大河ドラマ『麒麟がくる』で、幕府政所頭人だった摂津晴門(せっつはるかど)が登場します。

 

摂津晴門は幕府政所頭人。

足利義輝&義昭に仕え、室町幕府の執務を取り仕切り、幕府の存続を第一に考えていました。

 

信長と上洛した光秀とこれからの幕府のあり方を巡り、事ある毎にバチバチに対立する。といった役どころ。

真面目な感じですが、『麒麟がくる』の出演者の中で、最も悪役なのだそうです。

 

その役を演じるのは、片岡鶴太郎さん!

ドラマではどのように描かれるのか

楽しみですねぇ〜。

 

では早速、摂津晴門の人生見ていきましょう。

 

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目次

摂津晴門役を片岡鶴太郎が演じる!

 

摂津晴門役を片岡鶴太郎が演じる!

画像引用元:https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=M93-0819

 

摂津晴門は、幕府政所頭人で、足利義輝~義昭に至るまで、室町幕府の執務を取り仕切った人物。

裏で企てる悪い役所なのだそうですが、その摂津晴門の役を演じるのは、「鶴ちゃん」の愛称でお馴染みの片岡鶴太郎さん!

 

鶴太郎さんって、優しそうなのに何か悪そうですよねぇ〜。(いい意味で(笑))

あの目は裏で何か企んでそうだし〜。(いい意味で(笑))

今回のキャスティングもバッチリ!といったところですね。

 

片岡鶴太郎さんは、大河ドラマや朝ドラの常連俳優さんですが、他にも、お笑い芸人&画家&書家&ヨガ実践家&歌手としても活動されています。

 

これだけ色々なことをしていると、普通は中途半端になっちゃいそうですが、鶴太郎さんはどの活動でも極める事が出来る努力家で、多才なのがよくわかります。

 

その経験が役者としての鶴太郎さんを作っているのでは?と思うほど、役者として現在も、成長を続けておられるので驚きです。

 

過去のドラマ、いくつも拝見しましたが、どの役も見事に演じられていましたよ。

今回も『麒麟がくる』をおもしろくしてくれる役所となると思います。

放送日楽しみですね。

 

幕府政所頭人だった摂津晴門とは?

 

幕府政所頭人だった摂津晴門とは?

 

摂津晴門(せっつ はるかど)は、戦国時代の武士で、足利将軍家の家臣。

んでもって、政所執事でした。

 

摂津氏は鎌倉幕府の時代〜崩壊後、南北朝時代を経て、室町幕府にも参画していた中原氏の一族です。

元は摂津守に叙任されていたので、姓を「摂津」に改めています。

 

ちなみに政所執事というのは、

・幕府の財政

・幕府の領地

・民事に関わる訴訟

を司る役所のことで、執事はその長官になり、頭人」とも呼ばれます。

では、そんな摂津晴門はどのような人生を歩んだのか、簡単に見ていきましょう。

 

摂津晴門は、摂津元親の子として誕生していますが、生誕日は不明です。

足利幕府第12代将軍・足利義晴より偏諱を受け→「晴直((はるなお)のち晴門)」を名乗りました。

 

室町幕府第13代将軍の足利義輝(足利義晴の子)と、15代将軍の足利義昭に家臣として仕えています。

 

1528年(享禄元年)

足利義晴の時代に、「従五位下中務大輔」の位を任されます。

 

春日局((日野晴光室)摂津元造の養女)は、13代将軍・足利義輝の乳母を務めているので、義輝にとって摂津晴門は義理の伯父ということになります。

 

父・摂津元造は足利義晴の死去した時に出家していますが、その後も、

・官途奉行

・地方頭人

・神宮方頭人

を務め、晴門は補佐しています。

 

1562年(永禄5年)頃、摂津元造がこの世を去り、晴門はその地位を引き継ぎました。

 

1564年(永禄7年)

敵対していた伊勢貞孝に代わり、新政所執事として起用されました。

前例にない役職を任命された摂津晴門でしたが、ちゃんと仕事はこなせていたようです。

 

1565年(永禄8年)「永禄の変

二条御所にて足利義輝と、足利義輝に従った多くの奉公衆や、まだ13歳だった摂津晴門の嫡子の糸千代丸とも討死しました。

 

摂津晴門は、なんとか逃れることが出来、1566年(永禄9年)に京を離れ、細川藤孝、一色藤長らと足利義昭に合流していますが、いつ?というのが不明で、おそらく1566年(永禄9年)〜1568年(永禄11年)の間のどこがでは?という事しか解りません。

 

永禄の変の後も、摂津氏は途奉行を任されていたようですが、足利義栄(三好氏らが推す次期将軍候補)が、伊勢貞為(伊勢貞孝の孫)の出仕を認めた事に対し、摂津氏は反発し始めます。

 

1568年(永禄11年)

足利義栄への将軍宣下に際し、出席を拒否。

 

足利義昭(足利義輝の弟)の元服の奉行を務めていることから、摂津 晴門はこの時、足利義昭についていたようです。

 

そして、足利義昭が将軍に就任。

再び摂津晴門は、政所執事として起用されたのでした。

 

1571年(元亀2年)までの活動記録が残されてあるそうです。

 

摂津晴門は、政所執事と神宮方頭人を兼ねていましたが、藤波康忠に相談無く、伊勢神宮の禰宜職に関する武家執奏を行ったのです。

すると足利義昭が激怒します。

 

その結果、摂津晴門は逼塞(ひっそく)を命じられてしまいます。

【逼塞とは】

江戸時代に武士または僧侶に科せられた刑罰。門を閉ざし、昼間の出入りを許さないもの。閉門より軽く、50日間と30日間の2種類があった。

ウィキペディアより

すると同年11月に、伊勢貞興(貞為の弟)が、政所執事に任じられたのです。

 

ちなみにこの伊勢貞興ですが、明智光秀に従順に仕えていたようで、光秀の厚い信任を得るようになり、一説には光秀の娘婿となったという話もあります。

 

1572年(元亀3年)

逼塞を命じられていた摂津春門ですが、足利義昭から朝廷への使者を務めていたことが確認されています。

(「お湯殿の上の日記」)

 

↑記録上の登場はこれが最後となっているので、この後、間もなくして死去。または、引退したとみられていますが、没年月日も生誕と同じく不明です。

 

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