大河ドラマ『麒麟がくる』で、染谷将太さんがいい味出している織田信長。
今回は、その織田信長の妹・お市の方を紹介したいと思います。
戦国一の美女!と名高いお市の方。
織田信長の妹として浅井長政に嫁ぎ、「金ヶ崎の戦い」で浅井長政が亡くなり「本能寺の変」で兄・織田信長が亡くなったあとには、柴田勝家と再婚し、勝家 VS 秀吉「賤ヶ岳の戦い」で夫・柴田勝家とともに自害の道を選択…。と、波乱に満ちた人生を歩んだお市の方。
どのような人物だったのでしょうか。
では、見ていきましょう。
目次
信長の妹 お市の方とは?
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
お市の方は戦国一の美女&織田信長の妹として知られています。
あまり歴史に詳しくない方でも『お市の方』という名前を、一度は聞いたことのあるのではないでしょうか。
織田信長が「お市が男だったら、いい武将になった」と、認める人物だったという逸話が残されています。
戦国時代の女性は謎が多いです。
有名なお市の方でさえあまりわかっていないのです。
お市が生まれたのは、1547年(天文16年)兄の織田信長の13歳下。というのが通説です。
兄が織田信長なので、もちろん父は織田信秀。
母は土田御前のはずなのですが・・・母だけではなく、実は両親に共に不確定なのです。
それには理由がありまして、本当は信長の妹ではなく、いとこだったとか・・
そして、輿入れの時に妹ということにしたのでは?という話があるのですが、それは「信長公記」にも掲載されていません。
で、嫁ぎ先はというと、北近江の浅井長政です。
嫁いだ時期に関しては、3つの説があります。
A・永禄4年(1561年)
B・永禄6年(1563年)
C・永禄11年(1568年)(通説)
と諸説あります。
諸説といえば、浅井長政には長男の万福丸がいますが、この長男が本当にお市の方の子なのか?という説です。
それは、万福丸が生まれたのは1564年(永禄7年)とされているので、二人が結婚した年が、上記のA・Bだと、お市の方の実の子なの?という疑問の説が浮かぶのもわかりますね。
あと長政ですが、お市の方との結婚前に「平井定武の娘」との結婚歴があり+側室)
・万福丸
・喜八郎
・円寿丸
・万寿丸
という4人の男児を生んでいたという話があります。
もし仮に、結婚がCの時期だった場合で進めると、この年は織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たした大きな節目の年。
信長が岐阜城から京都へ行くには、浅井長政の小谷城付近を通らないと…。で、浅井と同盟を結び政略結婚となるわけです。
織田信長は関東統一をする為の足がかりとして、浅井家と同盟を結ぶ事を考えます。
そうして妹のお市は政略結婚を強いられました。
政略結婚を NO とはいえない時代。
それに、兄を慕っていたので、兄の力になるなら YES オンリーだったのかもしれません。
そして、お市は浅井長政と政略結婚するのですが、これが意外とラブラブでイイ感じの夫婦生活となったのです。
浅井長政は義理堅くて優しくて、180cmの高長身で、イケメン!
しかも、お市を溺愛していたので、とても大切にされたとか。。。
四六時中一緒にいて、軍議中にもお市とイチャつくので周りはドン引き。
それに、
・1569年(永禄12年)
・1570年(元亀元年)
・1573年(天正元年)
と、1年おきに出産しています。
仲良しだったことが伺えますね。
この生まれた子どもたちが、俗に呼ばれる「浅井三姉妹」です。
順風満帆の生活。
お市の輿入れによる同盟が功を奏し、織田信長は将軍・足利義昭を奉じての上洛に成功。
これからも浅井と織田の友好関係は続いていくと思われましたが、上洛から2年後の1570年(元亀元年)、織田家が朝倉家侵攻を始め、両家から浅井家に援軍の要請がありました。
お市は
「あなた様のお好きなようにしてください。兄は寛容です。例え、敵対する事になっても許してくれるでしょう。」と、言ったとか。
長政は悩んだ末、織田家との対立を選択。
長政はお市の方に「信長公のもとへ帰れ」と言うと、お市の方は「ならば、ここで殺してください」と言ったと伝わっています。
長政は信長の背後を襲い、朝倉家と織田軍の挟み撃ち作戦を決行。
浅井長政の裏切りを察したお市の方は、信長にいち早く知らせた。という有名な逸話がありますが、それはこの時のことです。
お市の方は、怪しまれないように、袋の上下は縄で縛られた小豆を入れた袋を、「陣中見舞い」と称して織田の陣営に送りました。
信長は、瞬時に「陣中見舞い」=「袋の中のネズミ」と悟り、危地を脱出できたのでした。
( ↑ 後世の作り話という説もあります)
お市が浅井家に嫁ぐ時に、密かに同行していた信長の家臣が、織田軍に危険を伝えたのでは?という説もありますが、どちらにせよ信長は金ヶ崎から逃げ出し、事なきを得ました。
1570年(元亀元年)「姉川の戦い」~1573年(天正元年)
浅井 VS 織田の戦いは続き、最期は浅井長政が織田信長に敗れ、自刃。
浅井家は滅亡。
9歳の長男・万福丸は、秀吉に捕らえられ関ヶ原で串刺しにされました。
夫・長政から「信長公のもとへ戻れ」とされていたお市の方は、浅井三姉妹を連れ織田家に出戻り、兄・信長の庇護をうけたのでした。
柴田勝家との再婚
浅井長政が「姉川の戦い」で織田信長に敗れ、自刃し、お市の方は織田家に出戻りました。
信長から再婚を勧められることもあったようですが、全て断っていたそうです。
浅井長政を愛していたから、再婚なんて考えられなかったのか。
はたまた、戦乱に巻き込まれるのが嫌だったのか。
もしくは、子どもが3人いたので、産む必要がないから再婚はいっかー。
的なことなのか。
理由はわかりませんが、再婚する気配はなかったようです。
しかし1582年(天正10年)、お市の方の人生にも大きく影響する事件が起こります。
それが「本能寺の変」です。
この時、お市の方たちがどこにいたのか、実際は不明です。
兄を失ったお市の方と、その娘たちをとりまく状況は一変します。
といっても、お市の方と三姉妹は信長亡きあと、
・清洲城主・織田信忠に預けられた
・上野城主(伊勢国)・織田信包(信長の弟)に預けられた
という説があり、兄亡きあとも生活には困らなかったようです。
本能寺の変 → 中国大返し → 山崎の戦い → …そしてお市の方運命の清州会議…。
この会議は織田家の4名の重臣で、
・次の織田家当主(三法師)
・所領の分配
について話し合われました。
その中で、お市の家族についても論じられたようです。
お市たちは、誰かの庇護無しに生きていきてはいけない「柴田勝家殿へ嫁いでいただこう」ということになりました。
これに関する理由としては、
・秀吉が勝家を丸め込むために仕向けた結婚
・信長の妹を妻にできれば、勝家の立場が強まる
など言われています。
それに、柴田勝家は元々お市に惚れてるのを知っていた。とも言われています。
本人たちがいないので心の内は解りかねますが、清須会議で結婚が決定し、お市の方は柴田勝家と再婚します。
1583年(天正11年)勝家 VS 秀吉。
考えが合わず「賤ヶ岳の戦い」勃発。
合戦には勝家が敗れ、本拠地の北ノ庄城へ帰ってきましたが、すぐに秀吉もきて包囲戦が始まりました。
勝家は、お市に逃げるよう勧めたといわれていますが、お市は「二度も逃げたくない」と拒否。
勝家と自害する道を選択したのです。
娘・三姉妹も美人だった?
お市の方と浅井長政の娘は「浅井三姉妹」として知られています。
浅井三姉妹は母・お市の方似て美人三姉妹!な~んて言われていますが、実際はどうだったのでしょうか。
三姉妹をご紹介しますと。。。
◆ 長女 → 茶々
→豊臣秀吉の側室。
◇ 性格
・優しい
・人格者
・勝ち気
・見栄っ張り
・ヒステリック
・負けず嫌いで
・自己中心的
・気位が高い
・素直でない
・人の好き嫌いが激しい
・理性<感情
・人に頭を下げられない
茶々が一番、母に似ていて背も高かったと言われています。
◆ 次女 → 初
→ 京極高次の妻
◇ 性格
・心がとにかく優しい
体型は小柄で華奢。
◆ 三女 → 江
→ 徳川秀忠の妻
◇ 性格
・優しい
・嫉妬深がある
・旦那を尻にしく
体型は小柄で華奢。
三姉妹とも優しい女性だったようですね。
嫁ぎ先も、名だたる武将ばかり。
証拠というものはないのですが、母は戦国一の美女と呼ばれるほどの美貌があったとされ、父・浅井長政はイケメンだったようなので、三姉妹も全員美人だったのではないかと思われます。
織田信長は、シスターコンプレックス気味だったようで、贅沢をさせてもらっていたようです。
お市の方が出戻った時も、何不自由ない生活をさせたと記録が残っています。
そこから想像するに、三姉妹は教養もある美人なお姫様に成長したのではないでしょうか。
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