大河ドラマ『麒麟がくる』で、織田信長の弟の織田信行(信勝)が登場します。
織田信行(信勝)は、戦国時代の尾張の武将で、あの織田信長の同母弟です。
織田信長は12人兄弟がいると言われていますが、嫡出子はこの織田信行(信勝)と2人だけです。
兄・織田信長と何かと比べられる事が多かった弟・織田信行(信勝)。
兄より優秀?と言われながらも、兄に謀殺されるという悲しい最期を迎えた信行(信勝)。
どんな人物だったのか、さっそく見ていきましょう。
目次
信長より真面目に育った織田信行
織田信行(信勝)は織田信長の弟は弟なのですが、生年月日は不祥で、1536年(天文5年)という説もあります。
そんな織田信行(信勝)に関する史料は残されてはいるのですが、彼がどんな人物だったのかがわかる史料というのは、意外にもあまり残されておらず、その辺りは不明です。
そんな信行(信勝)が真面目だったと思われる、父・信秀が亡くなった時の逸話が残されています。
兄・信長は葬儀のとき、仏前で抹香を投げつける。といった行動をしたのに対し、弟・織田信行(信勝)は、兄とは対照的でした。
信行(信勝)は正装で参加し、礼儀正しく振る舞っていたとか。
織田信長は赤ちゃんの頃から癇の強い子で、母も手を焼いていたようですが、弟・織田信行(信勝)は、穏やかで素直な子なとってもいい子。
兄に比べ育てやすかったようですね。
そんな素直な子の方が、どちらかというと母に可愛がられていたのでは?といった事も考えられます。
それが原因なのでしょうか・・・?
とにかく二人は次第に対立していくのです。。。
信長との対立
信長に比べて真面目な織田信行(信勝)が後継ぎに相応しい!と、母も含め多くの家臣が、そう思っていました。
すると、自然と本人もそういう気持になっていった様ですが、父・信秀は、嫡男→信長。とし、織田信行(信勝)のことはハッキリしないまま亡くなくなってしまったのです。
父の遺言で後継者となったのは兄の信長でしたが、弟の信行(信勝)は、そのまま末森城に住み、引き続き柴田勝家らの付家老が仕えました。
信長には筆頭家老の林秀貞が仕えていたので、家臣の格的には互角となります。
ただ、秀貞は信行派だったこともあって、心情的には若干信長が不利でした。
この頃はまだ信長&信行兄弟の間に大きな対立はなかったようですが、少しずつ不穏な空気が漂い始めます。
当時の織田弾正忠家は家格、地勢において弱小でした。
そこで力を見せられるものといったら、お金。
熱田の豪商に対し、信行&信長が別々に判物を発給し始めたので、対立は避けられなくなりました。
なぜこんな事態になったのか定かではありませんが、この頃、
・信長の「じいや」(二番家老の平手政秀)が自害。
・信長&斎藤道三が初会見。
と、大きな動きのあった年でした。
道三が信長を気に入っちゃったなんて、信行はびっくりしたでしょうねぇ〜。
しかも、叔父・織田信光(信秀の弟)は、1554年(天文二十三年)不慮の死を遂げています。
こうしたことが影響を与えたのかは不明ですが、弾正忠家の家督争いが始まってしまいます。
1555年頃、織田信行(信勝)に嫡男・坊丸が誕生しました。(のちの津田信澄)
信行は、この辺からイメージ戦略を始めます。
・「達」の字を使って「達成」と名乗る。
(主君筋だった織田大和守家でよく使われていた)
・父と同じ「弾正忠」の官職を自称した。
など、織田信長に対抗する姿勢が見え始めました。
1555年(弘治元年)6月。
織田秀孝(信長と信行の弟)が、叔父・織田信次の家臣に誤殺される。
という事故がおこり、信行は激高。
直ちに信次の居城・守山城の城下を焼き払います。
信長は…というと、この事の次第を聞くと、「俺の弟ともあろう者が、身分をわきまえずに一人で出歩いていたのだから、事故が起きても仕方ない」と客観的&冷静に判断。
二人は正反対の対応をしました。
そして信次が行方をくらませた後は、守山城に織田信時(秀俊・信長&信行の兄弟)が入りましたが、信時は男色相手を寵愛しすぎて、年寄衆の角田新五にキレられ、1556年(弘治二年)に、切腹に追いやられます。
角田新五はこの後「稲生の戦い」で信行方についているので、現代では、「もしかすると、この件に信行が関与していたのでは?」と言われています。
で、この年には別の大事件もありました。
それは、「長良川の戦い」で信長の最大の協力者、斎藤道三が息子の義龍に討ち取られてしまった事。
そして義龍は、岩倉織田氏(尾張上四郡の半守護代)などに接近し、信長も失速させようと考えます。
そんな中、信行も信長への反旗を翻しました。
これを「稲生の戦い」といいます。
柴田勝家、そして林美作ら、信行方の重臣も参加していましたが、結果は信長方に軍配あり!
・勝家→敗走。
・美作→討ち死。完敗でした。
その後、信長の末森城攻めに対し、信行は籠城戦に持ち込もうとしましたが、母・土田御前の仲立ちで、信行が信長に詫びを入れることで、柴田勝家、林秀貞は赦免されました。
このあとも、
・独自の判物発給。
・斎藤義龍との連絡。
などなど、不穏な動きはまだまた続き、1558年(永禄元年)3月、信行は「竜泉寺城」の築城を開始。
軍事拠点を作るなんて、信長に喧嘩を売ってますよね。
折角、詫びを入れても、信行は口先男。だと思われても仕方がありませんね。
この頃には、信行は、
・男色相手を寵愛。
・他の家臣たちを軽んじ始める。
そんな態度に、柴田勝家は虚しくなり、信長に鞍替えしたとされています。
そこで信長が、信行を仮病をつかっておびき寄せ、謀殺したのです。
兄に謀殺される最期となった理由は?
信長は信行を謀殺する為、仮病を使いました。
その為信長は外出をしなくなり、結構リアルな感じで信用させたようです。
信行はすぐに見舞いに行ったわけではなく、家臣・柴田勝家と母に「兄弟なのだから、こんな時は見舞いに行くべきでは。」と、言われ信行は見舞いに行くことを決めたようです。
で、見舞いに来た弟・信行は、信長の家臣に殺されたのでした。
こうなったのには色々理由や過程があるとは思うのですが、全ては信長と信行の父・信秀の死から、始まったのではないかと思います。
「うつけ」と呼ばれていた信長と、真面目で優等生の信行。
母や家臣たちが「次の後継ぎは信行でしょ!」と言うので、本人も「そうなのかなぁ?次はオレ!?」ってなっちゃうのもわかる気もしますが…。
普通にいけば嫡男・信長で決まりなのに、当時の信長は うつけ者なんて 呼ばれていたので、やはり仕方なかったのでしょうか…。
そして、信行派と信長派に家の中は別れ、信行派は信長暗殺を企みましたが、信長にバレてしまい逆に信長に殺されてしまったのです。
信行の中には「打倒!信長!」ただそれだけしか頭になかったのではないでしょうか。
周りが見えていなかったのかもしれませんね。
そしてこの悲しい結果を生んだのには、色々な過程があるのはもちろんですが、一番は、信行が情に暑い柴田勝家を大事にしなかったのは大きそうですね。
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