大河ドラマ『麒麟がくる』で、伊藤英明さんが、斎藤高政(義龍)を演じます!
下剋上の代名詞とも言われる父・斎藤道三と息子の義龍は後に戦う事となり、斎藤道三は亡くなります。
父親を殺したのは、息子である義龍ですが、その理由は何だったのか・・・?
さっそく見ていきましょう。
目次
【麒麟がくる】斎藤高政(義龍)役を伊藤英明が演じる!
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『麒麟がくる』で、斎藤高政(義龍)役を、身長183cm長身イケメン俳優の伊藤英明が演じられます。
伊藤英明さんはたくさんのドラマ&映画の作品に出演されていて、受賞歴もある俳優さんです。
その中でも印象的なのは、『海猿』じゃないですか!?
って、個人的に大ファンでドラマも映画も何度も見ましたけど、何度見ても面白いですし、ムキムキマッチョな肉体美がたまらなくカッコイイ!
この時は、見た目ワイルドで性格オチャメみたいな、明るくて情に熱い好青年。
イメージにどハマリする演技でしたよね。
それでもやっぱり、外せないのが『悪の教典』。
これは、サイコキラーっていう裏の顔を持つ教師の役。
めちゃくちゃ恐ろしかったですね。
実はこんな人なのでは!?と思うほど見事!
こんなにも対象的な役を演じることができる俳優さんなんだぁ〜。「すごいっ!」っという印象的でした。
演技派俳優として有名ですよね。
今回大河ドラマでは、斎藤義龍役を演じられるので、斎藤義龍の心の微妙な動き、葛藤など、難しい部分もありそうですが、演技の幅のある俳優さんなので、伊藤英明さん独特の表現で演じてくれそうで楽しみです。
斎藤高政(義龍)とは
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斎藤義龍(高政)は、1527年(大永七年)に誕生しました。
父は斎藤道三、母は深芳野(みよしの)です。
弟が数人います。
幼名は「豊太丸」。
生まれた場所は、美濃国(現在=岐阜県)とされています。
1536年(天文五年)に元服を済ませ「新九郎」と名乗ります。
その後、父・斎藤道三が隠居し、美濃守護代・斎藤氏の家督を継ぎ、稲葉山城(現在=岐阜城)の城主となりました。
家督を譲り受けた時は、はっきりしていないのか史料によって、1548年とか1554年など…書いていたりします。
それに、もっと言うと斎藤道三の隠居の事実についても諸説あって、実は隠居していなかった。とか…。
はっきりしていないところが多い分、色々な可能性も考えられますよね。
その他、幼少期のことは殆ど不明でわかりません。
なので斎藤義龍のことを書くとすると、成長後のことになります。
斎藤義龍の妻は、近江の方(おうみのかた)。
(近江の方 → 浅井久政の子ども)です。
子どもには、斎藤龍興(さいとうたつおき)がいます。
斎藤龍興は1548年頃、誕生。とされていますが、母親については諸説あり、はっきりとはわかっていません。
なので、妻は複数いたの?
とかっていうのも??なのです。
1556年「長良川の戦い」が起こります。
この時、長良川にて、父・斎藤道三と戦い、父を倒します。
この戦いでは、旧土岐氏が斎藤義龍に協力しています。
斎藤道三には、織田信長が尾張国から出陣したそうですが、間に合わず…。
それでも、ちょこっとだけ斎藤義龍は織田信長と戦ったとされています。
でも、すぐに撤退したとか…。
あの有名な織田信長がですよっ!信長がすぐに撤退って何か凄くないですか!?
ちなみにこの時期に斎藤道三に味方した明智氏なども斎藤義龍側の力で攻め滅ぼしたそうです。
結構、凄腕の武将だったようですね。
その後も、織田信長と斎藤義龍は争い続けます。
時代は、大戦国時代。
室町時代の後半の頃です。
斎藤義龍は、当時の室町幕府の将軍だった足利義輝に、これまでの功績が認められ、どんどん出世していきます。
そして1559年、「相伴衆」に任命され、「戦国大名」として地位を確立します。
(相伴衆(しょうばんしゅう)→室町幕府における役職的な身分の一つ。)
しかし斎藤義龍は、1561年5月11日、35歳で急死します。
家督については、当時14歳だった斎藤龍興が跡を継ぎました。
斎藤義龍が父・道三を殺した理由
斎藤義龍は、戦国時代に活躍した人物の一人で、とても魅力的な武将なので好きな人も多いのでは。と、思います。
でも調べると、父・斎藤道三を倒した人物とか殺した人物とか・・・そういった内容が、特に有名なのか目立ちます。
親子なのに?
親子なのにです。
いや、親子だから…。かもしれません。
その理由は、斎藤義龍の出生についてある憶測が囁かれていたことから始まります。
そのことから、「だから自分より弟の方がいいんだ…。」となるわけです。(想像です。)
母・芳野(みよしの)は頼芸の愛妾で、道三に下げ渡された時にはすでにお腹に義龍がいて、ほどなくして生まれた。というわけです。
つまり、頼芸の子ではないかという疑惑が生まれたのです。
で、そのことから義龍が道三を討ったのは、実の父を追放したことを恨んでいたのでは?ということが浮かび上がってきます。
道三もまた、義龍が自分の子じゃないから憎んでいた。とか、弟たちの方を溺愛していた。とか…。
色々言われています。
実際、道三は斎藤義龍のことを「あいつは愚か者だ」とけなしていて、弟たちのことを「利口」と褒めていたそうです。
なので、自然と弟たちも「次の家督はオレたち?」って思うようになり、態度もだんだん大きくなって、兄・義龍を馬鹿にするようになっていきました。
しかも、道三は美濃を奪取したのに内政に力を入れておらず、家中で不満が溜まり始め…。
このままでは「自分が排除されるかも…。そうしたら、美濃自体また混乱に陥いるかもしれない…。」
そう義龍は思い、決断を下すのです。
1555年(弘治元)、義龍は重臣たちと弟たちを、だます計画を立てます。
「自分は病気で死を待つのみなので、会って一言申し上げたい」と、弟たちを居城の稲葉山城に呼び出しました。
そして、城に来た弟たちに酒を呑ませ、酔ったところを家臣たちが殺害。
この報せを聞いた道三は、危機を感じ逃亡。別の城へ移ります。
1556年「長良川の戦い」。
(それぞれが率いる軍が、長良川を挟んで対峠する位置だったので、「長良川の戦い」と呼ばれます。)
義龍軍17,500人。
道三軍は2,700人余り。
両者の兵の数には、圧倒的な差がありました。
なぜこんなにも人数が桁外れに違うのか、それは道三の行った国盗りの経緯にあります。
これだけの兵力に差があっては、さすがの道三も勝つ見込みはゼロ…。
もみあう中、道三は首を討たれ、義龍の勝利となりました。
道三と斎藤義龍が対立したのは事実としても、やはり殺した理由については、信憑性に乏しいというのが本当のところの様ですね。
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