大河ドラマ『麒麟がくる』に登場する名将・武田信玄の息子に、武田勝頼という武将がいます。
武田勝頼は父・武田信玄のような武将だったのでしょうか。
織田信長との関係も気になるところ。
では、武田勝頼はどのような武将だったのか見ていきましょう。
目次
武田勝頼とは 父・信玄のような武将だった?
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
父・武田信玄は、名将で知られる有名な武将なので、武田と言えば武田信玄が先に出てくるので、武田勝頼はあまりご存知ない方も多いかもしれません。
もし、知っていても偉大な父と比べられ、勝頼と言えば「武田家を滅ぼした」なんて悪い評価の部分が先に出てしまいがちです。
でも実は、武田勝頼、父・信玄のような・・・
もしくは、軍事の才に秀でた武将だったと言われていました。
実は、もの凄ーくデキる男で、当時の評価は高かったようです。
では、武田勝頼とはどのような武将だったのか簡単に見ていきましょう。
武田勝頼は、1546年(天文15年)武田信玄の4男として誕生しました。
1562年(永禄5年)
信玄が信濃平定の政略の一環として、信濃では名門だった諏訪家(母の実家)を継がされ、「諏訪勝頼」と名乗り、信濃の高遠城主になりましたが、信玄の駿河攻略において、信玄と義信(後継者の異母兄)の意見が対立。
そして和解できないまま・・・
1565年(永禄8年)
武田義信は、謀反の罪で幽閉され自害させられてしまいました。
次男は盲目で出家。
3男は早死していて…。と、いったことが重なり、勝頼は4男でしたが・・・
1573年(元亀4年)
父・信玄がこの世を去ったあと、武田家の家督を継ぎ第20代当主になり「武田勝頼」と名乗りました。
このとき勝頼27歳。
信玄の時代に敵対していた諏訪家の血を引く勝頼は、古くから武田家に仕える家臣達から、あまりよく思われていなかったので、武田家の統率には苦悩したそうですが、家臣を納得させる為、自分の実力を示し奔走。
西の織田信長の領地、美濃国に攻め入り、次々に城を落とし、その数何と18城!
しかも、わずかひと月半というので当時、信長も震え上がったのではないでしょうか。
そして、南の徳川家康が支配する遠江へ侵攻し、父・信玄でも落とせなかった高天神城を陥落させました。
石高も22万5千石→100万石まで拡大していったのです。
そんな波に乗ってきた矢先・・・
1575年(天正3年)「長篠の戦い」勃発。
武田勝頼 VS 織田信長+徳川家康の連合軍
圧倒的に不利な状況で、家臣から撤退の進言がありましたが、進言を無視。
結果→大敗。
これにより雲行きが怪しくなっていきます。
そこで、領国再建に向け北条氏と和睦をはかり同盟強化に努め、すぐに武田軍の再編を呼びかけ、20,000人の兵を集めることに成功。
この間2か月。
その後もさらにじわじわと領地を拡大していきました。
「長篠の戦い」から3年が経つ頃には、武田家史上、最大の領土を獲得するまでに。
ところが、
1578年(天正6年)「御館の乱」
実子がいなかった上杉謙信は、
・甥・景勝
・北条氏から景虎
を養子にしていて、謙信亡き後、この二人によって家督争いがおきたのです。
その時勝頼は、景虎(北条氏からの養子)ではなく、景勝側に支援します。
それにより、北条家との同盟破綻。
また、勝頼は守りを強固にすべく新城(新府城)を築きました。
それにかかる莫大な費用&労力を家臣と領民に課し、不満を持った家臣が次々と離脱。
さらに
1581年(天正9年)
「高天神城の戦い」に援護を送らず落城。
援護を送らなかった理由は、
・北条氏を敵に回し援軍を送る余裕がなかった
・織田が勝頼に和睦を申し入れ時間稼ぎをする策にはまった
とされています。
どちらにせよ結果的に高天神城を見殺しにしてしまったのです(高天神崩れ)。
そして・・・
1582年(天正10年)
「甲州征伐」味方の親戚に寝返りされ、天目山に逃亡。
そして自害。
享年37歳。
そうして武田家は滅亡となりました。
武田勝頼と織田信長との関係
1565年(永禄8年)
遠山直廉の娘(織田信長の姪)を織田信長は養女としているのですが、信長はこの娘を武田勝頼に嫁がせ、武田信玄と友好的関係を結んでいます。
織田信長と武田信玄の間にはこの頃から外交関係があったのではないかと推測されています。
なので、ちょっとややこしいですが、ざっくり簡単に言うと、義父になります。
それに勝頼は、信長から高く評価されていたようで、勝頼が次々に領土を拡大していた頃、当時、織田信長の上杉謙信にあてた書状に
「勝頼は武勇に優れた武将であり油断は禁物」
と警戒を促したのだとか。
他にも「表裏を心得た恐るべき敵」と評価していたり、勝頼の死後には、
「全国で屈指の武将だった」
「滅んだのは運が悪かっただけだ」
と言っています。
また、上杉謙信も「勝頼は、片手間であしらえるような軽い相手ではない」と言っていたとか。
江戸時代の『甲陽軍鑑』において「強すぎる武将」と記されているので、勝頼は武田信玄に勝るとも劣らない武将だったのではないかと思われます。
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