大河ドラマ『麒麟がくる』で、藤吉郎(豊臣秀吉)の母・なか(大政所(おおまんどころ)が登場します。
なか(大政所)は、戦国時代〜安土桃山時代という、激動の時代を生き抜いた女性です。
さて、「なか」とはどのような人物なのでしょう?
さっそく見ていきましょう。
目次
藤吉郎(秀吉)の母 なか(大政所)とは
なかは、1516年(永正13年)
尾張国愛知郡御器所(ごきそ)村(現在 → 名古屋市昭和区)で生まれたとされています。
父は、美濃国で鍛冶屋を営み&有力な小土豪でもあった・関兼定(せきのかねさだ)と、されていますが、その真相は?です。
身分が低く、史料がないので、家族関係などはっきりとはわかりませんが、妹 o r従妹が加藤清正の母とされています。
初めは、織田家の足軽 or 雇い兵、または農民だった?とも言われています。
木下弥右衛門(織田家の兵)に嫁ぎ、
・1534年(天文3年)日秀尼((にっしゅうに)秀次の母)
・1537年(天文6年)木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)
を産んでいます。
1543年(天文12年)
木下弥右衛門と死別。
その後、竹阿弥(織田家に仕える)と再婚。
竹阿弥の出生について詳しい記録はなく、一説では、戦場で負傷した木下弥右衛門が出家→名前を「竹阿弥」と変えたとも伝えられています。
で、秀吉の弟・豊臣秀長と。妹・朝日姫が、生まれたと言われていますが、実際は、どちらが父なのかはっきりしておらず解りません。
謎多き竹阿弥。
なかは、竹阿弥とは死別。
この頃には豊臣秀吉は出世し、織田家に仕え始めていて、秀吉がなかを引き取りました。
ねね(秀吉正妻)とも実の親子のように仲良しだったそうです。
中国討伐から帰って来た豊臣秀吉は、織田信長が明智光秀に討たれたことに憤怒し、明智光秀の討伐に全力を注ぎ、「山崎の戦い」にて明智光秀を討ち果たします。
光秀は、小栗栖(おぐるす:現在の京都市伏見区)にて殺害されました。
「本能寺の変」で、明智方の手に長浜城が落ちた時、ねね(秀吉の妻)となかは、共に伊吹山の山麓にある「大吉寺」(だいきちじ)へ逃れています。
大吉寺は、織田信長に破却された寺で、当時、かなり寂れていたので、逃げこむにはもってこいの場所。
早めに逃げたこともあって、難を逃れることに成功したのですが、長浜城〜大吉寺までは、現代の道路でいうと16~18km前後なので、車も使わずに、逃げられたなんて、よく考えたらすごいエピソードですよね。
1583年(天正11年)〜1598年(慶長3年)にかけ大坂城を築城。
正室のねねとなかは、一緒に大坂城に移りました。
そののち、豊臣秀吉が関白に就任。
なかは、女性の一番高い位「従一位」を与えられ、大政所(おおまんどころ)と呼ばれるようになり、生活は、大きく変わっていくのでした。
(大政所→関白である人物の母に対し、天皇が贈る尊称の意味)
高位を与えられたといっても、なかは、大和郡山城の秀長を訪ねたり、寺社に参詣…。と、活動的に過ごしていました。
「小牧、長久手の戦い」の後、未だ豊臣家に臣従しない徳川家康を懐柔する為、1586年秀吉の作戦は・・・
・朝日姫(妹)を嫁がせた
・なかも一緒に送り込んだ
それは、関白の母 & 妹を人質として出されては、家康もモタモタできなくなるように考えてのこと。
そして上洛することになるのですが、
・徳川重臣
・本多重次(通称”鬼作左”)
が、なかの滞在する館の周りに放火する用意を整えていたとか。
「殿に何かしたら、母親を焼き殺す」というわけです。
しかし、例えば家康が殺されたとして、岡崎衆が反乱を起こしたとしても、周りの大名に潰されるだけなような気もしますね。
そんなこんなで、約一ヶ月後、無事に大坂城へ戻っています。
1587年(天正15年)
豊臣秀吉の政庁兼邸宅となる「聚楽第(じゅらくてい)」が、京都に完成。
秀吉らは、大政所と聚楽第へ居を移したとされますが、大政所は基本、病気がちだったこともあり、住み慣れた大坂城へと戻っています。
1588年(天正16年)
朝日姫(大政所の娘&家康の正室)は、大政所の見舞いに訪れます。
一度は徳川家康のいる駿河国に帰国したようですが、その後再び大阪城へ戻り、そして聚楽第に住んだとされています。
1590年(天正18年)朝日姫(駿河御前) 病死。
享年47歳。
1591年(天正19年)
息子の豊臣秀長が、大和郡山城にて病死。
大政所は、再び体調を崩しました。
大政所は、
・体調不良
・朝日姫に先立たれる
・秀長に先立たれる
など、不運が続き…。
なか自身もそろそろ自分も…。と、自覚するようになってきたようで、
「私が生きているうちに、墓の支度をしてほしい」と秀吉に頼んでいます。
秀吉は、母の為にお寺の建立を開始。
といっても、
1590年(天正18年)8月には完成していますが、その頃なかは元気になっていて、秀吉は大変喜んでいたそうです。
その後、秀吉が朝鮮出兵を決めた時には、
「せめて大陸に渡るなんて危ないことはしないでおくれ」と懇願したという、親子愛を感じるエピソードが残されています。
そして、秀吉が朝鮮出兵の前線基地の肥前国名護屋(現在の佐賀県唐津市)にいる間、京を預かっていたのは豊臣秀次でした。
大政所の病状は、良くはなかったものの、秀吉に心配かけまいと、最善をつくし危篤のときまで知らせなかったとされています。
秀吉は知らせを聞き急ぎ名護屋を出ましたが、間に合わず…。
1592年(天正20年)
大政所は聚楽第にて死去。
77歳でした。
法名は天瑞院殿。
息子・藤吉郎(秀吉)との仲は?
なかから受ける愛こそが藤吉郎(秀吉)の支えでした。
藤吉郎(秀吉)の心を支えていたことはもちろんですが、藤吉郎(秀吉)を支え続けた豊臣一族の団結力は、なかを中心として育まれたものです。
なかの父は、鍛冶屋を営み有力な小土豪でもあった関弥五郎兼員で、関氏は尾張下郡の小土豪たちと強力なネットワークを結んでいました。
・なかの姉→杉原家利(お寧の養母の父)に嫁いでいる
・妹→加藤清忠(加藤清正の父)に嫁いでいる
・妹→小出氏に嫁いでいる
・妹→青木氏に嫁いでいる
と、いった具合に血脈が広きに渡っていていました。
秀吉が、出世をしていった時、なかの血脈からの親戚たちが秀吉を助けてくれ、親族が秀吉を支え続けてくれたのですが、これは一重に、なかの人柄と尽力が大きいところです。
なかは、秀吉の妻、つまりお嫁さんのお寧とも実の親子のような関係だったと言われているので、これも秀吉の心が安定する一因だと思われます。
なかによる一族の結束があればこそ、家臣団も秀吉に黙ってついてきたのだと思われます。
天下人になるまでずっと秀吉に愛情を注いできた、母・なかの存在があったから内面的に支えられたのです。
なかの愛情がたくさん降り注がれた話をしましたが、秀吉もまた母を愛していました。
実際、マザコンでも有名ですよね。
マザコンだった秀吉は、もちろん大変な孝行者で、母なかを生涯大切にしました。
秀吉は筆まめな人で、母・大政所の体を気遣った手紙を多く書き送ったそうですし、母・大政所が農作業をしたがっていると、人目もはばからず大坂城に田んぼをつくったりしました。
それに、夫・竹阿弥に先立たれたあと、秀吉はなかを引き取り、妻のねねらと一緒に暮らしています。
朝鮮出兵の初年に、なかの危篤の知らせを聞き、秀吉は気絶する程ショックを受けたそうですし…。
常にあった母親からの無償の愛情を失った秀吉は、晩年、心身ともに急激に衰えていき、豊臣家崩壊&破滅への道を辿ることになったようですね。
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