大河ドラマ『麒麟がくる』に、洞ケ峠のエピソードで知られる大和国の戦国武将 筒井順慶(つつい じゅんけい)が登場します!

筒井順慶役を演じるのは駿河太郎さん!

 

家臣を大事にし、家臣からの評判もすこぶるよかった明智光秀は、順慶ともいい関係だったとされていますが、順慶は「本能寺の変」が起こる土壇場で、光秀を裏切っています。

なぜ、そのようなことになったのか・・・

早速見ていきたいと思います。

 

 

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目次

筒井順慶とは? 駿河太郎が演じる!

 

筒井順慶とは?

画像引用元:https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=M10-0020

 

筒井順慶役を演じられるのは、俳優&ミュージシャンとして活躍されている駿河太郎さんです。

駿河太郎さんをちょこっとご紹介しますと…。

 

お父様は、あの有名な笑福亭鶴瓶師匠。

そんな駿河太郎さんは、演技力がかなりのもので、出演作品は多数ありますが、出演の度に演技に磨きがかかってきているように感じますね〜。

 

結婚されていて、お子様もいらっしゃるので、人としての深みがでてきたからか、最近はさらにイケメン度がUP↑しているように感じる魅力あふれる俳優さんです。

今回、その駿河太郎さんが大河ドラマで演じられる役は、筒井順慶役。

 

筒井順慶役は、元 大和興福寺の衆徒。

代々大和土着の豪族で、大和を支配下におきたい松永久秀と対立。

と、いった役どころ。

 

では、筒井順慶はどのような人物であったのか、簡単に見ていきましょう。

 

松永久秀より奇襲を受け、そして反撃へ

 

松永久秀より奇襲を受け、そして反撃へ

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

筒井順慶は、1549年(天文18年)筒井順昭(大和国筒井城主)の子として誕生しました。

筒井家は大和興福寺の衆徒です。

 

1550年(天文19年)、父・順昭が27歳の若さで病死。

この時、順慶はまだ2歳。

 

父・順昭は、自分の死後、

・跡は順慶が継ぐこと

・順昭の死を1年秘密にすること

・自分と声の似ていた盲目の黙阿弥という男を影武者として城に置くこと

を、家臣に命じました。

 

そして順昭は他界し、誰にも悟られないよう密かに葬られました。

その後1年間は、黙阿弥を順昭の影武者として城に置いた為、他勢力は順昭が生きていると思い、攻め込んできませんでした。

 

その間に家臣たちは色々な手を打ちます。

そして一年後に順昭の死を発表すると、その手際のよさに他勢力は驚いたといわれています。

 

順慶の後見には、叔父の順政がつきましたが、1564年(永禄7年に)叔父・順政死去。

順慶16歳でした。

 

すると、間髪入れずに松永久秀が襲い掛かり、筒井城(順慶の城)を攻め落としました。

順慶は一族の布施氏を頼り、布施城に匿ってもらいました。

 

順慶 VS 松永は、ここから13年に及ぶ抗争となるのです。

 

1566年(永禄9年)順慶は、三好三人衆と手を結び、筒井城奪還を図ります。

勝ち目はないと思った松永は順慶と和議を結びます。

 

その後、順慶は陽舜坊順慶に改名しています。

翌年、再び順慶 & 三好三人衆 VS 松永 in 奈良。

 

1568年(永禄11年)

織田信長の上洛。

 

信長に真っ先に臣従した松永でしたが、信長が三好三人衆を駆逐するのをそっちのけで、再び筒井城を攻めを開始。

順慶は、松永に筒井城を奪われ、順慶は福住城に退きました。

 

これでかはわかりませんが、信長と松永の仲は険悪となっていきます。

 

順慶はというと、辰市城を新築し、勢力回復に努め、1571年(元亀2年) 順慶は松永 & 三好義継連合軍を破り、筒井城を奪還。

 

それによって、(松永の)信貴山城-多聞山城の連絡が分断され、松永には不利に…。

順慶は、明智光秀を通じ、正式に織田信長に臣従することにしました。

 

翌年、松永の多聞山城を攻略。

順慶は、信長の配下として数々の合戦で武功を立てました。

 

1576年(天正4年)

(信長より)大和守護に任ぜられます。

 

1577年(天正5年)

信貴山城に籠城中の松永を討ち、決着をつけ、摂津の荒木村重攻めに参加しています。

 

明智光秀や織田信長との関係

明智光秀や織田信長との関係

松永久秀と通じていた足利義昭を織田信長が追放したことで、大和における順慶は一段と立場が優位になります。

 

そして松永久秀は、信長への降伏を余儀なくされます。

危機を回避した順慶もまた、信長への服従を表明することになるのです。

 

で、順慶は織田家中で出世していた光秀の与力(実質的には部下)となり、それ以後、共に数多の戦場に出陣しています。

 

という事は、明智光秀と順慶は上司と部下ってことになりますが、実はこれにも諸説あり、一説には信長の命令で「明智光秀の四男が順慶の養子になった」ともいわれています。

この説がもし事実だとしたら、明智光秀と順慶は、親族関係にあったということになります。

 

あと、他にも、

・信長への服従を仲介したのは光秀

・光秀の娘が順慶の養子と結婚した

という説があります。

これだけ色んな説が出るというのは、単に上司と部下だけの付き合いではなさそうな感じもしますね。

 

1580年(天正8年)

順慶は、筒井城→大和郡山城に居城を移し、筒井城は破却。

 

1582年(天正10年)「本能寺の変

明智光秀が信長を討ちました。

 

順慶にとって光秀は、

信長への臣従を斡旋してくれた恩人、そして縁戚関係に…。

 

もちろん順慶は、どちらの味方に付くか迷っていたでしょう。

一旦は、兵を率いて光秀の為に出撃したのですが、翌日には引っ込めています。

 

順慶は、島左近や松倉重信などの重臣たちと、去就について軍議を重ねました。

 

迷いに迷った結果、出した答えは「秀吉の味方に付くこと」。

決め手は「秀吉の動向が近畿にも伝わってきたこと」とされています。

 

光秀は、6月10日に洞ヶ峠(ほらがとうげ)に着陣していましたが、順慶は戦場には行かなかったので、家臣の藤田伝五を通じ、順慶の説得にあたりました。

しかし順慶はそれを断り、光秀軍はやむなく撤退。

 

順慶が動かないことを悟った光秀は、下鳥羽に軍を返し「山崎の合戦」で秀吉と戦って敗死。

 

その後、順慶は、秀吉のもとに伺候し、「山崎の合戦」不参加を叱責されましたが、臣従を許されました。

 

そして順慶は、1584年(天正12年)「小牧・長久手の戦い」に参加しましたが、胃痛が酷く同年、大和に帰還後、没しました。

享年36。

 

史実では、「本能寺の変」で、順慶は光秀を裏切ります。

ドラマではその辺り史実通りなのか、はたまた裏切らずに進むのか、展開が楽しみですね。

 

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