伊勢貞興は、明智光秀の家臣として本能寺の変から山崎の戦いに参戦し、明智軍の一部隊を担い光秀とともに戦死しています。

若干知名度は低いのですが、歴史を動かした武将の一人であります。

 

伊勢貞興とはどのような武将だったのか。

さっそくみていきましょう。

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目次

明智光秀からの信頼が厚かった伊勢貞興

 

明智光秀からの信頼が厚かった伊勢貞興

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/

 

伊勢貞興は戦国時代~安土桃山時代の戦国武将です。

永禄5年(1562年)伊勢貞興は、伊勢氏の家系に生まれました。

 

幼名は熊千代。(通称)与三郎、伊勢守

祖父は伊勢貞孝

父は伊勢貞良

兄弟に伊勢貞為、阿古御局(異説あり)

 

伊勢貞興の生まれた伊勢氏は元々、室町幕府の政所執事(頭人)を務めた家柄でした。

幕臣としては最高クラスの出身。

 

伊勢貞興が生まれた頃は、戦乱の最盛期に突入した頃で、伊勢貞宗及び伊勢貞陸の代は山城守護でしたが、祖父・貞孝 & 父・貞良が三好氏との抗争に敗れ戦死。

以降、伊勢氏の力は山城国内にわずかな勢力を残すほどに衰退しました。

 

幕府の権威が失墜し、名門の伊勢氏でさえも立場の保証がなくなり、伊勢貞孝(貞興の祖父)は、三好長慶(将軍・足利義輝を追放した)の政治顧問となり、幕府を裏切ることになっても生き残る道を選びましたが、足利義輝は想像以上に粘り、近江六角氏らの庇護を受けながら長慶と和睦を結び京都へ戻りました。

 

しかし、義輝と貞孝の関係は当然悪化。

伊勢貞孝が再度、政所頭人の職に就いても関係が元に戻るわけもなく……。

 

永禄5年(1562年)

伊勢貞孝は謀反の疑いをかけられ、貞良(貞興の父)も一緒に討伐されました。

 

この時、貞興は生後間もなく、兄・貞為は4歳でした。

二人は、若狭小浜に逃れ、伊勢家の家臣らに養育されたそうです。

その後、伊勢貞興は8歳で「幕府御供衆」に列せられています。

 

兄の貞為の記録は残されていませんが、弟の立場や「伊勢伊勢守貞隆」なる人物が、足利義輝に仕えていたことがわかっているので、兄弟で足利義昭に仕えていたのでは。と推測されています。

 

1571年(元亀2年)貞興10歳。

貞興は政所のトップに任じられ、上洛した信長の後援により復権を得たと考えられていますが、信長や信長の家臣らによって、形式的な政所頭人とされていたようで、実権は握っていなさそうです。

 

でも、この時代って、やたら嫡男が継ぐって聞くのに、政所の職を継いだのは、なぜに兄ではなく貞興?って何だか不思議ですよね。

史料によると、この家督相続についても異説ありで、

・兄は病弱だったこと

・兄の貞為は義昭と将軍職を争っ足利義栄派とみなされたこと

という見解があるようです。

 

信長 & 義昭の関係が悪化の一途を辿る中、伊勢兄弟はあくまで一幕臣として義昭の味方であり続けるのです。

1573年(元亀4年)義昭が挙兵。義昭 vs 信長

義昭側につき参加。

二条城に籠りました。

 

大軍に気圧され、ほぼ争わず城を明け渡しています。

将軍・義昭も信長に制圧され、京都を追い出されました。(「槇島城の戦い」)

ここで信長に勝てないと思ったのか、伊勢兄弟は完全に信長の家臣となります。

 

この時点で兄の貞為は病気だったので、この時11歳だった貞興が実質的な当主になっていたと考えられています。

家督継承は、1581年(天正9年)の2月以降に行われたと考えられていて、貞興20歳になる頃に、正式に伊勢家の当主に就任したことになります。

そして病弱だった兄の貞為は、京都で養生生活を送りました。

 

伊勢貞興の最期

 

伊勢貞興の最期

 

信長の家臣となった貞興は、明智光秀の支配下に置かれました。

 

出自や教養の高さは折り紙付きだった貞興は、光秀に可愛がられていたようで、一説では貞興の妻は光秀の娘という記録があるなど、厚遇されていたことがわかることが、史料でも確認できます。

といっても、光秀関係の系図類は多数存在し、信憑性が低いですが…。

 

それでも、光秀も旧幕臣 & 教養人で有名。

貞興のこういった一面に惹かれるのは自然なことに感じますね。

 

ちなみに、教養の高さがわかるエピソードとして、貞興は、伊勢氏に伝わる武具 & 装束の故実をまとめた「伊勢貞興返答書」の著者として知られています。

 

1582年(天正10年)「本能寺の変」

伊勢貞興は旗下の2,000人の精鋭を率いて、二条城に籠城していた織田信忠(信長の嫡男)を攻め寄せ自刃させるなど、槍を振るって奮戦し大勝。

 

軍記物などでほ、戦果を挙げていたことが伝わっています。

その後の「山崎の戦い」は、

・細川藤孝

・筒井順慶

といった盟友たちに援軍の誘いを断られ、不利な状況で挑むことになりました。

貞興は光秀軍の右備えとして部隊の大将に任じられ、

 

・織田信孝軍→中川清秀隊3,500人余

 

・明智光秀軍→伊勢貞興隊2,000人余

 

伊勢貞興は兵数では劣りましたが、中川清秀を直押しし、高山重友(織田信孝軍)などが救援しようとしましたが、明智方の斎藤利三が横槍を入れ、両軍入り乱れての乱戦となりました。

 

戦局は秀吉軍優勢に傾き、乱戦の中でも気を吐いたと伝わりますが、果敢に戦ったそうです。

結果、明智軍は敗れ、伊勢貞興は光秀の敗走を助ける為、殿軍を引き受け奮戦。

 

陣中で討死。21歳。

最期まで戦い抜きました。

 

兄は、いずれの戦にも不参加の為、戦後も生き残り、一時、秀吉に仕えた。と伝わりますが、病の為辞退していています。

伊勢氏の家督は、兄・伊勢貞為の子の貞衡が継ぎ、江戸幕府に仕え、大身の旗本となり、明治まで存続しました。

 

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