。

 

そして坂本龍馬の尽力で、仲の悪かった薩摩藩と薩長同盟を結び、幕府との戦いに備えていた時の、薩摩との連絡役は山縣有朋でした。

 

山県有朋はそこで西郷隆盛に出会っています。

それから終生変わらぬ尊敬の念を抱くことになりました。

 

山縣有朋は、藩から尊皇攘夷に尽くしているとして、入江九一、伊藤博文と士雇(さむらいやとい)(長州藩の士分の扱いの括り)にあげられました。

 

士分の取りたては、下級家臣の山縣有朋からすれば世にでる土台になったと考えられています。

明治2年には欧米8カ国を視察し、特に仏国と独国の徴兵制度を詳しく学んでいました。

 

帰国後、兵部省の実質的なトップとなり、陸・海軍省が設置され、徴兵制が実施されると西郷隆盛の後押しで初代の陸軍卿となります。

そうして山県有朋は、35歳で名実共に陸軍の最高位に就くことになったのです。

 

山県有朋陸軍最高位

 

西郷隆盛板垣退助江藤新平らによる留守政府が外遊組のいない隙をつき、学制 & 徴兵制など大規模な改革 & 人事の刷新を断行し、韓国との外交をめぐり征韓論を主張し始めました。

 

その後、征韓論に敗れ下野した西郷隆盛は、不平武士達のリーダーとなり、西南戦争を引き起こします。

その平定に乗り出したのが、山縣有朋でした。

 

1877年の西南戦争では、山縣有朋は官軍として総指揮をとり、大先輩で恩人でもある…誰よりも尊敬する西郷隆盛と対峙。

 

山県有朋は、城山に立て籠る西郷隆盛に自決を勧める手紙を送り、西郷隆盛は自決します。

そうして西南戦争は終わりを告げました。

 

西郷隆盛の自害の知らせを受けた山縣有朋は、その死を悼み涙を流したそうです。

 

西郷隆盛の死に涙を流す山県有朋

 

そして山県有朋は、明治政府で軍政家として功績を残し、国軍の父と言われるまでになったのです。

 

気がつけば、山縣有朋は伊藤博文と並び、明治政府を牽引するトップの立場となっていました。

日清戦争では司令官として現地で直接指揮をとり、その後、二度ほど内閣総理大臣を勤めました。

 

・徴兵制。

・新国軍の創生。

・地方自治の施行。 …など。

 

新政府に大きく貢献しました。

 

政界、官界、天皇家に対しても影響を及ぼし、「元老中の元老」「日本軍閥の祖」として、生涯精力的に活動し貢献しました。

 

そんな山県有朋は、政界を退いてからの晩年の趣味は造園づくりで、数多くの庭園を遺しています。

その他、和歌、漢詩、仕舞、書を好み、茶人としても知られていています。

 

そして1922年2月1日。

その生涯を閉じました。85歳でした。

 

その8日後である2月9日には、国民なしの「国葬」が執り行われました。

 

その様子は約30万人の一般市民が参列した大隈重信の「国民葬」ともよばれる葬儀とは大きく異なり、一般の参列者は殆どいなかった。と伝えられています。

 

・藩、軍閥リーダー。

・政党政治の抑圧者。

・太平洋戦争にも繋がる陸軍暴走の遠因を作った。

 

と言われる山県有朋は、国民にはよくないイメージの印象が強かったのかもしれませんね。

 

山県有朋が大きく関わった山城屋事件の内容とは

 

山県有朋が大きく関わった山城屋事件の内容とは

 

明治新政府が、始まるとすぐに「腐敗した」と言われているのは、当時、官僚絡みの汚職事件が多かったからです。

 

明治時代の汚職事件で有名なのが「山城屋和助事件(やましろやわすけじけん)」。

当時、明治新政府の陸軍卿、長州藩出身の山縣有朋が関連した汚職事件。

 

この事件はどんな事件か、と言うと・・・

 

事件の名前にもなっている山城屋和助という人物は、維新前は長州藩の奇兵隊に所属していた野村三千三(のむらみちぞう)のことです。

維新後から野村三千三は、山城屋和助と名乗っています。

 

山城屋和助は山縣有朋の引き立てで兵部省の御用商人をし、軍需品の納入を引き受け、莫大な利益を得て豪商へ。

その見返りとして、山縣有朋は山城屋から多額の献金(賄賂)を受けていたのです。

 

山県有朋が大きく関わった山城屋事件の内容とは

 

味をしめた山縣有朋は職権を私的に利用し、山城屋に対し陸軍の公金15万ドルを勝手に貸し付け、山城屋は15万ドルを元手に生糸相場に投資。

 

しかし生糸相場は「普仏戦争」勃発で、大暴落します。

結果、投資に大穴をあけるといった事態に…。

 

なのに山縣有朋は、再度山城屋に公金を貸し付け、山城屋はその公金を持ち渡仏し、パリで豪遊しました。

 

そんな山城屋の豪遊がパリの日本公使館の耳に入り、陸軍省が内部調査を始めたのでこの汚職事件が明るみになり、このままだと自分の不正もバレてしまう・・・と思った山縣有朋は、山城屋をパリから急いで呼び寄せ、貸し付けた公金を即時に返済するよう迫りましたが、公金の貸付総額は当時の64万円、これは陸軍省の予算の一割弱にも及ぶ巨額なお金。

 

山城屋にはこれたけの多額の公金を返す返済能力はありませんでした。

山縣有朋に公金の返済を迫られて窮した山城屋は、山縣有朋に罪が及ぶのを恐れ証拠書類を一切焼き捨てました。

 

山県有朋が大きく関わった山城屋事件の内容とは

 

そして、明治5(1872)年11月29日 陸軍省の一室で割腹自殺

事件の真相は闇の中へと消え…。

(一説にはが山縣有朋が山城屋に自決を迫ったとも言われています)

 

山城屋の自殺により、山縣有朋は罪に問われることはありませんでした。

処分としては、当時陸軍省会計監督長 芸州藩出身の船越衛(ふなこしまもる)が、山城屋への公金貸付の責任を一身に受けて辞職するに留まりました。

 

これが「山城屋和助事件」の内容です。

この他にも山縣有朋は「三谷三九郎事件」と呼ばれる汚職事件を起こしています。(これも不正に陸軍省の公金を貸し付けた事件)

 

山県有朋という人物は、お金に関するモラルは少し足りなかったと言わざるを得ませんね。

 

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山縣有朋のピンチを救ったのは西郷?

 

山縣有朋のピンチを救ったのは西郷?

 

維新後、陸軍中将となり軍の実権を握った山県有朋

その過程で西郷隆盛の協力を得て全国徴兵制を取り入れたり、薩摩との軋轢があった時にも擁護したりしています。

 

山城屋事件では、山城屋和助が陸軍省から借りた膨大な公金を使い込み、帳簿と長州系軍人への貸金証文を焼却したあと、陸軍省内部で割腹自殺したので、迷宮入りとなっています。

 

しかし、山城屋に公金を貸した山縣有朋は、桐野利秋ら薩摩系陸軍人の厳しい追及で近衛都督辞任に追込まれ、失脚必至の人生最大のピンチ!!に見舞われたときも、実は西郷隆盛はずっと山縣有朋を擁護していたのです。

 

ある意味、西郷隆盛は山県有朋を、それほどまでに信頼していたという事が伺えます。

しかも、翌年の徴兵令施行に伴い、陸軍卿(陸軍大臣)に昇進したので、失脚どころか焼太りする大幸運に恵まれました。

 

西郷が救った理由として、山縣有朋の軍政の才を高く評価していたとか、薩長のバランスに配慮した人物だったから・・ともいわれています。

 

その後、西南戦争で政府軍を指揮した山縣有朋は、実戦指揮を執る桐野利秋を斃し、山城屋事件の恨みを晴らしましたが、恩人の西郷隆盛まで死なせることになりました。

 

山縣有朋は、城山に立て籠る西郷隆盛に自決を勧める手紙を送り、西郷隆盛は自決したのですが、こういったことができるというのは、倒幕の過程で西郷隆盛と親密な関係を築いていたからということがわかります。

 

しかし、山城屋事件の内容などを振り返ってみると、山県有朋という人物の心の奥にある信念や正義という感情は、一体どんなものだったのか・・・そう思ったりもします。

 

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