大河ドラマ『麒麟がくる』で、斎藤利三(さいとうとしみつ)が登場します。

斎藤利三は明智光秀の家老です。

 

山崎の戦い」では、先鋒を任される程、明智光秀が信頼していた武将で、織田信長謀反の計画(本能寺の変)」も打ち明けられていたくらいの重臣です。

 

しかし「山崎の戦い」では、光秀に味方する者は少なかったとか…。

斎藤利三は渋々光秀に従って「本能寺の変」に参加したのでしょうか?

 

実は、この「本能寺の変」は明智光秀ではなく、斎藤利三が実行犯では。という説もあるのです。

そんな謎の多い「本能寺の変」も含め、斎藤利三という人物を見ていきましょう。

 

 

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目次

明智光秀の家臣となった斎藤利三

 

明智光秀の家臣となった斎藤利三

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

斎藤利三は、1534年(天文3年)に誕生しました。

斎藤利三の父は、斎藤道三に仕えていた斎藤利賢(さいとうとしかた)の次男です。

 

ちなみに道三と苗字が同じですが、親戚ではないようで、斎藤利三は美濃斎藤氏の一族だったと言われています。

(美濃斎藤氏は、美濃守護・土岐氏に一族で仕えていた。)

明智光秀は、土岐氏の庶流の生まれとされているので、繋がりのある家系ということですね。

 

一説では、『斎藤利三の母は明智光秀の妹』だという話もあるので、これが本当だとすると、明智光秀と斎藤利三は伯父さんと甥っ子の関係になります。

 

ただ、この説では系図によってコロコロと関係が変わることがあるので、よくわからないのが現状です。

 

別の説だと、

利三の父・利賢の妻は → 蜷川親順女。

後妻 → 明智光継(光秀の祖父)の娘。

とあり、そうなると…。

 

光秀と利三は従兄弟。という事になりますね。

それに斎藤利三の伯母は、明智光安(光秀の伯父の室)とも言われています。

 

これらの系図は後世で作られた物で、関係には諸説あるにしても事実かどうかはわかりませんが、何かしら近しい関係である可能性はありそうですね。

ちなみに、春日局(徳川家光の乳母)は娘です。

 

斎藤利三は、明智光秀の重臣としてよく知られていますが、意外にも明智光秀の家臣時代は短く、光秀より以前に仕えた武将が何人もいます。

 

・松山重治(初めに仕えたとされています)

・斎藤義龍。

・稲葉一鉄(稲葉良通)

 

稲葉一鉄が斎藤義龍・龍興から離反し、信長に寝返ると、利三は稲葉一鉄の配下につきました。

利三の継妻は稲葉一鉄の娘。つまり、縁戚関係にあります。

 

一鉄は信長に仕えていたので、もしかすると信長の家臣と言った方が正しいのかもしれませんね。

光秀との関係が伺えるのはこの後の、1578年(天正6年)頃。(光秀の連歌会の記録)

 

この時には家臣になっていた。と考えられます。

とはいえ、時期は定かではありません。

 

どうやら利三は、稲葉一鉄とひと悶着あって、光秀の家臣になったらしく…。

利三は信長ともトラブルに発展。

智光秀も信長に叱りつけられた説もあります。

 

これにも諸説あり、明智光秀の家臣となった後に、那波直治(一鉄の家臣)を引き抜こうとして一鉄を怒らせ、信長に

・直治を返すよう。

・利三の自害。

を命じられたとか。。。

 

これに対し、明智光秀は「良い部下をもつのは上様の為」と言って拒否。

利三の命は何とか助かりましたが、光秀は敷居に額をつけられ折檻されたとか。

 

この件は、「本能寺の変」の怨恨説。としてあがっています。

実際にこれがきっかけかどうかはわかりませんが…。

 

1582年5月27日に信長から命があった4日後、「本能寺の変」は起こりました。

光秀に仕え、丹波攻略で重臣として力を発揮した利三。

 

すぐに家老として重用。

1580年(天正8年)一万石の禄を賜り、丹波黒井城の城主となりました。

 

その頃の信長は、長宗我部元親と関係を深めていこう…。と、していました。

 

長宗我部元親は、光秀の家臣・石谷光政(利三の兄)の娘(石谷頼辰の義理の妹)と結婚(養子)

 

つまり、この娘が長宗我部元親の正妻。

簡単にまとめると利三の実兄の婚家が長宗我部と縁組関係にあたり、義妹は長宗我部元親の正室。ということになります。

 

ややこしいですが、ここから関係が始まりました。

さて、話は戻り…。

 

こんなご縁もあって、その窓口的な役割を任されたのが明智光秀でした。

信長 & 長宗我部の関係も初めは良好だったのに、信長が一変。

 

1582年(天正10年)5月〜。「四国討伐の計画が進められます。

長宗我部との外交役担当の明智光秀は、これを回避する為に、「本能寺の変」を起こしたのでは…。

とも言われています。

 

本能寺の変と斎藤利三の思い

 

本能寺の変と斎藤利三の思い

 

さて、「本能寺の変」の実行犯ですが・・・

実は斎藤利三では?という説もあるのです。

 

それは、

・稲葉一鉄の家臣を引き抜こうとしたこと。

・長宗我部元親との関係

 

などから考えて、信長を恨んでいた可能性があるという点から。

利三は「本能寺の変」前夜、織田信長を討つ計画を聞かされた時、どのような反応をしたのでしょうか。

 

斎藤利三は「本能寺の変」や「山崎の戦いでは、先陣で戦っています。

中心人物であったようです。

 

とはいえ、利三が謀反に対して積極的だったのか or 反対だったのか…

 

本人がいないのでその思いに触れることはできませんが、明智光秀に「織田信長を討つ」という計画を聞いたときは、その無謀さに反対した。とも言われています。

 

しかし、主君の命には逆らえず…。光秀に対する恩もあり…。

明智光秀に従い渋々本能寺の変に加担したのでは。という見方もあるようです。

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斎藤利三の最期

斎藤利三の最期

 

本能寺の変」に対し、利三はどのような思いがあったのかはわかりませんが、どちらにしても参加しています。

 

本能寺の変」の後、「山崎の戦い」で、明智軍の先鋒を務めました。

そして、明智光秀が敗死。

 

利三は堅田に潜伏していましたが、捕らえられ捕縛。

暑さで衰弱し、病に倒れていたそうですが、秀吉の命により、京都市中を引き回されたのち、六条河原にて斬首。

 

主君・明智光秀の首と一緒に本能寺で晒されたと言われています。

49歳。

織田信長と同じ歳でした。

 

のちに友人の絵師の海北友松(かいほうゆうしょう)が遺体を引き取り、京都市左京区の真正極楽寺に埋葬されています。

そして、その友松も隣に墓を建てられ、並んで眠っているそうです。

 

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