大河ドラマ『麒麟がくる』に朝倉景鏡が登場します。

 

朝倉景鏡は朝倉氏一門の中で、一時は一族の筆頭として力を発揮した人物ですが、朝倉家滅亡のときには主君の朝倉義景を裏切り、自害にまで追い込み、その首を持って織田信長に降伏していますが、それはなぜだったのでしょうか。

 

そんな朝倉景鏡とは、どんな人物だったのか見ていきたいと思います。

 

 

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目次

朝倉家に生まれた景鏡

 

朝倉家に生まれた景鏡

 

朝倉景鏡は、戦国時代〜安土桃山時代の武将です。

 

景鏡の生まれた朝倉家は、越前(現在の福井県)を治めていた大名家です。

室町時代〜かなり名門の家で、将軍家と同格とまで呼ばれていた大名家「斯波(しば)家」の重臣でした。

 

そんな名門の家、朝倉家に生まれた朝倉景鏡(あさくら かげあきら)。

簡単に見ていきましょう。

 

朝倉景鏡の父は、戦国朝倉氏三代貞景の次男・景高((かげたか)朝倉考景の弟)。

母は、烏丸冬光の娘、権中納言です。

 

朝倉景鏡は、二人の嫡男として1525年(大永5年)?に誕生しています。

諸説ありますが、朝倉家最後の当主となった朝倉義景の従兄弟にあたります。

 

名門家に生まれた景鏡ですが、意外にも年月日や幼い頃のことははっきりとはわかっていません。

戦国時代の武将あるあるですね。

そんな景鏡が、史料にはっきりとした形で登場するのは家督を継いでからです。

 

景鏡は、家臣団の中でのポジションは筆頭家臣。

 

1564年(永禄7年)「加賀一向一揆

朝倉軍の総大将として、出陣しています。

 

1568年(永禄10年)

御礼のために参上したとき、式部大輔に任ぜられています。

 

1570年金ヶ崎の追撃戦を指揮。

志賀の陣の総大将として出陣。

 

1573(天正元年)

景鏡は、朝倉氏滅に繋がることになる近江出陣には、疲労を理由に参陣を断っています。

 

朝倉義景が「刀禰坂の戦い」で大敗します。

そして一旦一乗谷に帰り、大野に逃れます。

 

そこで景鏡は義景に、信長との最後の決戦を勧めます。

しかし景鏡は信長と通じていて、義景を裏切り自害に追い込んでいます。

 

これにより「一向一揆」が起こり、朝倉旧臣への攻撃が強まります。

景鏡は平泉寺に逃げ込み、最終的には、平泉寺もろとも滅亡。

 

そこで景鏡は、義景の首を織田信長に献上し、降伏しています。

そしてこの後より、信長の家臣となります。

 

景鏡は本領を安堵され、信長の偏諱(へんき)を受け「土橋信鏡(つしはし のぶあきら)」と改名。

 

改名の翌年の1574年(天正2年)

景鏡は、一向一揆の軍勢に襲われました。

 

織田信長は1570年以降〜10年程、石山本願寺を中心とする一向一揆と対立関係にありました。

その為、一向一揆化した一揆勢が、信長の家臣となった景鏡を襲ったのです。

 

朝倉景鏡は一向一揆勢と交戦するも奮戦空しく討死しました。

景鏡は、わずか3騎で突撃し、壮絶で不利な状況での死であったということです。

 

朝倉義景を自害に追い込んだ背景は?

 

朝倉義景を自害に追い込む

 

朝倉景鏡は朝倉家一門の中でも、かなり上の位置にいましたので、軍事面でも重要な役割を果たしていました。

 

当時の当主・朝倉義景は、戦をあまり好まない武将でした。

なので、義景の代わりで総大将として出陣することもあったようです。

 

朝倉景鏡は、戦はもちろんですが、権謀術数(巧みに人をあざむく策略のこと)にも長けていました。

1567年(永禄10年)、朝倉方の堀江景忠が「加賀の一向一揆」と反乱を企てますが、上手くいかず和睦して能登へ下ったのでした。

 

しかしこれは、朝倉景鏡の讒言による陰謀だった。と記されています。

(「朝倉始末記」)

 

ですが、この讒言には異論もありまして…。

謀反の前に一向一揆の攻撃が始まっているので、能登に落ち延びた景忠に対し、後に本願寺の顕如から感謝状が送られています。

 

真偽は?ですが、表向きとしては「忠臣」なイメージ。

志賀の陣」までは総大将をちゃんと努めていますしね。

 

1572年(元亀3年)

武田信玄と共同戦線を張って織田信長と対峙した年。

 

羽柴秀吉に敗退&あっさり撤退&信玄に厳しく非難される〜。といったことが、続いた頃から朝倉景鏡は、朝倉義景に対する感じが変わったようなのです。

 

1573年(天正元年)

織田信長は、小谷城を攻撃するのですが、盟友の朝倉義景は自らが総大将となり救援を決断しますが、朝倉景鏡は出陣を「度々の出兵に疲弊した」という理由で拒否。

 

しかし、実のところはどうだったのか疑わしい…。

もしかすると、この時点で、朝倉景鏡は主君・朝倉義景を完全に見限っていたのかもしれない。ということです。

 

で、この後、

・義景は北近江に出陣。

・織田軍に敗退し浅井氏も滅びる。

・信長は越前侵攻を開始。

と、なります。

 

この時、朝倉景鏡は一乗谷から撤退し、大野郡で軍勢を集めると進言したようです。

 

そして、朝倉義景が賢松寺(宿所)に入った翌朝、朝倉景鏡は200騎ほどの軍勢で賢松寺を取り囲み、義景を自害に追い込みました。

 

朝倉景鏡は義景の首級と捕らえた母(高徳院)や妻子、近習(主君のそば近くに仕える者)らを織田信長に差し出し、降伏。

 

自分はちゃっかり許されているのです。

つまり謀反の将だったのです。

 

これはどう考えても、前々から考えていた景鏡策略ではないか。と思われてもしかたがないですね。

 

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