戦国時代の武将は?と聞かれたら織田信長、武田信玄の名前が出てくる方って多いのではないでしょうか。
大河ドラマ『麒麟がくる』に「風林火山」でお馴染の名将・武田信玄が登場します。
当時、最強と言われた武田信玄と織田信長の関係はかなり友好で、お互いに一目を置いていたので争いを避けていたようですが、時代の流れは「長篠の戦い」へと進みます。
両者は本当に敵対したのでしょうか。
では、さっそく見ていきましょう。
目次
織田信長と武田信玄は友好な関係からなぜ敵対した?
当時、最強と言われていた織田信長と武田信玄。
この二人は極力戦闘を避け続け、友好関係を築いていて、一度も対決をすることはありませんでした。
友好であったといわれる織田信長と武田信玄の関係性を見ていきたいと思います。
武田信玄は、甲斐国(現・山梨県)を本拠に関東一帯に勢力を伸ばしていた武将で、「緻密な領地経営力」「戦国最強騎馬軍団」と言われ戦に対しての戦略&隙がないのが魅力の武将でした。
一方、織田信長は真逆の、大胆&斬新な発想を次々と行動に移すのが魅力の武将。
知略&勢いは物凄かったと語り継がれています。
信玄と信長がお互いのことを認識するきっかけとなったのは、1560年(永禄3年)信長 VS 今川義元の「桶狭間の戦い」でした。
今川氏は甲斐国の南方から着々と領土を広げていった武家で、信玄にとっては目の上のたんこぶ的存在でした。
その今川氏を信長が打ち破った事で、信玄の周りに変化が起こります。
徳川家康が今川から独立&信長と同盟を結び、今川への侵攻を開始。
この時点で、信玄は信長を意識する事はなく、徳川家康が最も注意すべき存在でした。
1554年(天文23年)、信玄は
・駿河・遠江を治める→今川義元
・相模を治める→北条氏康
と「甲相駿三国同盟」を結びました。
この、互いの領地を守り友好関係を築きましょう!
という同盟は、婚姻同盟として成立していました。
・義元の娘の嶺松院→信玄の息子の武田義信
・信玄の娘の黄梅院→北条氏康の息子の北条氏政
・北条氏康の娘の早川殿→今川義元の息子の今川氏真
戦国時代は、このように同盟を結び、隣国とは余程の理由がない限り争いをさけようとしていましたが、今川義元が信長に討ち取られ(「桶狭間の戦い」)同盟にひずみが入りました。
義元の跡を引き継いだ今川氏真は、信玄の宿敵上杉謙信との同盟を模索し始めます。
もちろん信玄は激怒。
同盟を破棄。
義元の娘を今川家に送り返し、駿河へと侵攻をし始めた。というわけです。
ちなみに松平家(のち徳川家康)も今川家から独立し、信玄と共同で今川家の領土を攻めています。
つまり、家康との共同作戦は、武田・徳川軍 vs 今川・北条+上杉謙信
ですがその後、信玄と家康との関係が悪化してきます。
信玄と同盟を結び、一緒に今川領土(駿河・遠江)を攻めていた家康は、駿河は武田の領土、遠江は徳川の領土と思っていました。
しかし、この同盟の際のすれ違いが家康と信玄との間に大きな溝を作ってしまうことに…。
というのも、信玄は今川の領土を吸収したいと思っていたので、家臣だった秋山虎繁が、兵を従えて遠江を侵攻していきます。
家康は遠江は自分の領地だと思っていたので、この遠江の侵攻に対し家康は激怒。
信玄は、そんな家康の怒りを知り、虎繁を撤退させることを約束しますが、一度裏切られたと感じた家康の怒りは治まりませんでした。
結果、家康との同盟は破綻。
とうとう家康を敵に回してしまうことになります。
こうして信玄 vs 織田・徳川の連合軍が対峙することになります。
1564年(永禄8年)
足利義昭が幕府再興しようかなぁ〜としているくらいの頃。
信長は謙信と接触を持ち始め、信玄を強く意識したようです。
信長の養女→勝頼(信玄の子)に嫁がせようと働きかけ、信玄も快諾し、両家は婚姻関係を結びましたが、養女が子どもを生むとすぐに亡くなってしまいした。
すると、信長はすぐに信忠(信長の息子)に信玄の娘をめとらせました。
信長は、この関係を崩したくなかったことがよくわかりますね。
信長は、京に上り政権を確立したい!
つまり、信玄は背面の敵。
信玄には絶対に動いてほしくなかったのです。
信長の一方的戦略のようにもみえますが、そうでもなく、
・自国を守りたい
・天下統一を目指していない
といった考えの信玄にとってもこの外交戦略は、決して悪い提案ではなく、合意の上で戦いを避けたのです。
さて、そんな友好関係が続いていた信長と信玄ですが、最終的に敵対した原因は、1572年 (元亀3年)、武田家は延暦寺と足利義昭から救援要請を受け、信玄も信長包囲網に参加します。
これが「三方ヶ原の戦い」のはじまりです。
武田軍が岩村城(信長の領地の一部)を占拠したので、信長 & 信玄の同盟は事実上崩壊。
で、信長もこの戦いに参戦。
…となるのですが、信長は義昭の信長包囲網で、別の戦も進行中…。
信玄の策略&武田軍の勢いは流石で、織田&徳川連合軍は大敗したのです。
対決を避け続けた武田信玄と織田信長。
直接戦うことは一度もなく、決着がついたのは信玄の死後でした。
死を伏せて欲しいと願った信玄
1573年(天正元)
武田信玄は病の為、信濃国伊那の駒場で53歳で亡くなりました。
死の間際まで両国経営のことを考えていたといいます。
もし、死んだことが知られれば、他の戦国大名らが領地侵攻にくることを心配していました。
そこで、信玄は、武田勝頼(信玄の子)に「3年間、喪を秘せ」と遺言したとされています。
勝頼は遺言に従って、自分は当主となり、信玄は隠居扱いにしました。
小田原城主の北条氏政が、信玄が死亡しているという噂を聞き、勝頼へ使者を送っていますが、勝頼は信玄の弟の信廉を影武者に立て、ピンチを乗り切っています。
そして三年後、信玄の死を公表し、菩提寺の恵林寺で葬儀。
通説では、信玄の死後も信玄の存在をちらつかせ、他国からの攻撃を三年の間、避け続けたとされていますが、実は信玄の死は三年かからず、周辺の大名たちに知られていたのです。
実は、北条氏政からの使者が訪れた時、影武者を使い武田側は乗り切ったつもりでしたが、使者は信玄の死を確信し、主君・氏政に報告しています。
で、氏政が→上杉謙信に通報。
謙信は持っていた箸を投げ捨て涙を落とし「惜しい人を亡くしたものよ」とつぶやいたとされています。
織田信長も信玄の死を知っていて、毛利輝元などへの書状のなかで、信玄の死を喜んでいた様子が伝えられています。
信長にとって難敵の死は、願ってもない好機。
徳川家康も信玄の死を聞いて哀悼の意を述べたといわれています。
という事で、結局、武田側は騙せていなかったのです。
知っていながら騙されたふりをしていたということですね。
長篠の戦いとは
織田信長と武田信玄は、直接戦ったことはありませんでしたが、信玄の死後「長篠の戦い」で、織田と武田は戦っています。
将軍足利義昭の企みを退け、信長の勢力は拡大していきます。
すると当然、武田家に対しても厳しい姿勢を向けてきました。
武田信玄の死後、徳川家康に長篠城(現・愛知県)は支配されていましたが、奪還しようと武田勝頼が立ち上がり、戦ったのが長篠の戦いです。
織田&徳川連合軍 およそ30,000人
VS
武田軍 およそ15,000人
当時最強とも言われた騎馬隊(武田軍)
VS
騎馬隊防御の馬防柵(織田軍)+1,000の鉄砲隊3列→3,000人
(火薬を詰めなおす時間を3列にし、補う作戦)
織田軍は、武田軍を撃破。
信長は、天下統一にさらなる躍進を遂げました。
織田信長と武田信玄。
どちらの武将も、
・自国の領土を拡大
・戦さに強い
・先見性もあり
の素晴らしい武将だったことがわかります。
その為、武田信玄は圧倒的強さを誇り、信長も恐れていたとか。
信玄もまた信長のことを気にしていて、友好関係を保とうとしていたのです。
二人は直接は戦っていませんが、天下を取っていたのはもしかしたら武田信玄だったのでは。とも言われています。
信玄がもし生きていたら…。
直接戦っていたのでしょうか。
また違うやり方で乗りきっていったのでしょうか。
見てみたかったような気もしますね。
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