大河ドラマ『麒麟がくる』で、東海最強の戦国武将、今川義元(いまがわ・よしもと)の役を片岡愛之助さんが演じられます!
今川義元は、白塗り軟弱のイメージですが、「海道一の弓取り」の異名を持つ程の、切れ者の戦国武将です。
どんな人物なのか、さっそく見ていきましょう。
目次
【麒麟がくる】片岡愛之助が今川義元を演じる!
画像引用元:https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=M06-0661
『麒麟がくる』で、今川義元を「ラブリン」の愛称で人気の歌舞伎俳優、片岡愛之助さんが演じられます。
片岡愛之助さんは意外にも、歌舞伎界とは無縁の家庭で生まれたので、芸能デビューは子役オーディションに合格してから。だそうです。
なので、お芝居は子どもの頃からされているのですね。
それに、歌舞伎俳優としてだけでなく、ドラマや映画でも活躍されています。
多局でご活躍されているのは勿論ですが、NHK大河ドラマや朝の連続テレビ小説にも出演されているので、歌舞伎のことはあまり詳しくないファンの方も多いのでは?と思います。
歌舞伎もドラマも映画も・・・と、老若男女に知名度&人気のある俳優さんの中では、ランキング上位に入るのではないか?と思いますね。
さて、人気のことばかり書きましたが、特に着物の着こなし&所作のカッコよさは抜群です!
化粧映えもされるので時代劇をすると、違和感なさ過ぎですから、今回、『麒麟がくる』の今川義元も見応えありそうですよね。楽しみです。
今川義元って軟弱武将のイメージ?
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
「今川義元」=「軟弱武将」のイメージが一般的には強いのではないでしょうか。
1560年(永禄3)「桶狭間の戦い」の時に、今川義元は2万5,000の大軍を擁しながら、対する織田信長は、2,000の軍。
人数に大差があるのに負けてしまったので、「凡将」「軟弱武将」といったイメージのレッテルが貼られたようです。
それに今川義元といえば、太り過ぎて馬にも乗れないので、輿(こし)で移動していた。と言われていますし、幼少期に仏門に入ったので、武芸はそれほどでもなかったようです。
まぁー。
馬に関しては、後世に作られたイメージで、「桶狭間から馬で逃げた」という記述が〈信長公記〉にあるそうです。
そんなこんなで、余計に強くてカッコイイ戦国武将のイメージからは、かけ離れていったのではないかと思われます。
が、「桶狭間の戦い」では敵兵と何度も切り合い、槍で刺されたあとでも、敵兵の指を食いちぎり絶命した。と言われています。
これを聞くと、根っからの軟弱ではなかったのではないか。と思えますね。
本当に軟弱な戦国武将なら、武田信玄や北条氏康らと対等に同盟なんて結んでないですよね。(甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい))。
海が欲しかった武田信玄が、上杉謙信のいる日本海を目指したという理由について、『強いのは 謙信<義元 』と思っていたからではないでしょうか。
イメージとは、凄く印象に残っていることがつきやすいので、今川義元の場合も、「桶狭間の戦い」での兵の数などがインパクト強く、後世に語り継がれるときに、そこの部分が膨らんでついたイメージなのではないかと思います。
実際は、もっと色々あるだろうと思いますし、ここにくるまでの過程なんかもはっきりとは解らないんので何とも言えませんが、少なくとも軟弱武将なら、もっと前に今川家は潰されて、歴史上の人物として名前はのこらなかったのではないか・・・
決して軟弱武将ではない。と思えてならないのです。
太原雪斎がいなければ今川義元は大成しなかった?
太原雪斎は、今川義元が当主になる時に尽力した人物です。
義元は今川氏親の三男で、子どもの時に寺に入り修行していましたが、父の死に続いて病弱だった長男・氏輝が亡くなります。
氏輝には子がいなかったので、亡くなる前に雪斎に相談をすると、雪斎は、
「承芳様(義元のこと)がよろしいと思います」
と答え、氏輝は
「私もそう思っている。では承芳を相続人とするので、彼の後見人になって、面倒を見てやってほしい」
と遺言を残し亡くなりました。
雪斎は氏輝に「承知しました」と答え、遺言により義元は還俗。
お気づきかと思いますが、義元は三男なので次男は面白くなく、ついに反乱を起こします。
そんな状況を雪斎はずっと見ていて、反乱が起きたのと同時に、次男軍を急襲。
全滅させました。
前から読んでいたのでしょうね。
そして、義元は No.1となったのです。
そのことで、雪斎は実質的にNo.2となり、今川家の重役陣を押さえ、今川家の人々から一目置かれる存在となりました。
しかし義元には野望は全くなく、都からお公家様を次々に呼んでは詩を作り、茶の湯を楽しみ、蹴鞠に興じるなど、都での流行にうつつを抜かしていました。
雪斎は「今川家はこれからどうなるのか?三河・松平や尾張・織田が、駿河国を伺っているのに」と、脇で見ていて心配し、「軍学を少しは勉強して下さい」と、強制的に中国の軍学書を教えました。
それでもやっぱり、義元が楽しかったのは、軍学<和歌、蹴鞠。
やる気も起こらず…。
そして、雅な生活スタイルだけでなく、お公家様のような格好をしていました。
・ピラピラする着物を着用。
・眉を剃り落とす。
・お歯黒。
この格好は有名で、義元のイメージに現代もありますよね。
そんなこんなで氏輝に対し、雪斎は責任を感じていました。
なんせ、本人がその気が起こらないので仕方なく、雪斎は義元に代わり現場に出て、戦の指揮をとりはじめました。
当時、今川家の敵は、
・松平氏。
・織田氏。
・武田氏。
・北条氏。
たくさんいました。
雪斎は中国の軍学書で色々な合戦の事例を知っていたので、指揮は的確。
今川軍は連戦連勝をしました。
今川の家臣団は、雪斎を当てにし、今川義元に背を向けはじめました。
雪斎は
「本来は義元様が先頭に立ち指揮をとるべき。今はそれが不可能。自分は義元様の代理として指揮をとっているのだ」
と、自分に言い聞かせていて、この状況を
「これではいけない」
と思っていましたが、義元は尾張の織田信秀に一度、指揮をとって負けた経験がある事を理由に、
「その後は自分が先頭に立ち、指揮を執る事について自信がない。今後の戦での指揮は自分に代わり、太原雪斎にお願いしたい。」と言っていた様ですね。
それに、次々に敵が攻めてくるので、義元を戦場に引きずり出せずにいました。
その頃、松平広忠 VS 織田信秀の戦で松平広忠は敗れ、松平は今川義元に泣きついてきます。
そこで義元は雪斎に相談しました。
すると雪斎は、「広忠の子・竹千代を人質に出せば援軍を送る」という条件を出してはどうか。と答えると、義元は承知します。
それを松平広忠に伝え、承知。
そうして竹千代(のちの徳川家康)が、人質として駿府(静岡)に連れてこられることになりました。
しかしその途中、叔父・戸田康光が突然、竹千代を奪い、敵方、織田信秀の所へ連れていってしまいます。
雪斎は「人質を金で買うとは何事だ」とたいそう怒り、雪斎は決意。
出陣させたのです。
雪斎の策に、織田信秀軍は負け、尾張に敗走します。(1548年天文17年)
天文18年、松平広忠、突然の死。
天文20年、織田信秀が急死。
信秀が死に、織田家はポストを巡りゴタゴタしているすきに、「一挙に尾張に討ち入りましょう。」そして「尾張まで今川家の領国にし、天下統一への道を歩みましょう。京は間近です」と雪斎が言うと義元はその気になり、少しずつ軍学書を読むようになりました。
1554年(天文23年)、北条氏康 VS 武田信玄が勃発。
突然、今川の領内・駿河国に入り込み、戦を始めました。
すると、雪斎はその間を取り持ち
・北条氏康。
・武田信玄。
・今川義元。
の間に平和条約を結ばせます。
そして、いよいよ京へ!という日が目前にまできた翌年。
1555年(弘治元年)、雪斎は亡くなってしまうのです。
その頃、尾張の織田信長は若かったですが、力を伸ばしはじめていました。
5年後、今川義元は京に向かい進撃。
そして有名な「桶狭間の戦い」で、織田信長に惨敗。
首まで取られてしまいました。
太原雪斎がいなければ今川義元は大成しなかったのかもしれませんが、最期は勇敢に戦い負けはしましたが、リーダーの気質はあったのではないかと思います。
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