大河ドラマ『麒麟がくる』で細川ガラシャ(明智玉)が登場します。

細川ガラシャ(明智玉)は、名門細川家の細川忠興の妻(正室)でキリシタンで、信長を討った明智光秀の娘でもあります。

 

この父・光秀の謀反(失敗したのですが…。)により、彼女の人生の歯車が一転。

 

自分の意思とは違うところで狂い始め、壮絶な最期を遂げています。

謀反人の娘となり、細川家にかくまわれる形で過ごさなければならない過酷な日々。

 

戦国時代の女性もまた男の人たちとは違うところで戦い、生きたのだと改めて思える女性、細川ガラシャをさっそく見ていきましょう。

 

 

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明智玉 細川忠興の正妻となり細川ガラシャとなる

 

明智玉 細川忠興の正妻となり細川ガラシャとなる

 

細川ガラシャ(明智玉)は1563年(永禄6年)、父・明智光秀母・煕子

越前国で誕生しました。

三女説と次女説があります。

 

この頃政権を握っていた織田信長は、キリスト教の布教にとても寛容、かつ興味を示していたので、イエズス会の宣教師らとは、強い関係を保っていました。

 

また、父・光秀もフロイスらと交流があったようなので、史料で確認は出来ていませんが、玉もキリスト教を身近に育ってきたのでは?と推測できます。

 

1574年(天正2年)。

織田信長(父・明智光秀の主君)の発案で、勝竜寺城主・細川藤孝(細川幽斎)の嫡男・細川に明智玉(珠)は婚約。

二人とも15歳でした。

 

そして織田信長の命で、細川家の家紋を「九曜」とします。

これは、細川忠興が信長の小刀に描かれた九曜を気に入っていたことを覚えていた為。と言われています。

 

九曜 家紋

九曜家紋】 画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

天正6年(1578年)8月、織田家による「丹波攻め」が始まっていた頃 〜。

明智玉(珠)は、細川藤孝の嫡男である細川忠興に嫁ぎました。

 

二人は、恋愛ではなく決められた結婚でしたが、仲睦まじかったようです。

そんな仲の良い夫婦は、勝龍寺城で2年過ごしたようです。

 

1579年(天正7年)、長女・長(または於長)が生まれ、1580年(天正8年)、長男・川忠隆(後の長岡休無)が生まれました。

 

細川忠興も明智玉(珠)も美形と言われていて、織田信長は二人の並んだ姿を見て人形の様に可愛らしい」(訳)と言ったそうです。

といっても細川忠興は顔がいいだけではなく、文武両道で知られています。

 

強いて短所を挙げるなら、超短気で、家臣に対し気に入らないと、すぐに手がでるタイプだったようです。^^;

 

1580年(天正8年)、細川忠興は信長より丹後12万石を与えられ、丹後八幡山城から宮津城に移りました。

 

宮津城は未完成だった為、大久保山城にいたとされています。

(現在:宮津市の市街地にある小高い丘)

 

1581年(天正9年)、細川忠興親子の招きを受け

・明智光秀。(二人、息子を同行)

・津田宗久。(茶人)

・里村紹巴(さとむらじょうは・連歌師)

 

が宮津を訪れました。

明智玉にとったら父、兄弟と会えて嬉しかったでしょうね。

 

2年後の1583年(天正10年)、父・光秀が本能寺で織田信長を討ち、「山崎の戦い」後、亡くなります。

すると娘・明智玉は「謀叛人の娘」となりました。

 

細川忠興は明智玉を丹後国の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に、1584年(天正12年)まで幽閉します。

 

細川家の家臣の中には、謀反人の娘」が正室なので、疑いをかけられる事を避ける為、珠に自害をすすめる者もいたとか。。。

 

ですが、玉は

忠興の妻なので、主人の命を聞かずして事を決するのは婦道に反する

と反論した。と伝わっています。

 

細川忠興は、「本能寺の変」の3ヶ月後、細川家&玉を旧織田家の武将から守る為、仕方なく離縁の道を選びます。

 

とはいえ、帰る場所がない玉を追い出すわけにもいかず、味土野に隠棲させることにしました。

なぜ味土野かというと、

・自分の領地であること。

・明智の茶屋があった場所でもあるということ。

 

つまり、形式上送り返しているので、後ろめたいことはない。ということです。

この孤独な2年間、玉はひたすら耐えて過ごしたのです。

 

この間玉を支えたのは、結婚時に付けられた小侍従、清原家の清原マリア(公家・清原枝賢の娘)らの侍女たち。

この侍女たちは、細川家の親戚筋です。

 

ちなみに幽閉中に玉は、次男→興秋を出産しています。

二人の愛の深さが伝わりますよね。

 

1584年(天正12年)3月。

羽柴秀吉に許され、幽閉を解かれて玉は宮津に戻ると、細川忠興は玉を細川家の大坂屋敷に移しました。

 

1586年(天正14年)、三男・忠利(幼名・光千代)を出産。

(後に豊前小倉藩の第2代藩主。→肥後熊本藩の初代藩主。)

 

出家した舅の細川幽斎と禅宗を信仰していた玉でしたが、細川忠興が高山右近から聞いたカトリックの話をすると、心が魅かれていったとあります。

 

内面的動機について記録がないので、はっきりとはわかっていませんが、ここから細川ガラシャへとなる道が開かれていくことになるのです。

 

そしてキリシタンに

 

そしてキリシタンに

 

三男・忠利は病弱のため、明智玉(珠)はいつも気にかけていました。

 

1587年(天正15年)2月11日(3月19日)忠興が「九州征伐」へ出陣すると、玉は彼岸の時期ということで、数名の侍女に身を隠してもらいつつ、教会に行ったとされています。

 

丁度その頃、復活祭の説教が行われていて、コスメ修道士にたくさん質問をしたそうです。

 

後にコスメ修道士は、

これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と、語っています。

 

玉はその場で洗礼を受ける事を望んだのですが、協会側としては、

 

・玉が誰なのか?

・身なりはいいし、優れている…。

 身分の高い人?

・もしかしたら、秀吉の側室?

 

という理由で洗礼はまたの機会に…。となったそうです。

 

キリスト教の教義の原則として「一夫一妻制」の特徴があり、側室の女性の可能性もある女性に洗礼を授けなかったのも想像できますね。

 

そんなことをしていると帰るのがすっかり遅くなり、細川邸の人たちも玉が外出していることに気がつき教会まで迎えにきて、玉を連れて帰りました。

すると協会側は尾行を一人つけ、玉が細川家の奥方であることを知ったとされています。

 

玉は外出できなかったので、ずっと洗礼を受けられませんでしたが、侍女を通じ、教会から送られた書物を読み、信仰に励んでいました。

 

で、この期間に侍女たちを教会に行かせ、洗礼を受けさせました。

と一方で、九州にいる織田信長後継の座を勝ち取った秀吉が「バテレン追放令」を出します。

 

バテレン追放令」とは、宣教師の国外退去。

というもので、個人のキリスト教信仰を否定するものではありませんでしたが、玉はこれを深刻に受け止め、弾圧が強まれば殉教も厭わない。という強い決意をみせています。

 

宣教師が大坂から退去を余儀なくされた為、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、宣教師たちが九州へ行く前に、自邸で玉も、ついに洗礼を授かることになりました。

 

玉の洗礼を担当したのはイタリア人宣教師・オルガンティーノですが、忠興の監視があり玉とオルガンティーノは会うことができなかったので、洗礼そのものは侍女のマリアを介して行われました。

 

そして、ガラシャ(Gratia→ラテン語で恩寵、神の恵み。)という洗礼名を授かり、悲願であったキリシタンとなりました。

 

細川忠興は九州から帰国すると、怒って受洗を棄教させようとしましたが、細川ガラシャは頑なに拒んだそうです。

 

それでなくても謀反人の娘になって立場を悪くしていたのに、このタイミングでこの行動って、細川ガラシャの意志の強さを感じるエピソードですね。

 

ラブラブだった細川忠興と玉でしたが、玉がガラシャになってから、二人の間には溝が…。

 

細川忠興はそれからガラシャに冷たくなり、「5人の側室を持つ」と言いだし、ガラシャは別れたいと宣教師に胸の内を話しますが、キリスト教は離婚は☓。

 

宣教師は、

・誘惑に負けてはならない。

・困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる。

と説き、説得したとあります。

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細川ガラシャは自害した?その最期とは

 

細川ガラシャは自害した?その最期とは

 

1600年(慶長5年)、細川忠興は徳川家康に従い「上杉征伐」に出陣。

 

細川忠興は、もし自分が屋敷を離れ不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬようにと、家臣たちに命じるのが常でした。

 

そんな折、西軍の石田三成は大坂玉造・細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしますが、ガラシャは拒絶。

 

すると翌日、石田三成は更に強硬手段に。。。

 

それを知ったガラシャは少し祈ると、屋敷内の侍女、婦人を全員集めわが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した後、家老・小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、遺体が残らぬよう屋敷に火を点け自刃しました。

 

自殺はキリスト教で禁じられている為、この方法だったと言われています。

38歳でした。

 

仲が悪くなったと思われていた、夫・細川忠興はガラシャの死を戦場で知り、泣き崩れたと伝わっています。

1601年(慶長6年)、オルガンティーノにガラシャ教会葬を依頼し、葬儀にも参列しています。

 

あれほど激昂し、棄教させるように迫っていたのに、彼女の望みを尊重するなんて…。

何とも言えない気持になりますね。

 

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