豊臣秀吉には正室の寧々の他、たくさんの側室がいました。

側室の中でも茶々(淀殿)という女性が秀吉の人生や秀吉死後の豊臣家に大きな影響を与えたと言われています。

 

二人はどのような女性だったのでしょうか。

順に見ていきましょう。

 

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目次

豊臣秀吉の正妻 寧々

豊臣秀吉の正妻 寧々

豊臣秀吉の正妻の寧々が生まれたのは、1547年(天文16年)説と、1549年(天文18年)説があります。

 

父→尾張国、杉原定利

母→朝日殿

 

この二人の次女として生まれるとすぐに、尾張国海東郡津島(現在の津島市)の、浅野長勝(浅野又右衛門長勝)七曲殿(母の妹)の養女となりました。

 

実の兄弟には、

・木下家定

・長生院

・杉原くま

がいます。

 

名前は一般的に「ねね」とされていますが、豊臣秀吉や高台院の書いた署名などには、

・おね

・祢(ね)

・寧(ねい)

と表記がある為、最近では「おね」と表現されることが多くなっています。

今回は寧々(ねね)で表記します。

 

1561年(永録4年)

織田信長の家臣となった木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)と結婚。

 

祝言は浅野家で行われました。

簀子の上に藁を敷き、その上に薄縁を敷いて席を作り、杯を飲み交わすだけの質素なものだったと伝わっています。

 

さて、二人の馴れ初めには諸説あります。

この時代には珍しい恋愛結婚説と、織田信長が鷹狩りの帰りに浅野長勝の屋敷に立ち寄り、養女の寧々が茶を出したのがきっかけとなり、織田信長が「藤吉郎、この娘を妻にせよ」と命じた。という説。

 

朝日殿(実母)も養母も、浅野家の養女だった寧々の身分の方が藤吉郎より上だったことや藤吉郎がバツイチだったこともあり、結婚には最後の最後まで大反対だったそうです。

 

それでも、寧々の実兄のとりなしで、何とか結婚することができたのだとか。

(恋愛結婚説でお伝えします)

恋愛結婚だった二人は、それでも大満足だったようで、結婚当初から姑のなか(大政所)と同居だったので、夫婦水入らずとはなりませんでしたが、それでも実の母娘みたいに仲がよく、一緒に楽しく暮らしていたそうです。

 

1568年(永禄11年)

信長が岐阜城に本拠を移してからは、岐阜城下の屋敷に住みました。

 

秀吉との間に子どもがいなかったので、1574年(天正2年)

秀吉が長浜城主となると、

・加藤清正

・福島正則

といった

親類縁者を養子&家臣にして養育し、秀吉の母のなかも一緒に暮らし、城を留守にしがちな夫・秀吉を支えたのです。

 

秀吉は、この長浜城主時代から、

・於葉の方

・南殿

など側室を設け始め、寧々は秀吉の女好きに悩んでいて信長にも相談していたそうです。

これに対し信長が 、秀吉に「おねを気遣うように」といった内容の書状や寧々を励ます書を書いたそうです。

 

信長が安土城に移ると、安土城下の屋敷に滞在したのですが、その時に寧々と親交の深いまつ(前田利家の妻)とは、たまたま隣同士で毎日談話したと言われています。

 

1582年(天正10年)「本能寺の変

秀吉は備中高松城の清水宗治を攻略中。

寧々は危険を察し、一族を長浜城 → 伊吹山麓の大吉寺に避難させました。

 

そのため、明智勢の

・京極高次

・阿閉貞征

らが長浜城を占領した時に、難を逃れる事が出来たのです。

 

秀吉と無事再会したのは、秀吉勢が「山崎の戦い」で光秀を討ち、長浜城の京極高次 & 阿閉貞征が逃亡したあとのことでした。

 

1583年(天正11年)~ 秀吉、大阪城の築城開始。

 

1585年(天正13年)

豊臣秀吉が関白に任官され、寧々も従三位に叙せられます。

そして、北政所の称号を許されました。

 

そこから北政所(ねね)は、天下人 秀吉の正室として、朝廷との交渉を一手に引き受け、徳川秀忠など人質として集められた諸大名の妻子の世話役を担っていくのです。

 

その後、北政所は破格の従一位に叙せ、豊臣政権において大きな発言力と高い政治力を持つようになり、多くの大名は大阪城を訪れた時には、北政所にも挨拶に出向くほどに。。。

 

そんな北政所は、豊臣家の内政を取り仕切る手腕というのは、戦国武将たちも脱帽するほどとなり、秀吉も寧々を信頼し、重要な役割を任せるようになっていきました。

 

あと、寧々と秀吉は、政治のことで意見が対立すると、人前でも尾張弁で激しい口論をしたとか。

豊臣秀吉が留守をしていると、「お見舞い」と称して、朝廷から北政所に、

・着物

・帯

・香

・紙

などが贈られるなど、秀吉の留守に豊臣家の政務を司っていたことが伺えるエピソードが、この他にもたくさん残されています。

 

寧々は武将たちに一目置かれる存在であり母ともいえる存在で、とにかく慕われていたそうです。

秀吉を訪ねてくる武将たちを気遣い、気分良くもてなすよう配慮していました。

 

また、武将の妻たちともすぐに打ち解け仲良くなり、交流を持ち続ける人柄だったと言います。

そんな不思議な魅力のある人物だったそうです。

 

妻として完璧な寧々。

たくさんの養子がいましたが、寧々と秀吉との間には実の子はいませんでした。

 

養子には、親戚から迎えた子や、政略として引き取った子もいましたが、寧々は全ての子どもに愛情を注ぎ養育しました。

 

1598年(慶長3年)に秀吉が亡くなると、秀頼(秀吉と側室の淀殿の子ども)の後見人として、秀頼の世話役を負っています。

妻としてはどのような気持ちなのでしょうね。

愛する人の子どもとはいえ自分には子どもが授からなくて…。って状況を考えると寧々の性格の良さがここにも滲みでていますね。

 

豊臣家は衰退の一途を辿っていきましたが、徳川家康は寧々だけは特別に扱い、秀吉の霊魂を慰めるのに高台寺の設立を相談され、惜しまず援助をしたそうです。

 

政治的な理由から、幼い秀忠(徳川家康の嫡男)は、豊臣家の人質になっていた時期がありましたが、人質生活は辛いばかりではなかったのです。

 

人質たちのことを寧々が、もてなしてくれたのです。

家康も幼少期に人質として苦労をしてきたので、息子が人質となったとき、良くしてくれた寧々をないがしろにすることなどできなかったのかもしれません。

 

そして、秀吉の遺言でもあった

・秀頼

・千姫(父・徳川秀忠)

の婚礼を済ませ、落飾し、京都に高台寺を建て、自分の生母や亡き秀吉の供養に専念します。

寧々は高台寺で余生を送るのですが、秀忠はよく訪ねていたといいます。

 

朝廷から院号を賜り寧々は「高台院」と称されるようになりました。

将軍職に就いた秀忠に大事にされ、寧々は晩年、生活に困ることもなく高台寺で息を引き取ることとなるのです。

 

享年は67歳 or 77歳 or 83歳だったと言われています。

 

寧々はとても美人だったそうですが、見た目だけではなく性格も美人。

敵味方関係なく接し、人々から慕われる女性だったそうです。

 

寧々がいたからこそ、秀吉は出世をし、天下人にまでになれたのかもしれませんね。

まさに内助の功ですね。

 

豊臣秀吉の側室 茶々

豊臣秀吉の側室 茶々

 

茶々が誕生したのは1569年(永禄12年)頃。

 

近江(滋賀県小谷市)にて、

父→浅井長政

母→市(織田信長の妹)

二人の長女として生まれました。

 

1572年(天正元年)「姉川の戦い

・父→自害

・祖父は自害

・兄 万福丸 → 秀吉によって切腹させられました。

そして父の死後、織田家に保護されています。

 

1582年(天正10年)「本能寺の変

織田信長が死去。

母・市は柴田勝家(織田家家臣)と再婚。

 

1583年(天正11年)「賤ヶ岳の戦い

 

柴田勝家 VS 羽柴秀吉

勝家とともに母・お市 → 自害。

 

茶々の両親の死には、秀吉が深く関わっており、茶々にとって秀吉は「親の敵」とも言えるような存在でしたが、1588年(天正16年)、茶々22歳の頃、秀吉の側室に。

 

戦国時代には、勝った側が負けた側の家臣や妻子の面倒を見ることはよくあることで、茶々のように親を殺した相手の側室になることは珍しくありませんでした。

 

当時、世継ぎがいなかった秀吉にとって、茶々の織田家のDNAは魅力的。

茶々もまた、長女の自分が浅井家の菩提を弔わなければ!という思いがあり、秀吉との関係を受け入れたのではないかと言われています。

 

実際、秀吉との子を産んだ後、褒美として

・父・浅井長政の17回忌

・母・市の7回忌

の追善供養を秀吉に願い、茶々が内内に行っています。

 

これは秀吉の政略により、他家に嫁いだ妹たちにはできないこと。

茶々は親の敵の子どもを生むことで、両親の供養につとめたのです。

 

1589年(天正17年) 鶴松を出産。

 

秀吉は女好きで、資料にあるだけでも14人の側室がいたようです。

他 + αの女性と関係を持ったとされていますが、子どもが出来たのはこの茶々との間だけ。

 

しかし当時、秀吉は50歳を超えていたので、茶々の子の父は本当に秀吉!?という噂がたち、妊娠中、好奇の目に晒されることも多かったようで、「落ち着いた環境で出産できるように」と、秀吉は山城淀城を建設。

 

この頃から茶々の呼び名が淀殿になります。

秀吉にとって男児の誕生は喜ばしいことでしたが、わずか3歳で病死。

 

このとき秀吉55歳頃だったこともあり、世継ぎを失い、急ぎ甥の豊臣秀次に関白職を譲りましたが、1593年(文禄2年)秀吉57歳のとき何と!

茶々との間に二人目の男児誕生(秀頼)。

 

秀頼出産後は、両親に加え、市の二人目の夫で茶々の養父・柴田勝家の菩提も弔っていたと言われています。

 

秀吉は家督争いが起きないよう、関白職を譲る順を、秀次→秀頼としましたが、二年後、秀吉は秀次の

・関白職を剥奪

・強制的に出家させる

・蟄居を命じる

・切腹させた

・秀次の家臣、妻子に至るまで処刑

しています。

 

史料には、秀次が謀反を企てた。とありますが、これには諸説あります。

真相は、謎のようです。

 

この頃になると殆ど亡くなっており、豊臣家を把握する人物もいなくなっていました。

この件が、豊臣家の崩壊した発端だと考えられます。

 

秀吉死去後、正室・寧々(北政所)は落飾して高台院と名乗ります。

茶々は秀頼の後見人となります。

そして、政治的な実権をにぎるようになったようです。

 

秀吉の死後、

豊臣家を大事にするべき石田三成

VS

権力を持ち始めた徳川家康

 

前田利家が死去すると、さらに徳川家の権勢が強くなりました。

茶々は豊臣家として中立の立場をとり、家康に石田三成挙兵の手紙を届けています。

 

茶々からの手紙を証拠に、秀頼様の為!と挙兵。

1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い

 

徳川軍勝利。

石田三成は処刑。

 

家康は、「石田三成ら西軍と茶々ら豊臣家の関わりはなかったと信じている」、と使者を通じ述べ、茶々は感謝の手紙を家康に書いたとされますが、その後、茶々VS家康となるのです。

 

それは、家康は恩賞を自分の分配で決め、豊臣家の領地は大阪の65万石のみとなります。

そして、1603年(慶長8年)に、徳川家康が征夷大将軍に任命。

家康は、秀頼(茶々の子)に臣下の礼をとるように求めましたが、茶々はこれを拒否。

それは、徳川幕府2代目将軍が、世襲により徳川秀忠に決まったことも大きな原因だといわれています。

 

幕府側の交渉役→片桐且元と、茶々の侍女→大蔵卿局の言葉の取り違いが火種となり、1614年(慶長19年)「大坂の陣」勃発。

 

茶々は自ら豊臣家恩顧の大名を招集。

加勢は得られず、徳川家と講和。

 

二度目の戦い「大坂夏の陣」で敗北。

1615年(慶長20年)

茶々は、秀頼と切腹したとされています。

 

享年50歳(頃?)

強い女性だったようですね。

 

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