大河ドラマ『いだてん』に登場する可児徳(かに いさお)について紹介していきますが、可児は努力家で、スポーツ & 女子体育に尽力した実在の人物です!
日本のスポーツ会といったら嘉納治五郎を思い浮かべる方も多いですよね。
ドラマではその嘉納治五郎は可児徳の上司にあたります。
二人の関係性はユニークで、豪快な嘉納に対して、とても真面目で冷静な可児徳。
ちょっぴり嘉納に押され気味?!な感じも否めませんが、困り果てている…。というわけでなく、嘉納治五郎のことをよくわかっている感じもします。
テンションの高い嘉納治五郎と、困り果てた演技でやりとりする可児徳。
二人の掛け合いや対照的な演技が楽しいので、より一層面白くなりますよね。
真面目なシーンもあるのですが、めちゃくちゃなことを言われていたりして、反応が面白くて二人は名コンビ!といったところ。
可児徳は、日本の中間管理職代表みたいで共感さえ感じます。
金栗四三とは教師と学生という関係ですが、実際のところのエピソードは残っていません。
実在した可児徳を、脚本家の宮藤官九郎さんはどう演出されるのか。
可児徳役の古館寛治さんがどう演じるのか。
演技や演出に注目したいところですね!
目次
可児徳(かにいさお)役の古舘寛治ってどんな人?
画像引用元:http://zacco.co.jp/news/11/
さて、今回の大河ドラマ『いだてん』に可児徳(かにいさお)という人物が出てきます。
この可児徳は、よく登場する人物なので、名前を聞いたら『かに?』と、いう名字がまず思い浮かぶと思います。
でも、こう文章の合間に名前がでてきても、可児徳(かにいさお)を読むのは難易度高いですよね。(笑)
今回、大河ドラマ『いだてん』で可児徳を役を演じるのは、古舘寛治(ふるたちかんじ)さんです。
古舘寛治さんは大河ドラマは初出演ですが、NHKでは、連続テレビ小説『あまちゃん』や『ごちそうさん』などに出演されています。
古舘寛治さんってどんな人?と思われた方もいるかと思いますので、少し紹介していきたいと思いますっ!
古館寛治さんは、大阪府出身の俳優さんです。
俳優業に興味を持つきっかけとなったのは「ロバート・デ・ニーロ」!なんだそうですよ。
特に「ディア・ハンター」という映画は人間模様が面白かったそうです。
で、18歳で俳優を目指して上京したというわけです。
都会に出てみると、ごみごみしていて、ずっとここで…。と、考えると急に嫌になって、別の場所で…。と、考えた結果選んだ場所は、
ニューヨーク!
カッコいいー!
演技を学ぶ為、ニューヨークに留学すると、「ロバート・デ・ニーロ」が経営する「ノブ」(松久信之さん)という寿司バーでバイト。
アル・パチーノとかロビン・ウィリアムズとか、当時のハリウッドセレブたちを見たそうです。
俳優を目指す18歳の若者には興奮したでしょうね。
って、バイト先ひとつとっても、飛躍する人ってのは何かが違いますよねー。
そしてその後→劇団「青年団」。
そんな中、1994年山口智子さん主演ドラマ『29歳のクリスマス』を観て、日本でもこんなに面白いドラマが作れるのか。と、帰国を決意。
帰国後はしばらくフリーで俳優をしていましたが、2001年33歳で劇団「青年団」に加入。
看板役者として活躍。
テレビに出ていなかったので、あまり名前は知られていないかもしれませんが、2007年 英会話スクール「NOVA」のCMに出演されているんですよ。
このCMに出てから、街中で「NOVAのタケちゃんだ!」と言われるほどの有名人に!
そしてNHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」にも出演。
そんな古舘寛治さんの特技や趣味が、
・特技→英語&インラインスケート。
・趣味→ブルースハープ&水泳。
なのだそうです。
可児徳は、大変努力家で、スポーツ&女子体育に尽力した人物で、嘉納を信頼しながらも、締めるところはきっちり抑えて締める!
という役柄なので、特技と趣味が、英語とインラインスケート、ブルースハープに水泳!といった古館寛治さんは可児徳役に実に合っていると思いますね。
真面目なところ&コミカルなところを併せ持った古館寛治さんにしかできない役ではないかと思うほど。
体現するのがとても上手い古館寛治さんなら、時代背景や色々な変化や立場の違いから沸き上がる感情なんかもリアルに演技されるのではないでしょうか。
いだてんで独特な雰囲気の可児徳とは?
画像引用元:https://www.gifu-np.co.jp/news/20190109/20190109-104274.html
可児徳は、実在する同姓同名の人物です。
金栗四三が通う東京高等師範学校の助教授で、嘉納治五郎の下、大日本体育協会を立ち上げ、オリンピック初参加の準備に奔走した方です。
では、可児徳がどんな人物だったのか、簡単にご紹介したいと思います。
明治7年11月6日、可児徳は岐阜県恵那郡苗木町で誕生しました。
苗木藩士の家柄でした。
斐太郡尋常小学校を卒業。
そして、体操練習所(日本体育会体操学校)に入学し、普通体操、兵式体操の免許を取得。
明治30年7月、体操練習所を卒業。
同年10月、群馬県尋常中学校の教授となります!
そう、ここで可児徳は晴れて教育者となりました!
でも、こんなところで留まっているような人ではなく、上を目指して更に努力し続けます!
教員となってからの可児徳
明治31年6月、生理科の免許を取得。
同年10月、沖縄県尋常師範学校の助教授になります。
明治32年6月、東京高等師範学校に体操専修科が開設に伴い、助教授として招かれています。
そして明治32年には、東京高等師範学校が体育&スポーツに力を入れることが決まり、助教授として誘われる事となりました。
『ドイツ式の体育教育が優れている!』そう感じた可児徳は、教員の仕事をしながらドイツ語の勉強の為学校にも通い、ドイツ体育の研究に勤しみました。
で、この頃の日本の体育教育は混迷していて、
・教育のための体操か。
・軍隊式の体操か。
と意見が対立していました。
対立を簡単に言うと「普通体操」VS「スウェーデン体操」どっちを採用するの?!
っていうことです。
スウェーデン体操・・?確か永井道明・・・ですね。。
ちなみに可児徳は普通体操を推してました。
で、これを統一させる為に、文部省は調査委員会を設けることにしたのです。
そして可児徳はその一員に選ばれたのです!
でも、簡単にはいかず、多くの問題があり体操統合には至りませんでしたが、昭和38年12月、文部省は姫路中学校長の永井道明を海外留学派遣させ、体操統合を機に兵式体操(陸軍省の支配下にあたる)を単なる体操として文部省の支配下に置きました。
そこには、陸軍省を排除したいという狙いがあったのです。
この動きを察知した陸軍省。
兵式体操を軍人による指導教師は不要とし、兵式体操統一案を掲げ文部省に圧力をかけました。
可児徳は調査委員に選出されていましたが、この時代の流れや権力主導権争いもあり、統合はできませんでした。
永井道明が帰国すると、第2回調査委員に可児徳は選ばれず、東京高等師範学校で助教授として10年ほど勤めていましたが、結局、永井道明が教授として迎えられ可児徳は部下となりました。
本場でスウェーデン体操を学んできた永井道明は、軍隊にもスウェーデン体操を支持するように説得しています。
スウェーデン体操が中心へ
大正2年、日本初「学校体操教授要目」制定。
結局、体育授業はスウェーデン体操が中心となったのです。
さて、東京高等師範学校には徒歩部があり、可児徳は部長でした。
そんな時、金栗四三が入部してきます。
才能を伸ばしていく金栗ですが、可児徳も金栗を指導した一人ということになります。
東京高等師範学校の校長・嘉納治五郎が、明治42年アジア初のIOC委員に選任されます。
しかし、まだスポーツへの理解がなかったので、なかなか政府は協力してくれませんでした。
嘉納治五郎は、
・大日本体育協会の設立。
・日本オリンピック委員会の設置。
そういった事を行い、オリンピックへ向けて準備を進めました。
可児徳は、永井道明と嘉納治五郎をサポート。
日本のオリンピック参加に大きく貢献しました。
一方で、ドイツ留学を夢みていた可児徳は、ドイツ式のスポーツに魅力を感じていて、ドイツ語の勉強も継続していました。
そんな頃、大正4には念願の留学のチャンスが到来!
ドイツ留学は許可が下りたのですが、第一次世界大戦の影響でアメリカ留学になってしまいました。
アメリカでは、体育の研究を行い、帰国時、ドイツ留学を希望します。
留学延長を日本政府に願いでると、許可はされましたが、第一次世界大戦の影響でヨーロッパの状況は悪化しており、文部省から禁止の電報が届いてしまいます。
そうして大正6年11月、可児徳はそのまま帰国する事になってしまいました。
帰国してからの可児徳は・・・
大正7年4月、念願の教授に昇進。
しかし、永井道明は可児徳が学んできたスポーツ学を受け入れることはなく、学校ではスウェーデン体操が中心でした。
アメリカで学んだスポーツ教育ができず、可児徳と嘉納治五郎のスポーツ派は永井道明と対立し、スポーツ派が勝つと同時に、永井道明は東京高等師範学校から排除され、スポーツが取り入れられるようになりました。
大正10年9月、東京高等師範学校の教授を退官。
退官後も講師して残りました。
大正12年4月、国華高等女子学校を創設。
理事長兼校長に就任。
東京高等師範学校の講師を辞め、女子体育の普及に注力。
・体育界の体操学校の副校長。
・会長事務取締役などの要職。
…。を務め、戦後も国華高等女学校の校長として女子体育の発展に尽力しました。
ところで、日本初の体育教師と呼ばれる人物で、坪井玄道がいますが、可児徳はこの坪井と日本に初めてドッジボールを紹介する!という偉業もなし得ています!!!
当時は“円形デッドボール”と呼ばれるあそびで、手軽さと面白さが子どもたちのハートをキャッチ!
急速に普及することになりました。
後に、大正6年頃東京女子高等師範学校の教授を務める永井道明が、初めて四角のコートでのドッジボールを指導する事となったのです。
永井と可児は、やっぱりどこかで繋がりがあるんですね・・・
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