大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀ですが、明智光秀を語るには織田家は外せませんよね。

そんな織田家の重臣といえば、柴田勝家

 

柴田勝家は、織田信秀 → 織田信勝 → 織田信長 → 織田秀信と、一生涯織田家家臣として仕えた武将で知られています。

 

それに、正室は「お市の方」。

織田信長の妹です。

 

そんな柴田勝家は、織田信長 & 信行(信長の弟)兄弟に信用されていなかったのでしょうか。

今回は、柴田勝家にスポットを当ててみていきましよう。

 

 

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柴田勝家 織田信秀から信行、そして信長へ

 

柴田勝家 織田信秀から信行、そして信長へ

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

柴田勝家の出身は、尾張国愛知郡上社村(現在の愛知県名古屋市東区)。

父は柴田勝義。

 

生まれは、1522年(大永2年)or 1527年(大永7年)or 1528年(大永8年)と、時期に関しては諸説あり、はっきりとはわかっていません。

 

勝家は、若い頃より信長の父・織田信秀に仕えますが、織田家は、その信秀の死によって家督争いへと発展します。

 

柴田勝家は、信長の弟・織田信行派でした。

なので、信行の家臣となります。

 

兄弟なので口喧嘩で済めばいいのですが、この時代そうはいきません。

そうして1556年「稲生の戦い」が始まり、戦となりました。

 

勝家は、信長方に敗れてしまいます。

となると、嫡子に逆らったという事で、処罰は覚悟していた勝家。

 

しかし勝家が信長のもとへ赴くと、信長は大した罰を与えなかったのです。

ここで勝家は気づきます。

 

信長様と信行様の器の差たるや……。

 

そして、勝家は信行に兄弟力を合わせるよう説得しますが、信行は兄を「うつけ者」と思っていて、話に耳を傾けようとはしませんでした。

 

それどころか、男色相手の家臣を取り立て、勝家を蔑ろに‥‥。

勝家は信行を見限り、信長に信行が再び謀反を企てていること忠言しました。

 

家中の争いを長引かせると後々に響く…。

と、考えた信長は、最後の手段にでます。

 

信行をおびき寄せ暗殺計画です。

 

まず「信長が病気になった……明日をも知れない容態」と、嘘の噂を流し、勝家は「ご兄弟ですから見舞いに行くべきです」と、信長の下へ出向くよう促し、見舞いに出向いた信行は、清州城で信長配下に殺されました。

(覚悟を決めた信行は自刃したのでは?という説もあります。)

 

1552年に信長が家督を継いだときから、親類衆に裏切られまくり、尾張を統一するのに約10年かかりました。

大変な道のりだったことが伺えます。

 

そして勝家は、信長が亡くなるまで信長に仕えました。

柴田勝家は、織田家兄弟(信長・信行)から信用されていなかったというより、信行が勝家からの信用を無くした。という事ですね。

 

羽柴秀吉との対立

 

羽柴秀吉との関係

 

柴田勝家と羽柴秀吉、二人の関係は共に、織田信長の家臣という事です。

仲がいいとか悪いとかっていう史料は残されていませんのでわかりませんが、ともに織田信長の家臣として活躍した武将です。

 

本能寺の変」で織田信長が亡くなった後、織田家の重臣で話し合いがもたれました「清洲会議」。

 

メンバーは、

・柴田勝家。

・羽柴秀吉。

・丹羽長秀。

・池田恒興。

(滝川一益は関東地方に出陣しており欠席。)

 

会議の内容は、

・信長の跡継ぎについて。

・信長の領土の分配について。

 

ここで、勝家と秀吉の間に亀裂が入り、対立は決定的となります。

その原因として、勝家は信長三男・信孝を擁護し、秀吉は信長嫡孫・秀信を擁護。

 

話し合いの結果、血筋の正当さから秀信が跡取り。

信孝は後見人。となりました。

 

その結果に対し、勝家の中で色々な感情が動いた瞬間ではないかと思います。

そして領土の分配の件でも、勝家より秀吉の方が多くなりました。

 

わしは士族出身…。秀吉は百姓出身…。

身分は、士族の方が上…。

秀吉は信長に仕えたのは自分より長いが、織田家に仕えたのはわしの方が長い…。

 

あくまで想像ですが、信長亡き後を秀吉が仕切っているのは面白くなかったとは思います。

 

余談ですが、秀吉が羽柴秀吉に名前をかえたとき、この「」は、丹羽長秀。

そして「」は、柴田勝家から一文字ずつ取ってつけたと言われています。

 

尊敬の念から?又は、媚を売ったのでは?などと言われていますが、実際はどうだったのでしょうね。。。

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柴田勝家の最期は

 

柴田勝家の最期とは

 

1582(天正10)年6月2日。

柴田勝家の主君だった織田信長は、家臣・明智光秀による謀反により、死去します。

本能寺の変」です。

 

その後、「山崎の戦い」で秀吉が光秀を討ち、敵討ちは果たされると、次は信長の後継者&遺領の配分を決める会議(清洲会議)が開かれます。

 

この話し合いによる意見の違いから、秀吉と柴田勝家の間に亀裂が入り「賤ヶ岳の戦い」へと発展します。

 

この戦いで、柴田勝家は最期を迎えることとなるのです。

…。と、その前に!

 

この信長の後継者を決める清洲会議後ですが、お市が勝家の正室となります。

勝家61歳。

お市は36歳くらい。

 

お市の方はめちゃくちゃ美人で、憧れの存在。

しかも、勝家は、この結婚が初めて。

 

勝家は妻となったお市の方をとても大事にされたようです。

しかし結婚の翌年「賤ヶ岳の戦い」。

 

柴田勝家は「賤ヶ岳の戦い」で、越前北ノ庄城への撤退を余儀なくされました。

秀吉は勝家を追う様に、北ノ庄城下に入ったのは、1583年(天正十一年)4月22日のこと。

 

その日のうちに、二の丸・三の丸を落とし、本丸(勝家らが籠城する)を囲みます。

そして翌日、本丸に総攻撃を開始。

 

その夜、勝家は今までの苦労をねぎらう為、生き残った兵&近親者を集め、ささやかな宴会を開きました。

夜も更け、宴会が終わる頃、妻のお市に勝家は脱出を勧めました。

 

お市は、主君・織田信長の妹。

なので、秀吉に手厚く迎えられるに違いありませんでしたが、お市は宴会後、三人の娘たちを逃がし、勝家と最期をともにする覚悟を決めており、勝家の助言を拒みました。

 

翌24日、再び秀吉軍の総攻撃が始まり、「許してくれ…。」と言いながら、勝家はお市を引き寄せ胸を刺し、自分も切腹。

 

同時に、仕掛けておいた火薬に点火。

そして、北ノ庄城は炎に包まれました。

 

 「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公 (やまほととぎす)」と辞世を残し、お市と勝家は、ともにその生涯の幕を閉じました。

 

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