NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主役・明智光秀を踏み台にし、天下をとった武将を演じるのは、佐々木蔵之介さん!
低い身分からの出世した武将は他にもいますが、天下人にまで大出世したのはさすがに秀吉ただ一人です。
天下をとるまで出世するとは、本人も誰も思っていなかったでしょうね。。。
目次
『麒麟がくる』佐々木蔵之介が藤吉郎(豊臣秀吉)役!
画像引用元:https://www.talent-databank.co.jp/search/t2000043781
『麒麟がくる』の中盤から物語を大きく左右する藤吉郎(豊臣秀吉)が登場します!
その重要な役どころを演じるのは、大河ドラマ『風林火山』から13年ぶり2回目の出演となる佐々木蔵之介さんです!
藤吉郎(豊臣秀吉)は、農民出身ですが、知略 & 人望で異例の大出世をした武将です。
武将といっても、農民出身ですし武勇はあまり…。な感じで、戦って討ち取る!ってタイプではない、稀なタイプの戦国武将です。
出世のたびに魅せる様々な表情(駆け引き、野心など)や、ちょっと茶目っ気があったり、あまり武将武将してなかったり…。と、
有名な武将だけにイメージがあったりするので、演じる役者さんは大変だと思います。
佐々木蔵之介さんは、プレッシャーを口にしながらも、「私は申年です」と、藤吉郎(豊臣秀吉)のニックネームにかけてみるなど、意気込みは十分なコメントをだしておられます。
明智光秀の生涯のライバルでもある藤吉郎(豊臣秀吉)なので、登場も多くなるのではないでしょうか。
変幻自在の演技でどう演じて魅せてくれるのか、今からとても楽しみです。
木下藤吉郎から豊臣秀吉へ
秀吉は出世するたびに名前を変えています。
書ききれないくらいたくさんの史料があるので、簡単ではありますが、見ていきましょう。
生まれたのは1537年、幼名「日吉丸」。
(出身地 & 父 & 母については諸説あり、不明。)
一番知られている説だと、
・尾張国(愛知県)中村郷出身。
・父→足軽(兵士)。「木下弥右衛門」
・母→「なか」
父の死後、母は再婚。
養父と折り合いが悪く、日吉丸は家出します。
父の遺産を元手に針売り行商などをし、各地を転々とします。
そして遠江(静岡県西部)に流れ着き、今川義元の家臣・松下之綱(ゆきつな)に仕えました。
この頃から木下藤吉郎を名のっています。
ここからの経歴ははっきりと残されています。
藤吉郎は、松下之綱に目をかけられていましたが、同僚からいじめられ退転。
地元の知り合いのつてで、尾張の領主・織田信長に仕えることになります。
(1554年17歳)
当時の身分は「小者」。
(小者→信長の身辺に仕えて雑用などが役目。)
木下藤吉郎(豊臣秀吉)は、織田信長の草履を懐で温めて差し出して気に入られた。という有名な逸話があります。
やがて、存在を覚えてもらい、仇名をつけるのが好きだった織田信長から「猿」という仇名で呼ばれるようになりました。
しだいに信長から認められるようになります。
・清州城の普請奉行(建築の責任者)。
・台所奉行。
そして、浅野長勝(信長の家臣)の養女の「おね」と結婚します。
1560年、今川義元(駿河の大名)が、尾張に大軍を率いて侵攻。
信長は奇襲により今川軍を撃退。
義元の首を奪います。
そして信長は、三河(愛知県東部付近)で、松平元康と同盟を結びました。
次に信長は北の美濃(岐阜県)を領主・斎藤氏から軍勢を率いて力技で奪取しようとしましたが、これがダメで…。
寝返り工作で美濃の攻略を進めることに…。
そこで活躍したのが藤吉郎です。
小者からの名では、身分が障害となってしまう為、他国の武将との交渉の時には、「木下秀吉」の名前を使うようになります。
1564年頃、秀吉は美濃の豪族たちを織田方に寝返らせ、敵の勢力は減少&味方の勢力が増える、という功績を立てました。
1566年、川並衆の棟梁・蜂須賀小六(美濃や尾張で野伏(独立した武装集団))を配下にします。
力をつけてきた秀吉に斎藤方の家臣は次々寝返ります。
そしてついに有力な武将たちが(「美濃三人衆」)の臣従をきっかけに、斉藤氏の本拠・稲葉山城を大軍で包囲。
城主・斎藤龍興を追放。
織田信長は美濃一国をその手中に収めた瞬間でした。
その後も秀吉は、信長の躍進に従い各地を転戦し、近江(滋賀県)の戦で軍功を上げ、京都の政務を任されます。
但馬国(兵庫県北部)に2万の軍を率いて侵攻。
18もの城をなんと10日で落とした!という物凄い戦果を上げています。
秀吉はわりと何でもやってみたらできるタイプで、軍の指揮官としても信長から認められるようになっています。
1570年、越前(福井県)の朝倉氏の討伐戦で、危機的状況を乗り切りの信長より働きを褒めたたえられました。
黄金数十枚という褒美を与えられています。
で、秀吉は大名に!
羽柴秀吉を名のります。
信長の重臣の【丹「羽」長秀】と【「柴」田勝家】から、一字ずつ拝借し作った姓です。
1573年、裏切った浅井氏を攻撃し、滅ぼしました。
秀吉は長浜城の城主となります。
その後、「長篠の戦い」に従軍。
1577年〜強敵との戦の司令官に任じられ、その頃中国地方を制覇していた毛利氏の攻略を命じられます。
秀吉は黒田官兵衛から譲り受けた姫路城を拠点とし、山陰、山陽各地域を攻略し、但馬、因幡、備前を手中に収め、1582年になる頃には備中(岡山県西部)にまで兵を進め、備中高松城(毛利方)を包囲。
川の上流で城周辺に水が流れ込むよう、工事を行い、水攻めで城主・清水宗治を追い詰めます。
高松城は落城寸前、それでも毛利軍は他の重臣達が4万の援軍を率いてにやってきており、油断のならない状況。
そこで織田信長も自ら大軍を率いて出陣を決めたことを、秀吉に知らされると、秀吉は毛利軍に和睦を持ちかけますが、その最中、信長が光秀に襲撃され死亡。という知らせが伝えられ、秀吉はしばらく茫然自失。
それでも、立ち直り信長の仇討ちを決意し、毛利氏には信長の死を隠したまま交渉。
・数カ国を割譲すること。
・清水宗治切腹。
で決着をつけました。
急ぎ戻り「山崎の戦い」で秀吉は光秀を討ちました。
信長の後、織田家の当主を幼子(三法師)にし、後見人に信長次男・織田信雄を推薦。
無力となった織田家の勢力を自分のものに…。と秀吉は考えていたようです。
一方、柴田勝家(織田家・重鎮)は反発。
対立が始まります。
そして、その対立は「賤ヶ岳の戦い」へと発展。
結果、秀吉が勝利をおさめました。
信長次男・織田信雄は秀吉のこういった行動を見ていて気づきます。
初めから秀吉に利用されているだけだ。と…。
1584年、織田信雄は秀吉に年賀の挨拶に来るように言われたことに反発。
そして対立。
信雄は徳川家康と同盟を結び、秀吉に宣戦を布告します。
秀吉の方は、10万の大軍を尾張・小牧方面(織田信雄の領地)へ。
しかし、長久手の局地戦で徳川家康に敗れるなど苦戦。膠着します。
徳川家康の領地は災害に見舞われ戦費の調達が難しくなり…。
そして情勢の変化によって、大規模な戦はないままに和睦となりました。
この後も秀吉は、四国を制し、天下人にふさわしい実力を備え、1585年関白の地位につくことに成功。
秀吉は天下人としての名分を得たのです。
(関白→天皇代理で政務を見る。という地位。)
1586年
・朝廷から豊臣の姓を賜る。
・太政大臣にも就任。(最高位の官職)
こうして天下に号令する権限を得て、「豊臣秀吉」が誕生したのです。
明智光秀との関係について
明智光秀と藤吉郎(豊臣秀吉)は織田信長に仕えていました。
織田信長は、優秀であれば誰でもオッケー。
でも、役にたたなければ即クビー。
っていう超合理的な考えをもつ武将です。
そんな信長が最も信頼していたNo.1家臣が、明智光秀で、No.2が羽柴秀吉(藤吉郎(豊臣秀吉))と言われていて、事あるごとに大絶賛!高評価を得ていました。
先祖代々織田家に仕えた家臣たちよりも大事にしていた。と言われています。
でも、信長はめっちゃ気分屋なので、この家臣二人を気に入っていてよく誉めていたようですが、パワハラ酷かったようですよっ。
それでも、明智光秀は純粋に信長を尊敬していて、プータローだった自分を家臣に採用してくれた事を感謝していたので、耐えられたのかもしれませんね。
秀吉(藤吉郎(豊臣秀吉))は農民からの叩きあげ武将。
このパワハラに恨みともとれる嫌気をさしていたのではないか。といわれています。
「くっそー」って気持ちで耐えられていたのかもしれませんね。
とにかく二人は同僚であり、ライバル的な存在で、あまり仲は良くなかったようです。
そして、この二人といったらやっぱり「山崎の戦い」ですよね。
秀吉は信長の仇を討つ為に、急ぎ姫路城から向かいます。
向かう途中に、各地の信長家臣の大名たちと連絡をつけ、味方を増やしていました。
一方、光秀の方は特に事前の工作をしていなかったようで、味方がほとんどつかない状態。
こうして40,000人 VS 16,000人という圧倒的な兵力に差がつき、秀吉は明智光秀に圧勝。
明智光秀は織田信長を殺した裏切り者。と数百年たった今でも、代名詞として語られる存在になっています。
結果、明智光秀は、秀吉が天下を取るのを助けたような形になってしまいました。
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