2020年1月から放送予定。
NHK大河ドラマ第59作目『麒麟がくる』
時代設定は1540年代、戦国時代〜安土桃山時代。
明智光秀の生涯を描いた脚本になっています。
主人公・明智光秀役を演じるのは、「ハセヒロ」こと長谷川博己さん。
そして歴史上に光秀が名を残せたのは、光秀の力だけでなく斎藤道三のおかげ。
なんてことも言われています。
斎藤道三役を演じるのは「モックン」こと本木雅弘さん。
光秀は道三の家臣ですが、側で仕えながら、優れた策略力と鉄砲使いの技を習得。
二人はある意味、師と弟子といった関係でもあったのです。
このイケメンのお二人が師弟関係なんて、画面映え最高ですよね!
ところで、明智光秀なのに、なぜ麒麟?と不思議に思われませんでしたか。
麒麟は、「仁政を行う王の元に現れる」とされる伝説の動物で、これがタイトルの由来になっているようです。
タイトルにつけられている麒麟はいったい何者にあたるのでしょうか。
タイトルからして見応えありそうですね。
目次
斎藤道三役は本木雅弘!
画像引用元:https://www.vip-times.co.jp/?s=&sc=st&w=%E6%9C%AC%E6%9C%A8%E9%9B%85%E5%BC%98
2020年大河ドラマ『麒麟がくる』で、登場する斎藤道三役は本木雅弘さんが演じられます!
本木雅弘さんは、説明しなくても皆さんご存知ですよね。
元ジャニーズでシブがき隊の「モックン」の愛称で人気でしたが、今でも日本を代表する俳優さんとしてその姿&人気は健在です!
CMの『伊右衛門』や映画『おくりびと』などの、映画のイメージの方が強い人の方が多いかもしれませんね。
難しい役にもたくさん挑戦されていて、演技力もありますしね。
本木雅弘さんの作品って、何度も見返したくなる不思議な魅力があるんですよねぇ〜。
『麒麟が来る』で演じる斎藤道三は「美濃の蝮(まむし)」という、ちょっと変わったあだ名をもっている武将です。
油商人から美濃一国の大名に成り上がった戦国大名!& 信長の正室(濃姫)の父としてよく知られています。
斎藤道三は、ニックネームがマムシというだけあって、危険な人物だったと想像つきますよね。
戦国時代の下剋上をやってのけたくらいですから、それは相当なものだったのではないでしょうか。
まぁ、油断できない人物なのでしょうね。
とても優秀で、先を見据えて考えることができる武将。
そして実像は、人を惹きつける魅力があった武将だと言われています。
マムシの演技をどのように演じられるのか。。。
本木雅弘さんの斎藤道三、楽しみですね。
美濃の戦国大名だった斎藤道三とは?
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
斎藤道山は戦国時代に活躍した武将です。
でも、生粋の武将!というわけではありませんでした。
それでなのかはわかりませんが、斎藤道三の資料があまりなく明確でないことも多いです。
そのため、色々調べていると、んっ?さっきと、違うようなぁ〜。という記事に出会うほど、謎が多く不明な点が多いところがまた魅力でもある武将です。
そんな斎藤道三が生まれたのは、明応3年(1494年)or 永正元年(1504年)と推定されています。
生まれた土地も山城国など諸説あり、出生に関してはっきりしたことはわかっていません。
斎藤道三のお父様は、長井新左衛門尉(豊後守)が有力とされており、京都の妙覚寺の僧侶を還俗し、西村勘九郎と名乗り美濃で守護土岐氏の家臣・長井弥郎に仕えた人物です。
(還俗→僧が僧籍を離れ俗人に戻ること。)
斎藤道三は、11歳の頃、妙覚寺で得度を受けましたが、学友の日護房(南陽房)が常在寺(現在・美濃国厚見郡今泉。)の住職となったことをきっかけに還俗し「松波庄五郎」と名乗っています。
(得度→仏教における僧侶となるための出家の儀式。)
その後、油問屋・奈良屋又兵衛の娘と結婚。
油屋の商人となり「山崎屋」を名乗るようになりました。(時期詳細不明。)
初めての油売りの商人でしたが、大活躍したそうです。
その後武芸を磨き武芸の達人となり、武士を目指しました。
土岐頼芸との出会い
美濃守護土岐氏小守護代・長井長弘に武芸の才能を認められ、家臣として仕えるようになった後、土岐守護の次男・土岐頼芸にも認められ、その後土岐頼芸に仕えることとなります。
そして斎藤道三(松波庄五郎)は、土岐頼芸とその兄・土岐政頼の相続争いに介入すると、大永7年(1527年)8月、兄・土岐政頼を越後へと追いやり、まだ若い主君・土岐頼芸を守護代にさせることができました。
父は少しずつ頭角を現し、三奉行まで出世。長井の苗字を称しました。
斎藤道三は、この父の活躍の元で、一緒に活動したとみられています。
享禄元年(1528年)斎藤道三は、主君・土岐頼芸の愛妾の深芳野(父・一色義清)を下贈され、側室となります。
(深芳野→187cm 長身スレンダー美女。(美濃国諸家系譜より))
翌年(大永7年(1527年)6月10日)第一子、豊太丸(のちの斎藤義龍)が誕生しました。
天文元年(1532年)に小見の方(父・明智光継)と呼ばれる女性を正室に迎えました。
斎藤道三 下剋上の始まり
1533年 父から家督を譲り受け、長井家の当主となります。
1534年 齋藤道三は主君・土岐頼芸から絶対的な信頼を受け、力を伸ばしていきましたが、これに対し長井長弘は不満を抱き始めます。
だって、今までは主君・土岐頼芸の信頼は自分に向けられていたのですから…。
長井長弘はモヤモヤ…。
ヤキモチやいちゃうってわけです。
良からぬことが起きそうな予感がしたのかしないのか道三は、早々に長井長弘を排除。殺害したのです。
稲葉山城(長井長弘の城)を居城にし、齋藤道三は、新井新勘九郎規秀と名乗りました。
天文4年(1535年)、斎藤道三(新井新勘九郎規秀)と正室・小見の方との間に第一子が誕生します。
この子が、のちの濃姫となる帰蝶です。
つまり、帰蝶(濃姫)と明智光秀は従兄妹ですね。
1535年 家督相続に破れた土岐頼武を担ぎ、越前追放クーデターに成功。
そして天文10年(1541年) 斎藤道三は、遂に主君・土岐頼芸を裏切る行為にでます。
土岐頼満(主君・土岐頼芸の弟)を毒殺。
これにより主君・土岐頼芸と対立関係に。
天文11年(1542年) 大桑城(土岐頼芸の居城)を襲撃。
土岐頼芸を尾張国へ追放しました。
こうして斎藤道三は美濃の国主となったのです。
まさに下剋上。
しかし話はこれで終わりません。
道三に追放された土岐頼芸は尾張国の織田信秀(織田信長の父)を頼り、同じく土岐頼芸より先に追放されていた土岐頼純ともタッグを組み、美濃侵攻を始めます。
天文16年(1547年)9月 織田信秀が稲葉山城(斎藤道三の居城)を襲撃。
しかし斎藤道三は、見事阻止。
その後も侵攻が続きましたが、斎藤道三は織田信秀と和睦を結び、土岐頼芸との対立を終わらせようとしました。
和睦の時に、娘・帰蝶(濃姫)を織田信長(織田信秀の息子)に嫁がせたとされています。
織田信秀と手を組んだ斎藤道三は、これをきっかけに、自身に反逆していた
・相羽城主
・長屋景興
・揖斐城主
・揖斐光親
を滅ぼし、さらには天文21年(1552年)主君・土岐頼芸を尾張国へ追放。
美濃国を支配することとなったのです。
斎藤道三の悲しい最期
天文23年(1554年) 斎藤道三は家督を息子・斎藤義龍(側室・深芳野との間に誕生した子ども。)に譲り出家。
うまくいっているように見える親子関係ですが、斎藤義龍の耳に良からぬ噂が舞い込みます。
それは、母・深芳野は土岐頼芸の愛妾で斎藤道三の側室になる前から妊娠していた?本当の父は、土岐頼芸なのでは?というもの。
そんなことを聞いてしまい、斎藤義龍は本当に父親は斎藤道三なのか?と疑問に思うようになります。
あくまで一説ということで、これも本当のところは分かっていませんが、そんなことを聞くと子ども心は傷つき、そういえば、弟・孫四郎や喜平次を可愛がっていたよなぁ〜。みたいなことばかり考えるようになるうちに父・斎藤道三を信じられなくなります。
もし、土岐頼芸が父ならば、追放した斎藤道三は仇と考えたかもしれません。
そうして、斎藤道三と斎藤義龍との間に亀裂が入り、関係性は悪化の一途をたどります。
ついに斎藤義龍は弟・孫四郎、喜平次を殺害。
父・斎藤道三に対し挙兵し、道三も応じて兵を挙げますが、主君を裏切ったという過去から味方は少なく、息子の兵17,500に対し2,500の兵で、戦いに挑むのでした。
ついに斎藤道三の敗北が決定します。
その人生に幕を閉じ、63歳で亡くなりました。
全てが上手くいっているかのように見えた斎藤道三でしたが、最期は悲劇的なものでした。
「美濃のマムシ」と呼ばれた斎藤道三は、典型的な下剋上の例となる人物でした。
斎藤道三と明智光秀の関係
二人は斎藤と明智で苗字が違うので、全く関係ないのでは?と、思いませんか。
実はこの二人は親族関係にあたります。
天文元年(1532年)斎藤道三は「小見の方」を正室に迎えたのですが、この方の父上様は明智光継です。
明智光綱は、明智光秀の父上様。
なので簡単に言うと「小見の方」は明智光秀の叔母さんです。
光秀は甥っ子ちゃん!ということですね。
この結果、斎藤道三と明智光秀は血縁関係はありませんが、明智家と斎藤家は親族関係になったのです。
そして、このことが明智光秀の人生にとって、良いことと悪いことがありました。
斎藤道三は、正妻・小見の方が生んだ息子を溺愛。
長男・斎藤義龍とは険悪な関係で、国を真っ二つに割っての親子ゲンカ勃発。
明智家は斎藤道三と親族という事もあり、味方の少なかった道三につきました。
しかし、斎藤義龍の圧倒的兵力に斎藤道三は討ち取られてしまいます。
明智家は斎藤道三が討ち取られた事により、斎藤義龍の軍勢に攻撃を受け、滅亡。
明智光秀は、斎藤家と実家が親族になったことで、実家を失くしてしまいました。
そして実家が滅亡した明智光秀は、美濃の国から逃亡する事となるのです。
浪人生活。。。
その後、明智光秀は没落し、不遇を囲っていた将軍・足利義昭と出会い、義昭を将軍にする為に休むことなく奔走し、明智光秀は足利義昭からの命で、織田信長の元へ向かい情報収集を行うことになりました。
明智光秀は織田信長に吸収された美濃の豪族衆とも繋がりがあったので、情報収集も順調に捗りました。
情報収集後、足利義昭の元に戻り報告すると、足利義昭は、織田信長を頼ることを決意。
細川藤孝を織田信長の元へ派遣。
それは、斎藤道三の娘・帰蝶が織田信長の正室だったこと!
明智光秀は織田信長の正室・帰蝶と親類関係だったということで、織田信長の仲介役として活躍します。
そして明智光秀は織田信長と繋がりを持つようになりました。
こういったことを考えると、かなり誇示付けっぽいですが、斎藤道三がいたから、明智光秀が歴史の表舞台に出てこれたのでは。
なんて思ったりします。
息子の斎藤義龍と対立し、悲しい最期を迎えた斎藤道三。
織田信長は帰蝶(濃姫)の従兄妹の明智光秀に裏切られ後に亡くなるのですが、歴史の動きを知ると悲しいですが、何かの因果を感じてしまいますね。
何度も言いますが、あくまでこれも一説ということです。
明智光秀の生涯は斎藤道三同様、明確な時期など本当のところはわかっていません。
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明智光継のお兄さんは、明智光綱??
違うよ。光綱と小見の方は兄弟で、光継はその父、でしょ。
訂正のコメントを頂きましてありがとうございます。m(_ _)m
そうでしたね。申し訳ございません。
一行、間違った部分がありましたので削除させて頂きました。
ご指摘ありがとうございました!
道三 道山
修正についてのコメントありがとうございます。m(_ _)m
本当ですね。。。
漢字が、「道三」・「道山」と、入り混じっており、大変見苦しい記事となっていますね。
コメント頂きまして、大変助かります。
修正致します。
ありがとうございました。