明智光秀は、15代将軍足利義昭の家臣で、のちに織田信長の家臣になったことが知られていますが、やはり「本能寺の変」で織田信長を裏切った人物。というのが明智光秀のイメージとしては強いという人は多いのではないでしょうか。

 

敵は本能寺にあり」という明智光秀の残した有名なセリフもありますしね。

織田信長とは信頼関係にあったであろう明智光秀がなぜ謀反に出たのでしょうね。

 

明智光秀は本当に裏切り者だったのでしょうか。

そのあたり見ていきましょう。

 

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【麒麟が来る】明智光秀役は長谷川博己!

 

【麒麟が来る】明智光秀役は長谷川博己

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

2020年大河ドラマ『麒麟が来る』で、主人公の明智光秀役を演じられるのは、身長182cmの長身イケメン「ハセヒロ」さんこと長谷川博己さんです!

 

長谷川博己さんは過去にも大河ドラマや朝ドラをはじめとする、数々の有名なドラマや映画に出演されている俳優さんなので、老若男女みなさんご存知なのではないでしょうか。

 

長谷川博己さんは「目」で演技ができる俳優さんだと思います。

どの役をされていても、その役柄の人に見えてきます。

たくさんの受賞歴のある俳優さんなので、大河ドラマの主演キャスティングは間違いなし!ですね。

 

明智光秀といえば、人気の高い織田信長側からの見解が強いからか、少々悪い人っぽいイメージをもたれがちですが、明智光秀の治世は慈愛に満ちていて、領民に慕われていたという話も聞くので、悪い所ばかりではなかったのでは。なんて思います。

 

有名な歴史上の人物を演じると、どうしても先入観があるので難しい部分もあると思いますが、長谷川博己さんならきっと、明智光秀の人間臭いところや武士道を見せてくれるのではないでしょうか。

楽しみですね。

 

明智光秀の生い立ち

 

明智光秀の生い立ち

 

明智光秀といえば、「織田信長を殺した裏切り者!」と真っ先に思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。

それは事実ですが、真相は未だ謎に包まれたまま…。

 

その生い立ちや出生時期も不明。

殆どわかっていません。

 

生まれた年は、明智光秀が死亡した年から推測すると…。

1582年で、55歳〜57歳なので、大永6(1526)年〜享禄元(1528)年ということになります。

 

といっても、光秀の死亡は67歳説もありますので、そこから遡ると永正13(1516)年が生まれた年になりますね。

実はこの説のほうが確かなのでは?と言われています。

 

大永6年生まれだったとすると、同年代には松平広忠(徳川家康の父)がいます。

そして、生まれた明智家のルーツも、これまたぼんや〜りしています。

 

生まれは、土岐氏(美濃国の守護職)の支族で身分の低い家柄。

土岐明智氏」と思われています。

で、この土岐明智氏、出身地にも諸説ありまして…。

 

一つ目は、岐阜県恵那市明智町。

ここには明智城趾があるので有力なのではないかと言われています。

 

二つ目は、岐阜県可児市。

ここには明智荘(荘園)があり、明智城趾も残っているためです。

 

どちらの説も岐阜県なので、岐阜県は岐阜県なのかなぁ〜なんて思いますが、どちらも違うかもしれませんし、本当の所はわかりません。

 

そして一説に、光秀の両親は、父・進士信周と母・明智光隆の妹だとあり、病弱だった光隆は子宝に恵まれず、光秀を養子として引き取った。という説。

 

または、父親は名もない下級武士。という説。

が、あります。

 

明智家は、斎藤道三に仕えていましたが、道三が龍興(息子)に敗れ、浪人になった光秀は越前(福井県)の朝倉義景に10年程仕えたとされています。

 

この頃から徐々に才能を発揮し始め、そして認められるようになり、足利義昭(後の室町幕府15代将軍)が、永禄9(1566)年にここへ身を寄せた時、顔見知りになります。

義昭は光秀の力を見抜いたのかのちに光秀は義昭に仕えるようになります。

 

1565年、第13代将軍の足利義輝が松永弾正久秀三好三人衆に暗殺され、義昭(息子)は若狭国に逃げ、織田信長や各地の武将に、

・上洛。

・将軍擁立。

を呼びかけました。

 

これに対し信長は一旦承知しましたが、信長は美濃を平定しようという考えだったので、義昭は不信に思い、朝倉義景に頼るようになりました。

 

上洛を期待する義昭。

しかし、朝倉義景は上洛しようとしませんでした。

 

次は義昭が将軍になる番だと光秀は望んでいましたが、義昭は自分の力不足を感じていたので今川義元を倒し、勢いのあった織田信長に力を借りようと考えました。

その時、義昭と信長の仲立ちとなったのは明智光秀でした。

ここで、光秀は信長と接点を持つこととなったのです。

 

光秀は義昭を征夷大将軍につけるよう頼み、美濃を平定した信長は義昭と上洛します。

そして光秀は、義昭と信長に仕えることになります。

 

そしてここからが、世によく知られている明智光秀が歴史の表舞台に登場するのです。

生い立ちは殆どわからないような身分の子どもとして生まれたのに、そこから歴史に名前を残すまでになったという事は、かなりの実力者だったという事は解りますね。

 

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明智光秀の最期は?裏切り者だったのか?

 

明智光秀の最期は?裏切り者だったのか?

 

明智光秀といったら「主君・織田信長を殺した裏切り者!」というイメージを持たれているかた結構多いのではないでしょうか。

実際に、明智光秀は織田信長を本能寺で討ちましたしね。

 

ですが、これだけ有名な事件なのに、その真相は今でも謎に包まれています。

明智光秀は本当に裏切り者だったのか。

 

そして、信長を討ったあと明智光秀はどうなったのでしょう。

そのあたりみていきましょう。

 

では、明智光秀が織田信長に仕えた頃に遡ります。

 

信長出陣の戦には従い、お役目(奉行のような)もこなし、働きづめの日々を送り、数々の手柄をたてていった光秀。

そんな中、光秀は過労で倒れ生死をさ迷う重体に…。

 

妻・熙子(ひろこ)の看病で奇跡的に回復しましたが、この看病に疲れ熙子は亡くなりました。

愛妻家だった光秀は、悲しみを胸に、丹波攻めに取り掛かります。

 

丹波(京都府中部付近)は、攻めにくい地形の上に、その土地を支配している土着の武士が強いので、かなりの難関の大仕事。

しかし、光秀は見事平定。

信長も絶賛した程でした。

 

天正9(1581)年、光秀は「京都御馬揃え」(軍事パレード)の責任者に任命され、取り仕切ります。

これは、天下に信長の力を示す意味のあるパレード。

 

光秀は大成功させ、信長家臣団の5本の指に入る重臣となったのです。

 

光秀は、自分を高く評価してくれる信長に対し感謝しており、明智家法に「瓦礫のように落ちぶれていた自分をここまで引き上げてくれた。この恩は一族子孫に至るまで忘れてはならない」と記しています。

 

また、茶会の席では信長の書を掛けるなど、信長を崇拝していましたようなので、信長と光秀の関係はとても良かったようです。

 

しかし、御馬揃えの翌年。

突然、その関係を引き裂く事件が起きました。

 

天正10(1582)年5月、信長に徳川家康の接待役を任されましたが、すぐにその任を解かれ、中国地方を平定中の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の援軍を命じられたのです。

何でも、光秀の不手際があったということで酷い屈辱を受けたようです。

 

旧暦の6月2日未明。

坂本城を出発すると突然、行き先を中国地方から京都の本能寺へ変更したのでした。

本能寺には信長と100人くらいのお付きの供と宿泊していました。

 

そこを光秀は、1万3千の兵で包囲し、寺に火をかけ、一気に信長を攻めました。

信長は寺の中で自害した。と言われていますが、遺体は見つかっていません。

 

光秀はさらに、信長の長男・信忠(のぶただ)が滞在する二条御所にも攻め込みました。

誰も予想値にしなかった光秀の謀反でした。

これを「本能寺の変」といいます。

 

信長を倒した光秀は、有力大名に加勢を呼び掛けますが、細川忠興(娘婿)と、その父・藤孝(光秀の友人)ですら、中立を表明。

突然のことで、誰もがこの事態を信じられなかったのでしょう。

 

他説もあり、このことを知った秀吉が、信長生存説を流したため。

とも言われています。

どちらにしても、凄い激震が走ったことは間違いありません。

 

光秀が味方集めに手こずりながらも、本能寺の変から二日後の6月4日には近江を平定し、6月9日には朝廷へ銀500枚などの寄進をしていました。

 

一方で、秀吉は中国地方から京都へ猛スピードで戻ってきました。

これが秀吉の「中国大返し(ちゅうごくおおがえし)」と呼ばれるものです。

そして、6月13日秀吉との決戦の日を迎えます。

 

秀吉→35,000の兵。

対する光秀→10,000の兵。

と、人数が圧倒的に劣っていました。

 

戦は短時間で終わり、負けた光秀は逃亡。

山中で落ち武者狩りの農民に竹槍で刺され、光秀は自刃しました。

大それたことをして手に入れた天下はわずか10日あまりと短い期間だったため、「三日天下」と呼ばれています。

 

信長と光秀との間には信頼や尊敬といった愛情があったのは事実だとしたら、その愛情が深すぎた結果ではないか…。と、思ったりします。

いつでも誉めてくれていた信長に、次々に優秀な家臣がでてきたり、他の人が手柄を立てて誉められたり…。

 

人間は、身内の殺人が一番多いようですから、可愛さ余って憎さ百倍となると、行き着くとこまで行ってしまうのかもしれないですね。

よくあるストーカーや恋愛関係のもつれなども、結局は好き過ぎて、少しの裏切りや嫉妬だけで殺人に繋がっていますから。

 

光秀は晩年、仕事で怒られることが増えたりしていたようなので、焼きもち的な感情もあったのかもしれません。

本能寺の変に関して様々な説がありますが、真相は光秀のみぞ知る。といったところでしょうか。

 

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