大河ドラマ『麒麟がくる』で、徳川家康(竹千代)の母・於大の方(おだいのかた)役を松本若菜さんが演じます。
徳川家康の生母である於大の方は、家康を生んでまもなく2人は引き離されてしまいます。
しかし、引き離されても強い親子愛で、死ぬまで家康を想い、力になり続けた女性です。
そんな人生を生き抜いた於大の方とは、どんな女性だったのでしょうか?
可愛い雰囲気の松本若菜さんが演じるのも楽しみですね。
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『麒麟がくる』於大の方(おだいのかた)役は松本若菜!
画像引用元:https://www.talent-databank.co.jp/search/t2000040053
鳥取県米子市出身の松本若菜さんは、1984年2月25日生まれの現在35歳です。
松本若菜さんって、相田翔子さんに似てません?
なんだか雰囲気が似てるなぁと私は思うんですけどね。。。
綺麗で、しかも可愛い雰囲気の女優さんです。
2007年放送の「仮面ライダー電王」で、女優デビューされました。
仮面ライダー電王といえば、佐藤健さんが電王役でしたよね。
佐藤健さんのお姉さん役で、カフェを経営してる設定だったので、カフェで働くシーンでの登場が多く、とっても可愛いと評判でした。
そんな松本若菜さんが演じるのは、徳川家康の生母・於大の方です。
於大の方といえば、一番一緒にいたい幼少期から青年期まで、家康と一緒に暮らせない状態だったにも係わらず、死ぬまで家康を想い、そして力になり続けた母。。。というイメージです。
優しい母の顔を演じるのは、松本若菜さんの雰囲気にピッタリですねー!
綺麗で優しい母を演じるんだろうなぁ・・・楽しみです。(^^)
於大の方(おだいのかた)家康を生む
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
於大の方(おだいのかた)は、徳川家康の生母で、松平広忠の正室でした。
父は水野右衛門太夫忠政、母は於富の方(於満の方)で、享禄元(1528)年に、猪川城にて生まれました。(諸説あり)
1541年(天文10年)、岡崎城城主・松平広忠の正室となります。
当時水野家は、勢力を広げていた松平氏との関係を更に深めたい事もあり、於大の方を嫁がせました。
元々、水野家と松平家は敵対する立場でしたが、和睦の条件を提示され、水野忠政は自分の妻・於富の方(於大の方の母)と離縁し、松平清康の側室にするという条件を受け入れた経緯があります。
しかし、この時代といえども、和議という事で自分の妻を相手の妻にする・・いや捧げる・・というのは、一体どんな気持ちなのでしょう?
娘を嫁がせる事より屈辱的な気もするんですが・・・^^;
さて、その於富の方の娘・於大の方に話を戻します。
於大の方は、14歳で松平広忠の妻となり、翌年の1542年(天文11年)に岡崎城で、竹千代(家康)を生みました。
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幼い家康(竹千代)と離れ離れに
松平広忠との結婚生活は順調で、特に問題なく暮らしていたと思われますが、竹千代が生まれてしばらくしてから、於大の方の実父である水野忠政が亡くなり、そこから於大の方の状況も一変してしまうのです。
というのも、その後、水野家の家督を相続したのが、水野信元(於大の方の異父兄)。
信元は、今まで慕っていた主君である今川氏の元を離れ、当時、勢力を伸ばしていた織田信秀に就いたのです。
そうなると、於大の方の夫である松平広忠も考え始めたのでしょう。
今川氏の配下である広忠は、その今川を裏切った水野家の娘である於大の方との結婚生活を続ける事を絶ち、離縁する道を選びました。
そして竹千代を松平(岡崎城)に残して実家に戻った於大の方は、その後、信元が決めた尾張の久松俊勝と再婚します。
初産で竹千代を生み、まだ小さいうちに離れ離れになり、実家に戻らなければならなくなった於大の方。
天文16年(1547)、兄の指示で久松俊勝と再婚する事となります。
久松俊勝との間に三男四女の子宝に恵まれるので、この再婚は幸せだったのかもしれませんね。
しかし、やはり初産だった竹千代の事は、ずっと心残りだったのでしょう。
竹千代が生まれた時、三河国の妙心寺に薬師如来の銅像を奉納して竹千代の長生きを祈念していた於大の方。
竹千代に贈り物をしたりと、何かと竹千代(家康)とは連絡を取り合っていたと言います。
その竹千代(家康)ですが、6歳の頃に今川へ人質となる予定が、戸田康光の裏切りによって織田側へ送られる事となります。
その2年後、今川と織田との人質交換として、竹千代(家康)は今川の人質となります。
そして永禄3年(1560)、『桶狭間の戦い』がきっかけで、元康(家康)は三河の岡崎城へ戻る事に成功するのです。
そこから於大の方が嫁いだ久松家が、松平氏の傘下に入ります。
そして松平元康(家康)は、完全に今川から離れ『清洲同盟』にて、織田信長と同盟を結びます。
そして、久松家で生んだ於大の方の息子3人には、松平の姓が与えられ、家臣となりました。
それに於大の方を、母という形で迎え入れられたので、家康も於大の方も嬉しかったでしょうね。
やっと親子に戻れた・・・という事ですからね。
しかしその後、事件が起こります。
於大の方の兄・水野信元に、織田信長に対する謀反の疑いがかかります。
そこで織田信長は、家康に水野信元の殺害を命じます。
家康も複雑な思いだったのでしょうが、信長の命ですから仕方なかったのでしょう。
その事で、於大の方の夫・久松俊勝は、隠退します。
信長の命だという事や、謀反の疑いの内容まで知ってか知らずか、久松俊勝は家康に対し、『信元をだまし討ちにして殺すなど何と家康は残虐な男だ』と言って出奔したそうです。
その後久松俊勝が亡くなると於大の方は出家し、晩年は伝通院と称します。
そして、慶長7年(1602)、伝通院(於大の方)は、家康が再建した伏見城にて亡くなりました。
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