大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公、明智光秀と関わっていた人物に波多野秀治という武将がいます。

 

波多野秀治は、戦国時代〜安土桃山時代の丹波国の大名&波多野氏最後の当主です。

 

赤井直正と波多野秀治は織田信長に従っていたのですが、ある時、赤井直正は信長と対立側に立場が変わります。

波多野秀治は変わらず信長に従っていましたが、明智光秀の丹波攻略を途中で裏切り光秀軍から赤井直正側についています。

それはなぜだったのでしょうか?

 

波多野秀治の中で何があったのか、見ていきたいと思います。

 

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明智光秀と共に豪族討伐へ加わった波多野秀治

 

明智光秀と共に豪族討伐へ加わった波多野秀治

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

波多野秀治の生誕は、不詳ですが、丹波国(現在の兵庫県付近)の有力武家、波多野一族に生まれたことはわかっています。

波多野氏は、丹波国で実力を持つ一族です。

 

父親については諸説あり、波多野元秀とも波多野晴通ともされています。

もっとも言われているのは、波多野 晴通が実父で、晴通の兄・波多野元秀のところに養子となったとされ、養子になったあと、波多野家当主の跡を継ぎました。

 

丹波国では実力もあり、強い一族として知られていた波多野氏ですが、秀治が家督を継承した頃には、

・三好長慶

・松永長頼(松永久秀の弟)

に敗れ、勢いを無くしていました。

 

1560年(永禄3年)

正親町天皇の即位式が催された時、秀治は交渉人として毛利元就に、即位式開催に必要な費用を出させます。

そして上京。

そうして京都の守備を担当する事になります。

 

1566年(永禄9年)

八上城(居城)を奪還。

 

波多野宗長(同族)に、支城の氷上城を守らせるなど、丹波国多紀郡一帯における支配者として地位を確立。

 

丹波国は当時、波多野氏と同じく新興勢力の有力者として黒井城に君臨していた赤井直正を中心とする赤井氏とともに織田信長に服属しました。

 

1568年(永禄11年)

美濃を平定した信長が、足利義昭を擁して上洛。

京都周辺で独立勢力を保っていた各大名家たちは、信長に「服属 or 反抗」の二択を迫られます。

 

赤井氏や波多野氏は、信長への忠誠を誓うことにしました。

服属の証として、波多野秀治は太刀や馬を贈呈し、信長から感謝の書状を受け取っています。

 

光秀の丹波攻略を裏切り、赤井直正側につく

光秀の丹波攻略を裏切り、赤井直正側につく

 

らと主従関係を築いた信長。

しかし京都では、その関係性を揺るがす事態が起こります。

 

1573年(元亀4年)

信長 VS 義昭

 

信長は義昭を京から追放したので、信長派 or 義昭派に分かれ、争うようになります。

この時、赤井直正が足利義昭の目にとまり、幕府再興の助力を求められたのです。

 

1575年(天正3年)

赤井氏は、織田家の支配下から離反し、反信長路線を表明。

 

この頃の信長は、

・畿内の平定事業

・一向一揆衆の討伐

で忙しく、すぐに丹波へ兵を!とはいきませんでしたが、諸勢力との戦いを一段落させると、すぐに赤井氏の討伐に明智光秀を派遣しました。

 

同じ丹波の有力者・赤井氏が織田家に攻められる・・・

波多野は複雑な思いがあったでしょう。

 

しかし、赤井氏に呼応して信長を裏切るなんてことはせずに、織田家従属の姿勢をとり、成り行きを静かに見極めながら、信長が派遣してきた明智光秀の軍勢に加わって、丹波で反信長派の豪族たちの討伐を担当しました。

 

光秀は、まずは丹波の小勢力

・宇津氏

・内藤氏

を撃破し、赤井氏の領内へ…。

そして黒井城を包囲。

 

赤井直正は、出陣先 → 黒井城(本拠)に戻り、防衛体制を敷きました。

戦いは、猛将として知られる赤井直正を擁しても、赤井氏の劣勢は避けられませんでした。

 

そのまま黒井城はすぐに落ちるだろうと噂され、赤井氏は周囲から孤立。

光秀も勝利を確信したであろうその時です。。。

 

波多野秀治が、突如として赤井氏側に寝返り、明智陣営を急襲したのです。

波多野家は丹波守護代(丹波守護・細川家の補佐役)という名家。

 

表向きは信長派を装い、水面下では信長に丹波を乱されないように動いていたのでした。

この裏切りで、不意を突かれた光秀軍は形勢不利となり、撤退を余儀なくされ、第一次黒井城の戦いは、光秀の完敗となってしまいます。

 

で、丹波攻めは一時中断。

光秀は信長が交戦中の本願寺攻めに加わり、黒井城敗戦から2年後、再び信長の命を受け、光秀は丹波攻めに向かいました。

 

そこで光秀は、黒井城より先に裏切り者の波多野秀治の本拠地・八上城(兵庫県)を攻めたのです。

光秀は他の地域も攻略しながら、丹波でも確実に波多野氏の支城を落としていき・・・

 

1578年(天正6年)

赤井直正病死。

 

1579年(天正7年)

波多野&赤井討伐→本格化へ。

 

八上城(波多野氏の本拠)は、明智軍に三里四方を囲まれ、外部との連絡手段を寸断されます。

そして孤立状態になりました。

 

八上城内では籠城戦を強いられていたので、兵糧が枯渇し、城内の人々は雑草、牛馬の死体を食べてしのいでいましたが、それも尽きると餓死者が続出。

事態は深刻となっていきました。

 

秀治は食料を含む物資不足対策として、商人・兵庫屋惣兵衛に対して徳政を免除し、関係強化を図りましたが、苦境は改善できず…。

 

徳政免除の三ケ月後、氷上城(支城)が落城。

ここを守っていた波多野宗長&宗貞親子は自害に追い込まれました。

 

これまで頑なに降伏勧告に応じなかった秀治でしたが、八上城も落城した事で、ついに諦め降伏することになりました。

 

この時、光秀が自分の母を人質として和議を申し入れ、波多野秀治&波多野秀尚兄弟はこれに応じ、城から姿を現したところを捕らえた。と史料に記載がありますが、このことについては虚説の可能性があるということです。

 

実際は、餓死者の続出に耐えかねた家臣らの裏切りによって落城されたのです。

秀治自身は、最後まで玉砕の覚悟を固めていたといわれています。

 

光秀に捕らえられた秀治は、信長の命令で、裏切りの見せしめとし、

・市中引き回される。

・安土に送られて、浄巌院慈恩寺で磔刑に

される。

という酷い最期を迎えました。

 

秀治の辞世は、

よわりける 心の闇に 迷はねば いで物見せん 後の世にこそ

 

弟も同時に処刑され、波多野氏は滅亡。

生誕が不詳なので、享年も不詳です。

 

波多野秀治が信長をなぜ裏切ったのか。

理由、動機、経緯など、色々な観点から推測はされますが、今となっても史料がなく謎のままです。

 

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