大河ドラマ【西郷どん】主人公西郷隆盛(吉之助)の家系図と、西郷隆盛が尊敬する島津斉彬との出会い、そして共に歩んだ人生の少年~青年時代までを、ギュッと凝縮して紹介していきたいと思います。

 

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目次

西郷家家系図

 

西郷家家系図

 

西郷家の家系図は、上記の通りです。

吉之助(隆盛)は3度結婚しています。

 

てか、その時代のバツ3ってなかなかなもんでしょ。。。

と思ったりもするんですけどね。

 

ただ、吉之助(隆盛)の生き方がこういった結婚状態になってしまったといっても過言ではありません。

だって、決して浮気もしてないですし、揉めて別れた訳でもないですからね。

 

その吉之助(隆盛)の人生を大きく変えたのが『島津斉彬』です。

さて、その島津斉彬との出会いについてギュッと凝縮して紹介したいと思います。

 

西郷隆盛 幼少から青年時代

 

 

西郷が生まれる前の日本

 

西郷隆盛が生まれたのは19世紀初め。

この頃から江戸幕府の支配は、徐々に衰退していました。

 

支出は増加し、幕府の財政難が慢性化していましたし、貨幣経済が農村まで浸透し、商人層が勢力を得てきたのです。

 

外交も高まりつつありました。

イギリス軍艦が長崎港に侵入した『フェートン号事件』や『モリソン号事件』などが発生。

 

幕府も強硬姿勢を出しつつも、アヘン戦争で清(中国)がイギリスに大敗したのを見て、対応を軟化させていきます。

 

こうした事もあり、ペリー来航に始まる幕末の動乱へと繋がっていくのでした。

 

西郷隆盛 生まれる

 

西郷隆盛は、文政10(1827)年12月7日、鹿児島城下の下加治屋町に父・吉兵衛隆盛、母・政子の長男として生まれました。

 

幼名は小吉

天保12(1841)年頃より、吉之助隆永を名乗ります。

 

西郷家は『御小姓与』と呼ばれるもので、これは『城下士』の下から二番目という下級武士の身分でした。

 

父の吉兵衛は、小姓組勘定方小頭を勤めていましたが、財政に詳しかったのか、島津一門の赤山家の会計係も兼ねています。

 

一見、収入も高そうですが、当時の下級武士というのは、全体的に生活は苦しい時代でした。

 

更に、西郷家は男子4人、女子3人の7人家族だった事もあり、かなり貧しかったそうです。

 

1枚の布団を兄弟で引っ張り合っていたという逸話もたくさん残っています。

 

薩摩の郷中教育

 

薩摩には独特の『郷中教育』というものがありました。

薩摩藩というのは、武士の居住区をいくつかの『』に分けていました。

 

妻帯者      ・・・長老(おせんし)

15~25歳あたり・・・『二才(にせ)』

11~15歳あたり・・・『稚児(おせちご)

6~10歳あたり ・・・『小稚児(こちご)

という4つのグループに分類されていました。

それは、各郷の年長組が年少組を指導するという、集団自治教育というものです。

 

幼少期から10数年に渡って、同じ集団の中で過ごすのですから、郷中の結束は非情に強くなります。

 

それに、郷中同志の競争意識も強かったはずです。

これにより、薩摩の硬い鉄則と競争心を持つ、士風が培われていったのでした。

 

西郷 青年時代

 

西郷も『郷中教育』の中で育ち、20歳の時に下加治屋町の二才に就任。

小稚児の頃より漢籍を学び、藩校の造士館にて、読み・書きを学びました。

 

大久保利通の父である大久保利世や、有馬一郎らの教えを得るなど、下級武士とはいえども、しっかりとした教育を受けています。

 

また、郷中教育の中には武術の訓練も含まれています。

西郷も剣術修行に力を入れていました。

 

しかし13歳の時、造士館から帰る途中に同輩と喧嘩になり、相手の刀の鞘が割れて右肘を負傷したのです。

(これには、諸説ありますが・・・^^; )

 

それ以降、右腕が十分に伸びなくなったので、剣を諦め、学問に注力するようになります。

 

そんなハンデのある西郷でしたが、のちに『二才』のリーダー格である『二才頭』に選ばれたりした事から、いかに若い頃から同輩や後輩の人望を得ていたかが解りますね。

 

お由羅騒動始まる

 

西郷が22歳の時、藩主・島津斉興の継嗣をめぐって、一大御家騒動が起こりました。

それが『お由羅騒動』です。

 

斉興の正妻の子・斉彬と、側室(愛妾)のお由羅の子・久光という2人の後継候補がいました。

 

斉興は、曽祖父・重豪に似たタイプの斉彬に対して、家督を譲る気になれません。

そして、久光を後継に推す事により、斉彬を推す一派と激しく対立する事になったのです。

 

当初、密貿易に絡んだ罪で広郷を失脚させるなどし、斉彬派が優勢だとされていましたが、その後、お由羅や筆頭家老の島津久徳らを排撃しようとしたため、斉興が激怒します。

 

そうして斉興の命により、斉彬派に激しい弾圧が加えられます。

切腹・遠島・謹慎など、50名以上に及ぶ処刑者を出す事となったのです。

 

赤山靱負は、切腹処刑となり、大久保利通の父・利世は喜界島に遠島にされる事となります。

 

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西郷隆盛(吉之助)と島津斉彬の出会い

 

西郷隆盛と島津斉彬の出会い

 

お由羅騒動が下火になり、更に阿部正弘の尽力もあって、嘉永4(1851)年、43歳にしてついに斉彬が藩主となります。

 

先見性に富んだ斉彬は、ガラス工場、紡績工場などの洋式産業の工場軍を建設します。

そして、大型船製造の禁を解き、昌平丸をはじめ、軍艦の建造を開設しました。

 

西郷はその頃、スガと結婚して世帯を持ちます。

しかし、祖父の龍右衛門、父・吉兵衛、母・政子も後を追う様に、次々と亡くなってしまいます。

 

後に西郷は、この頃について『一生の中で、最も悲しかった年』と振り返っています。

 

安政元(1854)年、西郷は中御小姓となり、定御伴(じょうおとも)、江戸詰めを命じられ、斉彬の参勤に従って江戸に上がる事になります。

 

御伴(おとも)の途中、国境にて休憩を取った際に、西郷と斉彬は対面を果たしたそうです。

 

そして江戸に入った斉彬は、西郷を庭方に任命します。

これは、藩主の秘書のような役職です。

 

そうして斉彬の側で右腕として国事に尽くしていく事になるのです。

 

庭方役となった西郷

 

庭方役となった事で、西郷は役目を通して他藩の名士たちと交流する機会を得ます。

特に傾倒したのが、水戸学の大家である藤田東湖でした。

 

東湖と水戸学に心酔した西郷は、たびたび彼を訪ねて教えを受けるようになります。

 

更に水戸藩の原田八兵衛や、肥後藩士・津田山三郎、柳川藩士の池辺藤左衛門といった名士達と、親交を深めていきました。

 

しかし、西郷が慕った藤田東湖は安政2(1855)年、江戸大地震にて圧死します。

 

悲しみにくれた西郷でしたが、その2ヶ月後に、無二の同志となる越前の橋本左内と出会います。

 

橋本左内とは、『時期将軍継嗣問題』において、協力し合う事になるのです。

 

決着したお由羅騒動

 

さて、下火となってはいたお由羅騒動でしたが、斉彬の嫡子・虎寿丸が病死し、斉彬も病気になってしまっていた事もあって、世子の死はお由羅たちの呪いによるものだと、西郷らは信じたのです。

 

それから西郷らは、お由羅たちを一掃しようとしますが、斉彬の叱責により、お由羅たちの暗殺計画は取りやめとなります。

 

更に斉彬は、久光の子である忠義を自身の養嗣子とし、新たに生まれた男子・哲丸を忠義の仮養子にする事で、この問題に決着をつけたのでした。

 

一橋慶喜を将軍に

 

安政3(1856)年、篤姫は13代将軍家定の正室となりましたが、家定は病弱だった為、就任後まもなく将軍継嗣問題が持ち上がりました。

 

斉彬は、老中の阿部正弘や越前藩主の松平慶永ら有力藩主たちと水戸の徳川斉昭の第7子で、英明と評判の一橋慶喜を次の将軍にしようとします。

 

この一派は『一橋派』と呼ばれました。

対する『南紀派』と呼ばれる一派は、彦根藩主の井伊直弼がリーダー格となっていました。

 

南紀派は、家定と血筋が近い紀州徳川家の藩主・慶福(のちに家茂)を将軍にする事を計画していました。

 

斉彬は西郷に、一橋慶喜擁立の工作を任せます。

そうして西郷は、橋本左内と連携するのです。

 

それから西郷らは、朝廷工作のために京に上がり、近衛家に出入りしていた僧・月照と出会います。

 

西郷は、月照の人柄に尊敬を憶え、彼を心から慕うようになったそうです。

 

しかし、幕府と米駐日総領事のハリスとの間で開国交渉が行われていました。

 

老中の堀田正睦は、開国の許可と慶喜の将軍継嗣の協力を求めて上洛しますが、孝明天皇に開国を拒否され、堀田は失脚します。

 

そうして南紀派の井伊直弼が大老となるのです。

井伊直弼は、日米修好通商条約の締結を強行し、次期将軍を紀州家の慶福と定めたのです。

 

こうして一橋派の敗北が決定してしまったのでした。

 

斉彬の死

 

大老となった井伊直弼は、条約調印を非難する慶喜擁立派の徳川斉昭を謹慎、尾張の徳川慶勝、越前の松平慶永らを隠居、一橋慶喜らを登城停止処分としました。

 

その少し前、慶喜擁立に失敗した西郷は、橋本左内から島津斉彬の手紙を受取り、京で情勢調査をしたのち鹿児島に帰国しました。

 

事態を打開するには強引な手段が必要と感じた斉彬は、兵を率いての上洛を計画します。

 

京に上がり、情報収集を命じられた西郷は、京で有志らと会い、国元に率兵上洛を促す手紙を送ります。

 

ついに薩摩が動くと思われた矢先、突然、不幸な知らせが入ります。

それは斉彬の急死です。

 

斉彬は、天保山で出兵の為の練兵を観覧している最中に倒れたのです。

安政5(1858)年に、島津斉彬は帰らぬ人となってしまいました。

 

死因はコレラではないかとも言われていますが、詳しい原因は解っていません。

 

この知らせで西郷は、殉死しようとしますが、『斉彬の遺志を果たすべき』と月照に説得されます。

 

そうして斉彬の分まで国事に尽くす事を決意した西郷だったのです。

 


西郷と斉彬の運命の出会いにより、西郷は日本国をも動かす人材となっていきます。

 

斉彬に見出された事は、本当に偶然だったのか・・・?

いや、運命だったんだろうなぁと強く思います。。。

 

 

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