2019年大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』がいよいよ始まります。
主人公は、
・オリンピックに初参加した男→金栗四三。
・オリンピックを呼んだ男→田畑政治。
の二人です。
そして、その主役の金栗四三を支える妻の春野スヤ役を演じるのが綾瀬はるかさん!
春野スヤさんってどんな奥様立ったのでしょうね。
見ていきたいと思います。
目次
綾瀬はるか6年ぶりの大河ドラマ出演!
画像引用元:https://www.cinematoday.jp/news/N0104746
今回、【いだてん】で、金栗四三を支える妻の春野スヤ役で、綾瀬はるかさんが登場します!
春野スヤは実在した人物で、夫のマラソン人生を支え続けた女性です。
優しくて控えめでですが、内に秘めた情熱があって、心の強さや頑固さも合わせもった、ホントにステキな女性です。
この役は可愛いだけでない凛とした雰囲気もある綾瀬はるかさんにホントぴったりですね!
さて、人気女優の綾瀬はるかさんですは、2000年ホリプロタレントスカウトキャラバンで審査員特別賞を受賞し芸能界デビュー!
テレビドラマ、映画、CM、…。と数多く出演され、主演作品も多いので今やベテラン女優の仲間入りになったといっても過言ではないと思います。
2013年、2015年にはNHK紅白歌合戦の紅組司会を務めるなど、活躍の幅も広がっています。
そして人気があるのが伺えるのが、「恋人にしたい女性有名人ランキング!!」。
オリコン調査で5回も1位を獲得しているんですよねー!
(2009年、2011年、2014年、2015年、2016年)
確かに女性から見てもステキですからね~。
記憶に新しいのは、やはり2013年の大河ドラマ『八重の桜』の主人公の新島八重を思い出す人は多いのではないでしょうか。
最新式のスペンサー銃を手に新政府軍と抗戦する姿はカッコよかったですよね~。
この時の大河ドラマから早6年!
綾瀬さんは、
「宮藤官九郎さんが脚本ことでワクワクしています。
初めて共演する俳優やスタッフの皆様、慣れ親しんだスタッフの方も一緒だということで、撮影が今から楽しみでなりません。」
と、コメント。
この春野スヤ役を綾瀬はるかさんの雰囲気もいれつつ、どのように演じるのか楽しみですね。
金四三と春野スヤの出会い
二人が出会ったのは、金栗四三が第6回ベルリンオリンピックに向け東京高等師範学校に復学し、学びながらマラソンのトレーニングや後輩の始動を本格的に始めていた頃…。
親戚関係にあった池部幾江から、「夫に先立たれ、跡取りもいない…。」と、いうことで金栗家に四三を養子に迎えたい。と申し込みがありました。
しかし四三の頭の中は、次のベルリンオリンピックでいっぱい。
・練習に支障がなければ問題はない。
・練習する為、東京に残ることが条件。
それでオッケーだったら養子縁組を受け入れます。と答えます。
じゃあ、「ついでに嫁を探して結婚させよう!」と、探した女性が春野スヤでした。
昔はお見合いが多かったですし、世話好きのおばちゃんが、『この人だったらいいんじゃない!』的な感覚で探し当てたのかどうかは解りませんが、とにかく二人の出会いはお見合いでした。
ちなみに大河ドラマ『いだてん』では、病気がちな四三の父が診てもらっていた医者(春野医師)の娘で、2人は若い頃から知り合いだった。という設定。
実兄の金栗実次もスヤを気に入っていたので、すぐにでも見合いを!
とノリノリでしたが、四三はマラソン一筋!
師範学校の学生の身では…。と、すぐにお見合いすることはできない。と、断りました。
1914年(大正3年)3月 師範学校卒業。
東京高等師範学校研究科へ進学。
東京でマラソン一筋の道を選択したのです。
そして卒業式の翌日、故郷の熊本に帰る約束通り、スヤとお見合いをしました。
四三22歳、スヤ21歳の頃です。
スヤは四三のマラソンにかける熱い思いを理解し、見合いでそのことを語ったそうです。
マラソンに対する情熱を理解してくれたのがよかったのかはわかりませんが、スヤは四三との結婚を即決!
翌日に祝言(結婚式)を挙げたのですー!!
もしかしたら一目惚れをしたのかもしれませんね。
中央に座っているのが池部幾江。後列左からスヤ・スヤの弟・四三 引用元:金栗四三の生涯
そして結婚してから5日後、スヤを熊本に残し単身東京へ戻り、マラソンのトレーニングを開始しました。
四三の名字は、金栗から池部に戸籍上は変わっていましたが、それ以降も『金栗四三』のままで通していました。
四三の家は貧しかったですが、池部家は熊本県小田村の大地主。
働かなくても食べていけるほどの資産家でした。
養子 & 結婚は、マラソン人生を送る上でかなり好転した出来事だったのではないでしょうか。
二人はお見合いで出会いましたが、かなりドラマチックな出会だったようですね。
金栗四三がマラソンに夢を見続けられたのはスヤのおかげ?
さて、お見合いした翌日に祝言を上げ、すぐに東京と熊本で離れて暮らす別居生活がスタートします。
四三は、オリンピック出場 & シューズの開発に全精力を傾けました。
ひたすら走り続ける四三を陰ながら支えながら、スヤも一緒にマラソンへの夢を追いかけたのです。
1916年ベルリンオリンピックは第一次世界大戦で中止。
四三は次のアントワープオリンピックに気持ちを切り替えます。
そして、アントワープオリンピックへの出場が決定。
出発直前スヤが準備を手伝おうと上京すると四三に「故郷も君のこともすべて忘れて、祖国のために走ろうと思っている。ジャマをしないでくれ。」と言って追い返されました。
悪気がないにしても酷い言い方ですよねぇ~。
でも、スヤは気にしていません。
それでいいのです。
スヤの夢は四三と同じオリンピック!
そして、もっというなら四三が走り続けることがスヤの真意であり思いでもあったのです。
四三にとって、こんなに理解のあるいい妻は他にいないですよね。
アントワープオリンピックの成績は16位で終わり帰国。
スヤを東京へ呼び、東京女子師範学校に勤務。
そうして5年間の別居生活は終わり、同居生活がスタートしました。
1924年のオリンピック・パリ大会では途中棄権。
四三は、このオリンピックを最後に引退する事にしました。
その後四三は、若い選手を指導しながら、マラソンに関わっていく生活をしていました。
そうして昭和5年、いつも四三の味方だった兄の実次が死去し、四三はスヤと熊本の池部家へ帰って幾江と一緒に暮らし始めました。
熊本に帰った四三に、全国各地の学校から校長就任の要請がありました。
しかし四三は、ずっと支援を続けてくれた幾江の側で親孝行しようと考えていたので、熊本で一生を過ごすと決めていたのでした。
そんな時、知人に梨園の経営を勧められ、四三はその気になります。
もちろん妻であるスヤに相談しました。
すると、スヤは「梨園の経営とは何事ですか。あなたはマラソン一筋に生きることが自分の人生ではなかったのですか。」と、四三の意見には賛成せず、逆に叱り飛ばし、マラソンへの思いを逆にぶつけられたそうです。
そうしてマラソンへの情熱を再び呼び起こされた四三は、知人の勧めを断り、熊本でマラソン & 陸上競技の普及 & 後進の育成に全精力を傾けたのでした。
マラソンランナー金栗四三にとって、春野スヤは妻であるとともに、ともに夢見る伴走者でもあったのです。
そうして迎えた1940年、幻の東京オリンピック開催が決まり、嘉納治五郎に上京を要請されました。
もちろんスヤは笑顔で四三を送り出します。
引用元:金栗四三の生涯
四三の子供を6人産み、育てながら自分の夢も応援してくれたスヤに対して、四三はその後周囲にこう話していたそうです。
『スヤには本当に感謝している。子供達を立派に育て上げてくれたのはスヤだ。離れていても辛い時にも心の支えになり続けてくれた。これからは、一緒に楽しい時間を過ごしたい』
金栗四三はスヤが妻だったからこそ、脇目もふらず、マラソンに集中することが出来た人生を送れたのでしょうね。