『麒麟がくる』で土岐頼芸(ときよりのり)を、尾美としのりさんが演じます。
この土岐頼芸と聞いて最初に浮かべるのは、重臣だった斎藤道三に美濃から追放されてしまう。。。という悲しい出来事がよぎります。
兄の土岐頼武(とき よりたけ)との幾度に渡る、家督&領土奪還を繰り返し、ようやく美濃国の守護となりますが、重臣に追放される屈辱はどんなものだったのでしょう?
では、そんな土岐頼芸の人生をみていてたいと思います。
目次
【麒麟がくる】土岐頼芸(とき よりのり)役は尾美としのり!
画像引用元:http://www.planningmay.com/talent_omi.html
2020年大河ドラマ『麒麟がくる』で土岐頼芸(とき よりのり)役を演じるのは尾美としのりさん!
大河ドラマ出演は、今回で5度目ですから、もうベテランですよね。
1979年 草燃える 北条泰時役
2001年 北条時宗 足利利氏役
2012年 平清盛 平維綱役
2017年 おんな城主直虎 榊原康政役
尾美としのりさんは、子役の頃から役者の仕事をされていたので、そりゃベテラン俳優ですよ。。
17歳で、主演映画を務めます。
それが知る人ぞ知る『転校生』!
最近の『君の名は』というアニメ映画は、この『転校生』のストーリーを少し絡めているのでは?といった感じに思わせます。
映画『転校生』のストーリーは、主人公の男女2人が入れ替わってしまう。という内容なんです。
ちなみに原作本は『おれがあいつであいつがおれで』という児童文学書です。。
『君の名は』は、寝て起きたら入れ替わっている!という内容でしたが、転校生は、主人公の2人が同時に階段から転げ落ちてしまった時に、体が入れ替わってしまうという、何とも強引なストーリー。。。
(ま、寝て起きたら入れ替わるのも、かなり強引ですが・・)
この映画『転校生』で、一躍有名となった尾美としのりさん。
今回の大河ドラマ『麒麟がくる』の土岐頼芸は、兄の土岐頼武から家督相続、箕面国奪還に成功するも、重臣だった斎藤道三に追放される。。という、主役の座は一瞬で、結局脇役だった・・・的なイメージを持つ武将です。
尾美としのりさんが、どんな脇役武将を演じるのか楽しみです。。。
兄・土岐頼武と対立を繰り返した土岐頼芸(とき よりのり)
土岐頼芸(とき よりのり)は、文亀2年(1502年)に美濃国にて生まれます。
父・土岐政房にとても可愛がられて育った頼芸は、その後の土岐家のお家騒動に翻弄される人生を送ります。
土岐政房の嫡男は土岐頼武(とき よりたけ)。
頼芸は次男でしたが、溺愛された父親の後押しと、斎藤道三の父・松葉庄五郎、そして長井家当主・長井長弘らによって、嫡男の頼武と争う事になるのです。
頼芸が生まれた当時から土岐家は、重臣の斎藤家、新興家臣だった長井家などを含め、美濃国での権力争いが起ころうとしていました。
そんな中、嫡男の頼武は守護代である斎藤利良らからの支持を受け、松葉や長井らに擁立された次男の頼芸と家督争いとなり、更に事態はややこしくなります。
永正14年(1517年)に、頼芸と頼武の合戦が始まりました。
この戦いで頼芸側は敗退しますが、翌年の永正15年(1518年)に再び戦が始まります。
そうして今度は頼芸側の勝利となり、兄の頼武を越前国に追放します。
しかし、弟に追放された頼武も黙っちゃいません。
今度は、その1年後の永正16年(1519年)に、頼武は朝倉孝景の後ろ盾を得て美濃に侵攻し、あっさり勝利となります。
実はこの時、父である政房が亡くなっていた為、その混乱もあったのでは?といった感じもありますが。。。
奪還の奪還の奪還・・・
これでやっと・・・と思った(のか解りませんが)頼武でしたが、またまた頼芸の引き下がれない執念に押され、大永5年(1525年)に、頼芸らは再び守護奪還に成功します。
そして、頼武を享禄3年(1530年)に、またもや越前国に追放します。
ここで土岐頼芸が守護となり、美濃国はしばらく落ち着きを取り戻します。
しかし天文4年(1535年)、再び戦が始まります。
それは、頼武の跡を継いでいた、甥の頼純との対立です。
甥の頼純は、朝倉と六角らの後押しもあり、美濃に攻め込みますが、結局大きな戦に発展する事はありませんでした。
そして頼芸は、正式に美濃の守護に就いたのでした。
それから頼芸は、六角定頼の娘を正室に迎え、それにより頼純とも和睦を結びます。
しかし、頼芸と道三の間に溝が生まれる出来事が起こります。
その原因と言われているのが、頼芸の弟・頼満を道三が毒殺した事件です。
兄弟を重臣に殺されるという出来事により、頼芸も道三に対する不信感は募っていき、互いの間に険悪ムードが。。。
そしてその頃道三は、自身の娘・濃姫(帰蝶)と織田信秀の息子・信長との婚姻が決まります。
道三は織田家との絆が深まり、更に頼芸の立場は危うくなっていきます。
更に道三は、美濃を実質支配していく動きを始めます。
そうして天文11年(1542年)、道三の指示により頼芸は、息子の頼次と共に尾張国に追放されたのでした。
いつの頃からか、斎藤道三は美濃国の権力を支配する野望を持ち、それを実現する日が来たのです。
道三が美濃の権力を握ってから土岐頼芸は、近江国や甲斐の国など転々とする事になります。
美濃国から追放されたが長生きした土岐頼芸
さて、美濃国を追放された頼芸ですが、その後は近江国の六角氏を頼り、その後、甲斐国の武田氏のもとへ身を寄せます。
その頃、織田信長の息子・信忠によって、甲斐武田氏にある菩提寺の恵林寺が焼き討ちに合いますが、頼芸は被害に合う事はありませんでした。
しかし、持病の糖尿病が悪化した事により失明してしまいます。
そんな頼芸を稲葉一鉄(良通)が故郷の美濃国に戻る手助けをします。
ずっと離れていた故郷に戻った頼芸でしたが、半年後に亡くなっています。
享年81歳でした。
しかし、この時代に81歳まで生きた頼芸は、苦労はしたとはいえ、生き続ける事に関しては勝ち組だったといえるのではないでしょうか。
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