大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公、明智光秀が起こした本能寺の変。

それに関係する人物と言われているのが、長宗我部元親

 

どんな武将かは知らないが、名前くらいは聞いたことがある。という方も多いのではないでしょうか。

長宗我部元親は明智光秀は起こした本能寺の変の原因となったのではないかという説があるほど重要人物です。

 

では、さっそく長宗我部元親について見ていきましょう。

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目次

長宗我部元親とは

 

長宗我部元親とは

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

1539年

(天文8年)土佐国の岡豊城(現在の高知県)にて長宗我部元親は嫡男として誕生しました。

父→長宗我部国親

母→美濃斎藤氏の娘

 

長宗我部氏は戦国時代、土佐国に存在した7つの豪族の総称である「土佐七雄」(とさしちゆう)と呼ばれる有力豪族の一つでした。

 

ちなみに土佐七雄は

・長宗我部氏

・津野氏

・本山氏

・安芸氏

・大平氏

・吉良氏

・香宗我部氏

があります。

 

実は有力豪族だった長宗我部氏ですが、元親誕生前1508年(永正5年)、長宗我部兼序(元親の祖父)の代の時に襲撃を受け、岡豊城を追われ、衰退してしまった頃がありました。

 

それを、再び大勢力に導いたのが、元親の父・長宗我部国親です。

元親が誕生したのは、丁度、長宗我部の盛り返しを見せた頃だったのです。

 

子どもの頃の元親はというと、色白で、とても大人しく少しぼーっとした性格だったようです。

男の子なのですが、周囲から姫若子と呼ばれ、父は跡取りとして大丈夫なのかと心配していたのだとか。

 

1560年(永禄3年)「長浜の戦い

当時は15歳で初陣を飾る武将が多かったのですが、元親は23歳で少々遅い初陣を飾りました。

 

家臣の秦泉寺豊後に、

・槍の使用方法

・大将の行動

を聞き、それを実践し、敵軍を崩して周囲の予想に反して大活躍。

 

当時土佐(現在の高知県)で最大の勢力を誇っていた本山氏に勝利し、元親は、姫若子→鬼若子と称賛され、元親の武名は高まったのです。

その後の「潮江城の戦い」でも実力を発揮し、大活躍しました。

 

1560年(永禄3年)

父が亡くなり、元親は家督を継ぐこととなりました。

 

1560年(永禄3年)

元親は現在の高知市の西南部の一端を除いて支配下に置きました。

 

1562年(永禄5年)「朝倉城攻め

本山茂辰の兵から、長宗我部軍に寝返る者が続出。

 

1563年(永禄6年)

本山茂辰は、朝倉城を放棄し本山城に籠城。

 

元親は同年、美濃の斎藤氏から正室を迎え、長宗我部親貞(弟)を土佐の吉良氏の婿養子とさせました。

そして本山茂辰が、岡豊城(元親の居城)を攻めに来ましたが、失敗。

 

1564年(永禄7年)

本山城を放棄し、瓜生野城に籠り始めましたが、戦いの最中に本山茂辰は病死。

 

親茂(本山茂辰の息子)が継ぎましたが、1568年(永禄11年)降伏。

これにより、元親は土佐中部を平定しました。

 

1569年(永禄12年)「八流の戦い

安芸国虎を滅ぼし、土佐東部を平定。

 

1571年(元亀2年)

津野氏(一条氏の家臣)を滅ぼし、親忠(元親の三男)を津野勝興の養子に送り込みます。

 

1574年(天正2年)

一条家の内紛に介入し、一条兼定を追放。

 

一条内政一条兼定の嫡男)に元親の娘を嫁がせました。

このように、土佐国をほぼ統一した元親。

 

1575年(天正3年)

一条兼定が土佐国に攻めてきて、一時は危うかったのですが、弟の吉良親貞の助けのもと「四万十川の戦い」で一条兼定を突破。

これにより土佐国完全統一しました。

 

元親が土佐国を統一し、次に目を付けたのは、

・阿波国

・讃岐国

・伊予国

 

この頃の元親は、斎藤氏の嫁繋がりで織田信長と同盟を結んでいます。

(信長の正室→斎藤道三の娘

  &

元親正室→石谷光政(斎藤利三の異父妹)の娘)

 

その頃、畿内で力のあった三好氏が信長に敗れ、衰退。

三好氏の生き残りの、

・十河存保

・三好康長

 

などは、

・阿波国

・讃岐国

で抵抗していて、1576年(天正4年)、弟の吉良親貞が亡くなり、元親は 阿波国・讃岐国をなかなか攻略することが出来ないでいました。

 

1577年(天正5年)

三好長治が亡くなり、三好氏の活動は衰えます。

 

1578年(天正6年)

阿波国白地城を侵攻。

大西覚養を討ちました。

 

元親は次男の親和を讃岐国の香川信景(有力豪族であった)に養子として送り込みました。

 

一方、阿波国では、

・十河存保(三好長治の実弟)

・三好康俊

が抵抗をしていましたが、

 

1579年(天正7年)

十河軍に勝利。

 

三好康俊に対し、三好康俊の子どもを人質にとり、降伏させます。

 

1580年(天正8年)までに阿波国&讃岐国の制圧を成し遂げ、残るは伊予国。

 

しかし、これをあまりよく思っていなかった信長は、1580年(天正8年)元親に土佐国と阿波南半国のみを所有し、信長の家臣となるよう迫りますが、元親の答えはNO!。

 

1581年(天正9年)

信長が元親との同盟を反故にし、三好康長と同盟を結び四国征伐を決定。

信長と対立関係となりました。

 

元親を陥れる行動を取った信長の考えはわかっていませんが、元親の勢力が拡大してきたことが理由ではないかと考えられています。

 

1581年(天正9年)

元親 VS 三好康長

十河存保が味方に信長をつけ反撃。

 

1582年(天正10年)

信長は、元親討伐を目的とした四国攻撃軍を編成。

総大将は神戸信孝(信長三男)。

 

これに恐れた三好氏旧臣(長宗我部軍の)たちは、三好康長に寝返ります。

 

1582年(天正10年)

阿波国の一宮城 & 夷山城が落とされる危機が迫り、元親は信長に従う意向を示した手紙を斎藤利三に送りました。

 

そして同年6月2日、元親討伐に信長軍は四国に渡海する予定でしたが、その日に明智光秀から謀反を起こされ信長は自害しました。

(「本能寺の変」)

 

こうして、元親は、危機的状況を「本能寺の変」によって救われたのです。

 

ちなみに、「本能寺の変」の光秀謀反理由の一つに、元親が関与していたのでは?という説があります。

 

織田&長宗我部の同盟の間に立っていたのは明智光秀でしたので、信長の四国征伐というのは、光秀にとっては面目を潰されたことになり、「本能寺の変」のきっかけになった可能性があるのではと言われています。

 

信長が亡くなり、畿内は混乱状態。

元親は四国侵攻を継続。

 

天正10年(1582年)

宿敵だった十河存保を破り、阿波国を平定。

 

1583年(天正11年)「賤ヶ岳の戦い

豊臣秀吉 VS 柴田勝家

では、柴田勝家に味方しました。

 

1584年(天正12年)

讃岐国(現在の香川県)の大部分を制覇。

 

伊予国(現在の愛媛県)を侵攻し、四国をほぼほぼ手中に収め、

1585年(天正13年)

元親は四国統一を果たしたのです。

 

しかし、これにも色々な見解がありまして、総合的に見ると「四国統一は成し遂げられなかった」とも見られています。

ともあれ、四国をほぼ統一した元親の次の脅威は、豊臣秀吉

 

秀吉は、織田信長没後、全国統一に向け勢力を拡大していて、四国平定も視野に入っていました。

秀吉が元親に対し伊予国、讃岐国を返納するよう命じました。

 

元親は伊予を割譲することで解決させようとしましたが、

秀吉は許さず…。

 

1585年(天正13年)

秀吉は四国討伐隊を結成。

総大将 → 豊臣秀長

10万人超えの大軍が四国に攻撃を開始したのです。

 

・讃岐

・伊予

・阿波

などの城が次々と攻略され、元親は降伏。

 

阿波、伊予、讃岐を取り上げられ、土佐一国のみを安堵され、元親は上洛し秀吉の家臣となりました。

1586年(天正14年)「九州征伐」参加。

 

秀吉の命で、大友氏の救援で島津氏と戦うも敗北。

長男・長宗我部信親を亡くしてしまい、諸説ありますが、

・律儀で情け深い

・家臣の意見もよく聞き入れる度量の大きな君主

と言われていた元親ですが、この死によって人が変わったのだとか。

 

嫡男は失いましたが、

次男・香川親和

三男・津野親忠

は生きていました。

 

にもかかわらず、溺愛していた四男の長宗我部盛親に家督相続を強行。

反対者は、例え一族であっても粛清するといった非道な行ないが目立つようになりました。

 

このような言動が、のちの長宗我部氏の滅亡に繋がったとも言われています。

 

1588年(天正16年)本拠地を大高坂城へ移転。

1590年(天正18年)

「小田原征伐」参加

 

1592年(文禄元年)「文禄・慶長の役」参加。

 

1598年(慶長3年)

秀吉が亡くなると、伏見城から土佐国へ戻りました。

 

1599年(慶長4年)

体調を崩し療養の為に伏見城へと向かいます。

 

そして1593年(慶長3年)

伏見邸にて死去。

享年61歳。

 

この後、

・次男の香川親和→悲嘆の中での病死

・三男の津野親忠→長宗我部盛親に殺害される

 

で、長宗我部盛親は、「関ヶ原の戦い」で徳川家康と敵対し、結果は、大名→浪人へ転落。

改易された理由は兄殺しを家康に咎められたというのが有力な説です。

 

盛親は、再び大名に返り咲く為、「大坂冬の陣・夏の陣」では豊臣方に味方し臨みましたが、敗北。

盛親は5人の息子もろとも斬首され、長宗我部氏は滅亡しました。

 

長宗我部元親と光秀の関係

 

長宗我部元親と光秀の関係

 

長宗我部元親の妻 は、石谷氏(美濃の名族)出身と言われています。

石谷氏は土岐氏の分家です。

明智氏も土岐の分家なので、ざっくり簡単に言うと同族ということになります。

 

で、元親の妻(石谷氏)は、光秀のいとこか姪にあたるくらい近い血族で、光秀の家老である斎藤利三の妹であると言われています。

(斎藤利三は、春日局の父です)

 

なので、明智光秀と長宗我部元親は、親戚関係ということになります。

信長と元親が同盟を結んだ時のやり取りは、明智光秀&斎藤利三が仲立ちしていたようです。

 

元親の息子に「信」の字が与えられたのも、両家の同盟(従属関係)の象徴みたいなものです。

 

本能寺の変は長宗我部元親と信長の揉め事が原因?

 

本能寺の変は長宗我部元親と信長の揉め事が原因?

 

未だ謎の多い「本能寺の変」の諸説あるなかの一つに、四国説というのがあります。

四国説は、長宗我部元親と関係の深い明智光秀が、信長の四国征伐を回避する為、信長を討ったという説のことです。

 

光秀は、元親 & 信長の交渉窓口であったとされ、元親と信長は友好関係にありましたが、状況は一変します。

三好氏を巡る処遇の変化により方針がかわり、信長は元親に阿波の占領地半分を返還するよう迫ったのです。

 

元親は不服に思い、これを機に信長は四国征伐を考えるようになったとされ、細かい経緯や感情は省略しますが、このことがきっかけで光秀を謀反に駆り立てたのではないかという説です。

 

とはいえ、「本能寺の変」は

色々な説があり、有力な説から俗説まで合わせると、50を超える説があるそうです。

 

どの説が正しいのか、間違いなのか、わかりませんが、元親と信長の揉め事が原因の一つとしても挙げられています。

 

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