2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』で稲葉良通(一鉄)が登場します。
演じるのは、村田雄浩さん。
一鉄という名は、出家した際の号で、字は違いますが、稲葉良通(一鉄)は、「頑固一徹」の語源になった人物でもあります。
一気に親近感が湧いてきますが、明智光秀とはどのような関係があった人物なのでしょうね。
では、さっそく見ていきましょう。
目次
【麒麟がくる】稲葉良通(一鉄)役を村田雄浩が演じる!
画像引用元:https://www.vip-times.co.jp/
稲葉良通(一鉄)役を名バイプレーヤーの村田雄浩さんが演じられます。
キャリアも長くて実力も演技も申し分ありませんね。
村田雄浩さんは、たくさんの出演作品ありますが、どれも素晴らしいです。
顔を見て、知らない人はいないのでは?と思うくらい、本当にたくさんのドラマ映画、舞台に出演されています。
見た目は同じなのになぜこんなにも色々な人の役ができるのか不思議なくらいです。
個人的には、「渡る世間は鬼ばかりの」優し〜い、嫁に頭が上がらない(笑)感じの村田雄浩さん好きですが、大河ドラマでの鎧をつけての乗馬シーンはめちゃくちゃかっこよかったです!
実は、身長が180cmあるんですよねー!
なので余計に素敵でしたね。
今回演じられる稲葉良通(一鉄)役は、さすが、戦国時代と言われるだけあって、戦い戦いの連続の生涯でした。
殆ど勝利で飾っているというのと、現役時代が長〜いのがすごい!と思わせる武将です。
話だけ聞くと猛々しい武将なの?
と思われがちですが、武道&茶道を好み+医道、能にも造詣がある多才な人物。
織田信長にもめちゃくちゃ気に入られていたようです。
色々な顔をもつ多才なこの武将役は、村田雄浩さんに合ってますね。
稲葉良通(一鉄)は逸話の多い人物でもあるので、ドラマではどのあたりを膨らませてくるのかが楽しみですね。
稲葉良通(一鉄)とは
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
稲葉良通は1515年、美濃池田郡本郷城で美濃の国人・稲葉通則の六男として、誕生しました。
幼少の頃に崇福寺で僧侶となります。
深芳野は良通の姉で、道三に嫁いでいます。
そして春日野局は養父で、母方の祖父にあたります。
快川紹喜(かいせんじょうき)(臨済宗妙心寺派の僧。)の下、学んでいましたが、1525年「牧田の戦い」で父、5人の兄達が戦死。
還俗し、家督を継ぎました。
良道の後見となった通貞(塩塵 えんじん)は、稲葉良通の祖父で、稲葉家の租となった人物です。
良通は、土岐頼芸に仕え→斎藤道三→織田信長→豊臣秀吉と、主を変えています。
かつての主である道三と義龍との争いでは義龍側に付きました。
しかし義龍はその後早逝し、美濃は織田に下ることになりました。
「西美濃三人衆」の一人として活躍した良通でしたが、斎藤氏を離反した後は、新たに美濃の領主となった織田氏の配下に入る事となります。
この時稲葉良通は、既に50歳を超えていましたが、織田軍でも頭角を現してきていたのです。
・1568年(永禄11年)
「観音寺城の戦い」
・1569年(永禄12年)
「伊勢国大河内城の戦い」
・1570年(元亀元年)
「金ヶ崎の戦い」
・同年
「姉川の戦い」
この『姉川の戦い』ですが、こんなエピソードがあります。
家康に信長は「自分の家臣を好きなだけ連れて行け」と言いましたが、徳川家康はそれを拒否します。
それは、家康軍は当時最強の三河武士と謳われた軍団。
織田軍は寄せ集めの傭兵が多い集団だったからです。
そこで、再度信長が言うと、その時、家康が選んだのは、稲葉良通ただ一人でした。
稲葉良通は『姉川の戦い』の際、1,000人の兵の徳川軍の先陣を務め、朝倉勢をつぶします。
織田軍の方は、浅井勢と対峙し劣勢となりますが、稲葉良通率いる稲葉軍が駆けつけ、浅井軍の右翼を崩し織田軍を勝利へと導きました。
そんな稲葉良通の働きに信長は勲功第一とし、自分の一文字である「長」を授けましたが、稲葉良通は、勲功第一は徳川家康である。と、これを受け取らず、その時から号の「一鉄」を使い始めています。
その後も、野田城の戦いや福島城の戦い、楼岸(ろうのきし)の砦に滞陣の後、殿軍(しんがりぐん)を指揮します。
1571年(元亀2年)志賀の陣では軍使を務め、長島攻めへ。
1572年(元亀3年)摂津交野城の後詰めへ。
1573年(元亀4年)「槇島城の戦い」一方の先鋒。
同年 (天正元年)「一乗谷城の戦い」朝倉義景を追い詰め&各地に転戦。
その際も、稲葉良通の働きが良かったという事で、美濃清水城を新たに与えられました。
1574年(天正2年)「長島攻め」
1575年(天正3年)
「長篠の戦い」
「越前一向一揆攻め」
「美濃岩村城攻め」
1576年(天正4年)「天王寺の戦い」
1577年(天正5年)
「紀州征伐」
「加賀一向一揆攻め」
「播磨国神吉城攻め」
1578年(天正6年)
「有岡城の戦い」
まだまだ書ききれないくらいあります。
還暦も過ぎてまだなお最前線で活躍するって凄い武将ですよね!
1579年(天正7年)65歳。
・家督。
・曽根城。
→嫡子の貞通に譲りました。
この時、貞通は34歳。
一徹は、美濃清水城に移ります。
それからしばらく経った1582年(天正10年)「本能寺の変」で信長が討たれ、その後は豊臣秀吉に仕えました。
1584年「小牧・長久手の戦い」を最後に戦からは遠のいています。
この時、一鉄69歳。
その後、穏やかに過ごしていた一徹は1588年(天正16年)美濃清水城畳の上で死去。
戦国武将にしては珍しい最期を迎えました。
74歳でした。
稲葉良通(一鉄)と明智光秀の関係は?
春日野局の実父・斎藤利三は明智光秀の家臣だったという事は有名ですね。
実はこの斎藤利三ですが、稲葉良通(一鉄)の娘婿にあたる人物なんです。
もちろん稲葉良通(一鉄)は重臣の一人として頼りにもしていました。
しかし斎藤利三は、稲葉良通(一鉄)から離れ明智光秀に仕えるようになるのです。
もちろん稲葉良通(一鉄)は激怒。
明智光秀に斎藤利三の解雇を求めますが、何度も言っても光秀は拒否。
らちがあかないと考えた稲葉良通(一鉄)は、織田信長にそのことを訴え、信長からその意を明智光秀に伝えましたが、明智軍にとって斎藤利三は重要な存在。手放すはずもなく…。
このやり取りに業を煮やした信長は、斎藤利三に切腹を命じます。
これは「本能寺の変」の5日前のことした。
こうしたエピソードから、この事が「本能寺の変」のきっかけの一つとなったのでは?という説があります。
1582年(天正10年)「本能寺の変」を明智光秀が起こし、信長と嫡男・信忠が横死。
稲葉良通(一鉄)は美濃国人衆に呼びかけ、岐阜城に甥の斎藤利堯(斎藤道三の四男)を擁立。
明智光秀に対して独立を保とうと画策。
光秀と手を組んでいたのは、稲葉領内に滞在していた安藤守就の一族(かつて織田信長に追放されている)。
北方城(旧領)を奪還し、本田城での交戦で勝利。
そして守就等を敗死させた明智光秀は「山崎の戦い」で土民の落ち武者狩りに遭い、竹槍に刺されて絶命します。
本能寺の変後、織田信長の存在は大きく、美濃は統制がとれなくなります。
そうして諸将の衝突が頻発しました。
稲葉良通(一鉄)は、揖斐城主・堀池半之丞(娘婿)と戦います。
そして領地を支配下に置き、福(外孫(のちの春日局))を稲葉家に引取りました。
1582年(天正10年)清洲会議後、織田信孝(織田信長の3男)が岐阜城を相続。
美濃は支配下に置かれ、落ち着くかにみえましたが、その時に信孝と対立を深め、羽柴秀吉に稲葉良通(一鉄)は従います。
1583年(天正11年)「賤ヶ岳の戦い」
信孝から城下の焼き討ちを受け、柴田勝家方の不破氏の西保城を攻め、新岐阜城主となったのは池田恒興。
池田恒興は、彼が大垣城主の頃から境界線のことで抗争がありましたが、仲介役だった羽柴秀吉から、4万貫の領地が安堵されています。
1584年(天正12年)「小牧・長久手の戦い」この時稲葉良通は70歳にもなりますが、参戦します。
そして武功を挙げています。
しかし、この戦を最後に良通は前線には出ていません。
明智光秀とは考え方が違うというか…。
反りが合わないというか…。
あまり良い関係ではなかったという事が伺えますね。
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