豊臣秀吉に代わり、天下を治めた江戸幕府初代将軍・徳川家康。
日本人の殆どの方が知っていると言っても過言ではないでしょう。
それ程有名な徳川家康ですが、家康の父はご存知でしょうか。
今回は大河ドラマ『麒麟がくる』にも登場する家康の父・松平広忠にスポットをあてて見ていきましょう。
松平広忠の名前があまりメジャーではないのは24歳の若さで亡くなったからではないでしょうか。
その死も、病死だったのか、はたまた暗殺だったのか…。
あまり知られていない松平広忠の生涯を見ていきましょう。
目次
『麒麟がくる』松平広忠役は浅利陽介!
画像引用元:https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=M00-0012
大河ドラマ『麒麟がくる』で、松平広忠役を演じるのは浅利陽介(あさり ようすけ)さん!
名前とお顔が一致しない方もおられるかもしれませんが、見たら「知ってる!」「見たことある!」となるのではないでしょうか。
浅利陽介さんは若手の俳優さんですが、4歳の子役時代からお仕事されていて、何と今年は芸歴28年目!
現在32歳にも関わらず大ベテラン俳優さんで、数々の有名な映画&ドラマにご出演されております。
大河ドラマ出演作品一部ご紹介すると、
・『秀吉』
・『元禄撩乱』
・『北条時宗』
・『新選組!』などなど。
話題作品に出演されています。
ちょっと素朴な感じなのですが、表情によってはイケメンにも見えちゃう凛々しさ。
かわいい顔だちなのでドラマ映えタイプ?と思っていましたが、時代劇もなかなかいいですね!
どの作品でも親しみのもてるいい味を出していらっしゃいます。
チェックしてみても面白いかもです。
今回『麒麟がくる』では、松平広忠役を演じられます。
きっと、今回のドラマの雰囲気の中でいい味を出されること間違いなしです。
期待が膨らみますね。
松平広忠 幼くして家督を継ぐ
松平広忠は1526年(大永6年)、三河を支配する松平清康(安城松平氏の当主)の嫡男として誕生しました。
幼名→「竹千代」が一般的にはよく知られていますが、諸説あり、他には「千松」「千松丸」「仙千代」があります。
実は父・清康が家督を相続する前、後継者に器量のある信定(大叔父)を推す声が多かったようです。
しかし、信定は松平親房の養子に出された事もあり、候補から外されると考えられていました。
なので結局、家督については清康が継ぐことになったのでした。
さて、家督を継ぐ事が出来なかった信定ですが、家督を継ぐ事になった、父・清康の三河国統一を支えてくれていました。
しかし、そんな2人の関係にも暗雲が立ち込めます。
それはある時、信定が起こした合戦での不手際について、清康がひどく罵倒したことがきっかけで、二人の間に亀裂が生じたのでした。
まぁ、家督を相続した立場とはいえ、年下・・いや、甥ですからね。
自分にミスがあったとはいえ、罵倒されたとなると、それまで我慢していた細かな事も(あったと思いますが)爆発したんでしょうね。
そして1535年(天文4年)、父・清康は突如、阿部正豊(家臣)に斬られ亡くなります。
それは織田信光が守備する「尾張・守山城攻め」の最中に起きたようですね。
これはのちに「守山(森山)崩れ」と呼ばれた事件ですが、なぜ起こったのかという理由には諸説あります。
・阿部正豊が織田氏への寝返り疑い説。
・大叔父の信定が仕掛けた陰謀説。
(信定の背後に織田信秀がいたと考えられています)
がありますが、真相はわかっていません。
こうして松平広忠は、10歳の若さにして家督を継ぐこととなり、そこから彼の運命は大きく変わっていくのです。
普通なら三河国の統治者になるのが自然な流れではありましたが、幼かった松平広忠の後見役となったのは、大叔父・信定。
そしてこの大叔父・信定による「岡崎城乗っ取り」が開始されるのです。
しかし、まだ幼かった松平広忠にはこの行動が全く理解できませんでした。
信定の逆襲
当時は、
・今川から臣従を強いられる。
・織田弾正忠家からの圧迫。
幼い当主に不安を抱かれていたのかもしれない。
そのように考えられていました。
そうして信定は、
・岡崎城を手中に収め!
・松平家家臣も掌握!
となり、松平広忠の殺害を企てるようになるのです。
身の危険を感じた松平広忠は、阿部定吉(家臣)の協力を得て、岡崎城(松平氏本拠)から去ります。
この阿部定吉ですが、実は父・清康を殺害した正豊の父。
阿部定吉本人は、父・阿部定吉の暴挙を聞き、自害しようとしましたが、当時は松平広忠が止めたとか。。。
良い話のようですが、この話には裏もあり、阿部定吉は清康殺しの責任から逃れる為、幼かった松平広忠を連れ出した。と考えられています。
保護ではなく、自分の身を守る為。つまり担保として。ってことですね。
とにもかくにも、岡崎城をあとにします。
そして広忠は
・伊勢国
・神戸
に領地を持つ吉良持広の庇護を得て、匿われる事になりました。
そしてそこで元服の儀を執り行い「吉良持広」より一字を拝領し、そこから正式に広忠と名乗る様になったのです。
史料によって松平広忠の元服の時期はかわってくるのですが、
・松平記
・御年譜附尾
・徳川記
によると、1536年(天文5年)春頃、伊勢国の地で元服。
とありますが、一説には岡崎城に帰還後、元服。ともあります。
一方、信定は岡崎城へ入城。
ちなみに、程なくして岡崎城城主の地位を松平信孝(清康の弟)に譲り、信定は碧海郡上野城(拠点地)に戻っています。
譲った理由は謎です。
もしかすると、「松平氏は織田信秀の支配下に入り、新たな当主に信定が就いた。」
ということだったのかもしれません。
実は、信定は松平氏の歴代当主に入っていません。
その理由は、系譜が家康に繋がっていないから・・・とも考えられています。
岡崎帰還と松平広忠の最期
松平広忠が元服したその年、吉良持広は死去し、吉良義安(養嗣子)は織田氏と通じていたので、松平広忠は庇護者を失いました。
その頃、信定は既に亡くなっていた事もあり、大蔵定吉(家臣)と三河へ逃れ、長篠で潜伏生活を送った後、今川を訪ねます。
そこで岡崎帰参を願い、暫く滞在する事になりました。
今川義元の計らいで「牟呂城」に移り、その後、松平信孝 & 康孝兄弟(父・清康の弟達)の力添えによって、岡崎帰参が叶うのです。
家臣らは松平広忠を正当な後継者として歓迎しますが、信定に居城を奪われた過去について、不運な当主だと感じていました。
そこで、父・清康を敗退せしめた織田弾正忠家の城を奪うことで、家臣らに自分の力を見せつけようと、約三千人の兵を率いて隣国尾張国の「鳴海城」に向かって進軍を開始しますが、失敗に終わります。
それもそのはず、兵に駆り出された多くの兵は農民で、軍備も整っていませんでした。
しかも、松平広忠出陣の情報は既に知られており、鳴海城城主・山口教嗣と、その主君・織田信秀の軍まで控えていたのです。
岡崎城を守る為に、尾張からの途上にある安祥城で守りを固めることにした広忠でしたが、急遽、父・清康の大叔父・松平長家に安祥城を頼み、岡崎城に戻ってしまったのです。
もし、このまま松平広忠が残って織田軍を迎え撃てば、何か展開は違っていたのかはわかりませんが、こんな大事な場面で帰ってしまったのです。
そんな安祥城には、織田信秀を含め
・刈谷城の水野忠政率いる約3,000の兵。
・歩兵10,000を別動隊として南側から攻撃。
・信秀率いる騎馬隊2,000を北側から攻撃。
が襲い掛かり、敗戦で既に士気の落ちていた安祥城守備兵は劣勢となりながらも、部隊を南北に分けたり、北の騎馬隊を押さえたり…。と、壮絶な戦いを繰り広げました。
松平勢は50名もの家臣が討死。
両軍合わせて1,000人を超える犠牲者がでました。
信秀は、勝利はしましたが損害が大きかったので、信広(信秀の子)に戦の功労報奨として安祥城を任す事にし、古渡城に撤退します。
後にこの戦は「第一次安城合戦」と呼ばれるようになりました。
1541年(天文10年)
水野忠政(尾張国緒川城城主)の娘・於大(のちの家康の母「於大の方」)を広忠に嫁がせ和睦。終結。
1542年(天文11年)
竹千代(のちの家康)誕生。
そして、松平広忠は織田氏だけではなく、岡崎城奪還に協力してくれた信孝と争うことになるのです。
しかし、信孝を排除なんて思いは全くなく、拡大していく信孝の勢力を怖れた広忠の家臣たちが押し切ったかたちで、信孝が義元(駿河国)の所に行った留守を突き、三木城を陥落。
信孝は広忠に反旗を翻したわけではないので、抗議。
義元へも訴えましたが聞き入れられず、仕方なく織田氏に臣従し、三河国大岡城(山崎城)に入りました。
この頃、水野忠政(広忠の義父)が亡くなり、嫡男・水野信元が家督を継ぐと、これまでの方針を変え織田氏に加担。
松平広忠は水野氏との同盟を破棄します。
そして於大の方と離縁。
領土を守る為に広忠は、今川氏に服従するみちしかなく…。
広忠は、まだ6歳の嫡男・竹千代(家康)を人質に差し出すことにしたのですが、竹千代護送中に田原城城主・戸田康先の裏切りで、家康の身柄は織田氏の元へ。
その後、義元に田原城を攻められ戸田氏は滅びました。
織田信秀は、松平広忠に今川氏との断交を迫りましたが、これに広忠は応じず。
大事な嫡男が織田の手に渡り、嫡男の命が危ういこの状況の中、今川氏との繋がりを重要視したということです。
1548年(天文17年)再び「小豆坂の戦い」が起こります。
織田氏は斉藤氏(美濃国)と姻戚関係を結び、岡崎城陥落のため侵攻。
義元も西三河に太原雪斎を総大将として、広忠に援軍を送りました。
松平広忠の参加はわかりません。が、していたのでは?と思われています。
結果、今川の勝利。
この後、信孝が岡崎城を陥落に向け出陣しましたが、広忠勢が射た矢に当たって亡くなります。
しかし、叔父・信孝の首を見た広忠は号泣。
信孝を追放し、命を奪った無慈悲を嘆いたとされます。(「三河物語」)
そして迎えた1549年(天文18年)、松平広忠は24歳の若さで謎の死をとげています。
死因は不明。
・病死説
(「三河物語」「松平記」)
・暗殺説
(家臣・岩松八弥(片目弥八)に刺殺された説。「岡崎領主古記」)
・戦死説
(一揆によって殺害された説。「三河東泉記」)
など、未だ謎に包まれています。
近年、岩松八弥の刺殺説が最も有力です。
これが本当だとすると、親子二代に渡り、家臣に背かれたことになります。
何とも皮肉な話ですが、このような状況からのちに、徳川家康が天下を獲るのですから、不思議ですよね。
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