荒木村重は、地方豪族の家臣立身。
そこから織田家重臣にまで上り詰めたのに、織田信長を裏切り勃発させた「有岡城の戦い」
いきなり信長に反旗を翻すなんて、明智光秀とも関係があるのでしょうか。
そんな荒木村重の人生を辿ります…。
目次
荒木村重とは
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
1535年(天文4年)摂津国(現在の大阪府北中部 兵庫県南東部にあたる場所)で、嫡男として誕生しました。
父は豪族・池田勝正に仕えていた荒木義村。
荒木村重の両親は、子宝に恵まれませんでした。
そこで「中山寺」(現在の兵庫県宝塚市)の御本尊「十一面観音菩薩像」に、12本の灯火を立てて祈祷。
祈祷後、母は夢で灯火から飛び出した火の玉がお腹に宿ったそうで、その後、授かったのが村重でした。
村重が、12歳の時「食べ過ぎ」と父に注意され「武将たるもの筋力がなくては話になりません」と反論し、父を碁盤の上に乗せて悠々と歩き回ったそうです。
この腕力に、「観音様のご加護を受けた子だ」と父は感嘆したのだとか。
池田家時代の史料はあまり残ってないようですが、村重の妻は、前池田家当主・長正の娘なので、当主に気に入られていたのではないかと思われます。
そんな村重の転機は、池田勝正 VS 池田知正の内紛でした。
池田勝正は、
・先代の子ではない
・文武に優れていた
・池田家の跡継ぎに指名された
一方、池田知正は嫡男。
跡継ぎは嫡男のオレだー!と、両者の間に溝が生まれたのです。
そこで村重は、池田知正の有力家臣・池田勘右衛門を酒宴に誘い粛清。
家中の池田勝正の反対派の押さえ込み、主君・池田勝正から絶大な信頼を得たのです。
1568年(永禄11年)「猪名寺の戦い」
茨木重朝、伊丹親興連合軍を討ち破り、池田家中屈指の発言力を獲得します。
その後、池田勝正は織田信長へ臣従。
これを機に、主君・池田勝正を裏切り、国盗り計画を進めることにしたのです。
そこで目を付けたのは、池田知正。
次期当主の座をちらつかせ、三好三人衆からの謀反の誘いを利用し、主君・池田勝正を追放。
村重は、池田家の実権を掌握することになったのです。
しかし成功したのも束の間、この後、信長の勢いに押され三好三人衆は壊滅。
1571年(元亀2年)「白井河原の戦い」
和田惟政を討ち、勢力を拡大した荒木村重。
三好家→織田家に変える事を考え始めます。
その頃、信長は、室町幕府15代将軍・足利義昭と敵対中。
出来れば味方になる勢力が増える事を希望しているのは明らか。
そこで、村重は、
・足利義昭を支持していた池田知正を追放
・池田一族を家中から完全に排除
そして、織田信長との会見に臨みました。
しかし、信長からすれば、決して好印象ではありません。
だって、村重といえば、
・プチ下剋上で池田勝正を追放
・池田家を乗っ取った
人物だからです。
信長は会話もないまま、いきなり刀を抜き、剣先でまんじゅうを刺して鼻先に突き付けます。
それは、荒木村重を挑発しているに等しい事。
すると村重は、平然と口を開けて、まんじゅうを食べたのです。
信長は、すぐに村重を気に入り「日本一の器量なり」と絶賛。
・織田家への臣従
・摂津国の支配
どちらも認め、村重は、織田信長に仕えるようになり、畿内での重要な合戦に次々と参陣。
・「槇島城の戦い」(足利義昭を破り、室町幕府を滅亡へ導いた)
・「伊丹城の戦い」(摂津国の抵抗勢力伊丹忠親を滅ぼした)
・「越前一向一揆」の鎮圧
など、休む間もなく転戦し、戦功を挙げていきます。
中でも、およそ10年に石山本願寺と亘り争った「石山合戦」では、主力部隊として活躍しました。
その立場は、同家の重臣・明智光秀と同等の役割を果たしていたのです。
ちなみに、村重の嫡男・荒木村次の正室は、明智光秀の娘です。
(村重が信長に反旗を翻し離縁になりました。)
「伊丹城」を改修した「有岡城」(現在の兵庫県伊丹市)へと本拠を移し、摂津国370,000石を任されるまでになりました。
1578年(天正6年)
信長から「羽柴秀吉」の援軍を命じられ突如有岡城に立てこもり、反旗を翻しました。
知らせを受け信長は「母を人質に差し出し、安土城へ弁明に来れば許す」と意外にも寛大な条件を出してきたのです。
村重は、これを受け一旦、安土城へ。
しかし道中で、側近の高山右近と中川清秀に「織田信長公は一度疑いを抱いた者を決して許しません。毛利家と結び、籠城するのが得策です」と止められ、迷った末に有岡城での籠城を決意。
その後も信長は、数度に亘り使者を派遣し、翻意を促しますが、融和策をことごとく断られ、ついに信長は激怒。
「有岡城の戦い」へ突入したのです。
信長は、村重を孤立させる為、大坂湾の制海権を奪取し、内通工作を開始しました。
標的は、高山右近と中川清秀。
織田家へ寝返るよう説得する為、熱心なキリスト教信者でもある高山右近のもとに宣教師を派遣。
村重に妹、子を預けていた高山右近は悩み続けますが、最終的には離反を決断。
中川清秀は、金と加増を約束。
見事成功させています。
一説では、村重による信長への謀反の原因を作ったのは、この中川清秀と言われています。
村重の家臣だった中川清秀は、石山合戦の際、石山本願寺へ兵糧を横流し、信長に発覚するのを村重が恐れた為、挙兵した。
という説もあります。
さらに一度、信長への恭順に傾いた村重を、説得して籠城へ導いています。
この者たちが裏切るなど、村重にとっては正に青天の霹靂。
これにより、孤立状態に陥った村重は、劣勢を強いられたのです。
重臣らに裏切られ、絶望的な村重。
嫡男・荒木村次の正室は、実家の明智家へ送り返し、高山右近の妹や子も危害を加えず解放。
羽柴秀吉からの派遣により降伏の説得へ訪れた黒田官兵衛についても、主君・小寺政職から殺害依頼があったにもかかわらず、幽閉に留めました。
村重には、人質を取引材料にすることもできましたが、武家の意地を貫くことだけが、信長と戦う理由と化していたのです。
しかし、信長率いる鎮圧軍は、容赦ない手法で村重に迫り、村重に味方する摂津国の農民は皆なで切りに。
開戦から約2ヵ月後、総勢約30,000人の兵で有岡城へ総攻撃しますが、力攻めは難しいことを悟った信長は兵糧攻めに変更。
村重は、毛利家からの援軍だけが頼りでしたが、村重に助けが来ることはなく、士気も兵糧も限界に達した村重は、数名の御供を連れ有岡城を脱出。
海路に面し、毛利家からの援軍を受けやすい尼崎城(荒木村次が守る)へ向かったのです。
有岡城が陥落すると、信長は、村重に使いを出し、
「尼崎城、及び支城・花隈城を開城し降伏すれば、有岡城に残る妻子や一族郎党を助命する」
と伝えに来たのですが、村重は拒否。
武家の意地を貫きました。
しかし信長側は、たまったものじゃありません。
「荒木一族は武道人にあらず」として、重い処罰を与えます。
・村重が籠もる尼崎城付近で、重臣の家族ら計122名を処刑
・家臣とその家族512名を、4軒の農家に閉じ込めて殺焼
・村重の妻子、及び重臣36名は、市中引き回し、京都の六条河原で斬首
当時2歳だった村重の末子だけは、乳母の機転により石山本願寺に保護されました。
(ちなみにこの子は「浮世絵の祖」とも称される「岩佐又兵衛」です。)
1580年(天正8年)
尼崎城 & 花隈城が落ちると、村重は毛利家を頼り海路で亡命。
数多の非難を受けながら、隠遁生活に入ったのです。
(隠遁(いんとん)→俗世間から離れてひっそりと暮らすこと)
村重は、己の非道を自覚し、自らを「荒木道糞」(あらきどうふん)と名乗りました。
そもそも信長から「羽柴秀吉」の援軍を命じられ突如有岡城になぜ立てこもったのか、反旗を翻した理由は色々な説を聞きますが、本当のところは今でもわかっていません。
全てを失った村重は、若い頃から嗜んでいた茶道にのめり込みます。
有岡城から逃亡する際、村重は、名物「兵庫の壺」を背負っていたと伝えられていて、命の次に茶器を愛していたことが分かる逸話が残されています。
秀吉が天下を収めたある日、茶人となっていた村重は、かつての戦友豊臣秀吉のもとへ現れ、謀反のいきさつなどを知っていた秀吉は、「道糞」の異名を知ると「荒木道薫」(あらきどうくん)と改名させ、秀吉の相談役として召し抱えたと伝えられています。
当時、茶会を主催するには信長の許可が必要で、許可を得られたのは、地位の高い家臣のみ。
1576年(天正4年)
村重は、堺を代表する商人&茶人の今井宗久を茶会に招いていた記録が残っています。
他にも、ちょくちょく茶会を催していたのです。
ある茶会で、秀吉が、高山右近の才能と善良さを称賛しました。
村重は、とっさに「高山右近の善良さはうわべだけのもの」と非難してしまい、秀吉の怒りを買い、その後出家して寺に身を隠したと言われています。
その後、秀吉の元を去った村重は、堺で暮らします。
そして、52年の生涯を閉じました。
晩年の村重は千利休と親交を持ち、その高弟である「利休七哲」のひとりに名を連ねました。
なお一度だけ、2歳で生き別れた岩佐又兵衛と対面したと言われています。
有岡城の戦いと信長への謀反の原因
なぜ村重は信長から信頼され、気に入られていたのに謀反を起こしたのでしょうか。
その理由、原因はいくつか考えられています。
その1
家臣・中川清秀が敵の石山本願寺に兵糧を横流。
バレる前に先手を打った。
その2
織田政権の統治に反発する摂津国国人衆&百姓たちに担がれた
その3
信長からの待遇に不満があり、将来を案じた
その4
山陽道に抜ける摂津国を抑えていて敵対勢力と共謀し信長を討てる好機だった
その5
神吉貞光(村重と親交のある)が再度、敵方に寝返ったので、内通を疑われた
その6
信長の側近からのいじめ
などなど諸説ありますが、本当のところは今でもわかっていません。
あと、ひとつの説としてあるのが、「村重謀反の原因は明智光秀が作った」という説です。
摂津で一大勢力を持つ村重は信長を討つ時に邪魔になる。というものです。
畿内はそもそも特殊な地域で、
・朝廷がある
・滅亡しながらも存続する幕府の力がある
・中堅クラスの大名が多く混在
・石山本願寺の宗派は大名勢力を横断。影響あり
・経済においては日本の中枢
といった具合に、色々と複雑に絡んでいる地域。
そこに信長が支配を広めようとし、さらに混乱が生じるのです。
この複雑な情勢の中で各勢力が舵取りをするにあたり、仲良くしたり敵対したりは日常茶飯事。
なので、村重も荒木家を守る&勢力拡大を目指すのは当たり前のことと言えますし、弱みを握り情報を操れば、謀反人に仕立て上げるなども、この時期の畿内の情勢ではたやすいことなのです。
荒木村重と明智光秀との関係
荒木村重と明智光秀の関係は、まずは、織田家家臣ということです。
あと、姻戚関係です。
荒木村重の嫡男・村次に明智光秀の長女・倫子は嫁いでいます。
明智光秀の娘と結婚しているので義理の親子です。
それもあり、村重が信長に反旗を翻した時には、光秀が何度も村重の翻意を促す使者に立っています。
そして、二人とも外様大名ということです。
二人とも家臣団トップに君臨する為には、並々ならぬ努力が必要で、武功を上げ成長し、地位も上げていきました。
信長は、
・譜代家臣→一線級の各方面への軍事司令官を任せる
・外様家臣→一線級に上がる為の機を与え寵愛し、競い合わせる
というやり方。
なので、義理の親子である前に二人は外様大名同士大きなライバルだったといえます。
最後は二人とも信長を裏切っています。
村重の謀反から4年後、光秀は信長に謀反を起こしています。
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