NHK大河ドラマ『麒麟がくる』で、明智光秀と同じく織田信長に仕えた光秀の盟友、細川藤孝ふじたか(幽斎ゆうさい)が登場します。
細川藤孝(幽斎)と明智光秀は、「本能寺の変」を境に真逆の道を選択するのですが…。
果たして彼は、明智光秀にとって本当に友だったのか…。
敵だったのか…。
さっそく見ていきましょう。
目次
『麒麟がくる』細川藤孝役は眞島秀和!
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大河ドラマ『麒麟がくる』で、光秀の生涯の盟友、細川藤孝(幽斎)(ほそかわ ふじたか(ゆうさい))が登場します。
細川藤孝(幽斎)は、文武両道、そして文化人でもあり、将軍奉公衆として室町幕府の再興にはなくてはならない人物でした。
そんな細川藤孝(幽斎)役を演じるのは、身長180㎝の長身イケメン眞島秀和さん!
眞島秀和さんはドラマに映画、舞台…。と、大活躍の俳優さんです!
主演をされたこともありますが、最近ではバイプレーヤーとしてよく見かけますね。
なので、名前を聞いてもしかすると「誰っ!?」ってなった方もいるかもしれませんが、顔を見たら「知ってる~」ってなると思います。
眞島秀和さんはラブストーリーに出ても、世の女子のハートをキャッチできる色気ある演技もできますし、最近だと『おっさんずラブ』での、同性愛者役を好演したのは話題でしたよね。
見入ってしまったわ~!っていう人も多いのではないでしょうか。
本当に色々な役を演じておられる俳優さんですし、細川藤孝(幽斎)のような戦国には珍しいタイプの武将、しかも文化人としても多才で…。って難しそうな空気感を、眞島秀和さんならだせそうな気がしますね。
ホント、キャスティングする人凄いっ!
『麒麟がくる』楽しみですね!
細川藤孝(幽斎)とは?明智光秀の盟友
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明智光秀の生涯についてはあまりよく分かっていません。
盟友・細川藤孝(幽斎)に出会ったのは、通説の美濃国(現在の岐阜県)の土岐明智氏を生まれとすると、その後、越前(現在の福井県)に移動し、朝倉氏に仕えた時。といわれています。
細川藤孝(幽斎)は、戦国~江戸初期にかけ活躍した戦国武将です。
細川藤孝の名は将軍・足利義藤(後の足利義輝)から字を賜ったものですが、「本能寺の変」後、剃髪し「幽斎」という雅号を名乗っています。
それは、明智光秀と細川幽斎は仲が良く、息子・忠興は、明智光秀の娘・玉(ガラシャ)と結婚していてたので、二人は友人であり、親族でもありました。
しかし「本能寺の変」の後、明智光秀から援軍要請がありましたが、細川幽斎の政治的思惑があったのか?なかったのかは、わかりませんが、援軍を送りませんでした。
明智軍は「山崎の戦い」で敗れています。
明智光秀要請を断るときに、
・剃髪。
・細川藤孝→細川幽斎と名を変える。
・家督を細川忠興に譲る。
・隠居する。
とし、援軍を送らなかったことに対し、筋を通した行動をとっています。
そして隠居した幽斎は、文化人として利休とならび重用されるようになります。
幽斎は、歌人としても、歴史に名を留める一流の文化人としても知られています。
和歌の他にも、
・剣術。
・弓。
・茶道。
・蹴鞠。
・囲碁。
・料理。
・水泳。
・有職故実。
を得意とする文武両道の人物。
教養の高さは公家の中にも、細川藤孝(幽斎)には及ばなかったというので、その凄さが伺えます。
そして時代は流れ、秀吉の死後、細川家は徳川家康に組するようになります。
1600年6月、家康が会津征伐を行っている時、石田三成は徳川派に攻撃を仕掛けてきました。
そんな中、息子・細川忠興は家康に加勢する為に殆どの兵を率いて参戦中。
この時、細川ガラシャ(細川忠興の妻)が大阪の屋敷にいましたが、このまま人質になるのは嫌だ!と、家老・小笠原秀清に介錯を頼み、遺体が残らないように爆薬を屋敷に仕掛けて火を点け、自身も自刃しています。
その頃、細川幽斎は、丹後田辺城(細川氏の居城(現在の京都府舞鶴市))にいて、石田三成の軍勢に囲まれていました。
石田軍は15,000人の兵。
田辺城は500人の兵。
これだけ人数に差はありましたが、50日間籠城を続けました。
すぐに落ちなかった理由としては、
・石田軍の中に幽斎を「歌道の師」と仰いでいる諸将たちが従軍していたので、攻撃に積極性を欠いていたこと。
・幽斎は当時唯一「古今伝授」を相伝していたこと。
・幽斎の弟子の一人であった八条宮智仁親王 & 兄・後陽成天皇は古今伝授の断絶を恐れていた為
と、言われています。
文化人としての才が、戦に有利に働いた特のです。
八条宮は田辺籠城が始まると、開城を薦めましたが、「古今集証明状」を八条宮に贈り、「源氏抄」&「二十一代和歌集」を朝廷に献上、籠城戦を継続し討死の覚悟をアピールした事で、
・時間稼ぎが出来た。
・天皇を動かし勅令を発せさせるのに成功。
最終的に天皇が介入し、幽斎の歌道の弟子であった
・大納言三条西実条。
・中納言中院通勝。
・中将烏丸光広。
を勅使として田辺城の東西両軍に派遣。
講和を命じられ、田辺城を明け渡しました。
開城を頑なに拒んだ幽斎でしたが、本当は討死の覚悟をしていなくて、全て策だったのでは。という見解も見られています。
そうして城を明け渡した2日後「関ヶ原の戦い」が起きますが、田辺城攻めが長びいたので、本戦に15,000の兵は間に合わず・・・
何とあろうことか不参加。
結果、幽斎の籠城が、関が原での西軍の兵力を削ぐことに貢献しました。
もしかすると幽斎は、戦略にも長けた人物であったのではないでしょうか。
策と見せずに行うところに高度な業を感じますね。
細川藤孝は友で親戚の光秀になぜ加勢しなかった?
明智光秀は、「本能寺の変」で織田信長を討った後、「弔い合戦」に備える必要性が生じ、同僚であり友であり、親戚関係にある細川藤孝(幽斎)に助太刀の要請を送りました。
しかし、要請を出す前に細川親子が、髷を払い喪に服していることを光秀は知りました。
これが意味するのは→「信長の死を悼んでいる」ということ。
このことを知った光秀はどんな気持ちでいたのでしょう。
それでも、光秀は細川藤孝(幽斎)に助太刀要請を送ります。
「髷を払っていることに関しては腹立たしく思っているが、事が起こってしまったのでなんとか助太刀を願いたい。」
「助太刀の見返りとして摂津一国を用意しているが、希望があればさらに若狭一国も与える。」
「謀反を起こしたのは忠興の処遇をよくするためであり、数十日あれば近国を平定できる。」
という内容。
しかし、書状を受け取った細川藤孝(幽斎)は、明智家との絶縁を決めます。
そして、秀吉軍に参戦する準備を進めていったのでした。
そうして光秀は孤立無援の状態に陥ります。
光秀は秀吉に敗れ、命を落としました。
秀吉の厚遇を受けて細川家は家名を残していくことになりました。
しかしなぜ、細川藤孝(幽斎)は加勢しなかったのでしょうか。
俗に言われているのは、
・明智光秀の事前の根回し不足。
・細川藤孝(幽斎)は明智光秀ほど「縁」を大切にしていなかった。
親しくしていると思っていた明智光秀に対し、細川藤孝(幽斎)は悲しいかな、信長ありきの同僚にすぎなかったのかもしれません。
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