大河ドラマ『麒麟がくる』で上杉輝虎(謙信)が登場します。

(登場シーンは少ないか、もしくは名前が出るだけかもしれませんが・・・)

しかしそれでもお待ちかねだったファンも多いのではないでしょうか。

 

上杉輝虎(謙信)は、織田信長や武田信玄など、有名どころとの絡みがある武将なので、あまり歴史に詳しくない方でも「上杉輝虎(謙信)の名前は知ってる!」って人も多いのではないでしょうか。

上杉輝虎(謙信)は、織田信長と同盟を結び、敵対し、最期は病死・・・という、波乱に満ちた人生を送った戦国武将の一人です。

 

今回は、上杉輝虎(謙信)にスポットを当てていきたいと思います。

どうぞお付き合いください。

 

 

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目次

22歳で越後統一を果たした景虎(謙信)

 

22歳で越後統一を果たした景虎(謙信)

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

1530年(享禄3年)上杉輝虎(謙信)は、越後国「春日山城」の守護代・長尾為景(ながおためかげ)の四男として誕生。

 

庚寅(かのえとら)年生まれだったことから、幼名は→虎千代。(とらちよ)

上杉輝虎(謙信)が生まれた頃は、内乱が激しい時代でした。

 

1536年(天文5年)8月、上条定憲(じょうじょうさだのり)(越後国内の国人領主)らの反乱によって、父・長尾為景、隠居。

 

虎千代の兄・長尾晴景が家督を継ぐ事となり、虎千代は父から避けられ、城下にある林泉寺に入門。

 

避けられて入門?

というのも、この入門には諸説ありまして、

・父が虎千代と気が合わなかった。

・虎千代は父の子どもではない疑惑があったから。

という説。

どちらにせよ、はっきりしていません。

 

1543年(天文12年)、元服後は長尾景虎と名乗り、栃尾城(とちおじょう)に入城。

 

1544年(天文13年)「栃尾城の戦い

戦いの発端となったのは、上杉定実(越後上杉家8代目当主)が伊達稙宗の子を婿養子に入れる or 入れない問題でした。

 

当時権力のあった兄・長尾晴景は病弱だったこともあり、この問題は内紛状態に陥る事になります。

さらに越後の豪族が謀反を起こし、栃尾城(長尾景虎が治めている)へ攻めてきて内乱は、どんどん激しくなります。

 

しかし、この時15歳だった長尾景虎。

敵本陣を背後から攻め、急襲することに成功。

 

敵軍を混乱させ、さらに城内の本隊を突撃させて追い打ちをかけた事で、長尾景虎は初陣を勝利で飾りました。

 

1550年(天文19年)

室町幕府13代将軍・足利義輝の後ろ盾により、越後国主の地位を確立。

 

1551年(天文20年)

長きに渡り続いた内乱を収め、景虎は22歳にして越後統一を果たしたのでした。

 

織田信長と同盟を結ぶ

 

織田信長と同盟を結ぶ

 

歴史の中にはたくさんの「○○同盟」といえものがあります。

その中の一つに「濃越同盟」というものがあります。

この軍事同盟は、上杉謙信と織田信長との間に1572年(元亀3年)に結ばれた軍事同盟です。

 

織田信長ですが、元々は武田信玄との間に同盟を結んでいました。

しかし、これまで友好関係にあった武田信玄の行動に危機を感じた織田信長。

そうなると今後の事も考え、上杉謙信に対して協力を持ちかけたことがきっかけで軍事同盟を締結しました。

 

この同盟は、

・信長側→謙信に人質を差し出す。

というものでしたので、どちらかといえば人質が差し出されていない謙信優位の軍事同盟だったのでした。

 

という事でこの同盟は、今後の武田信玄に対する対策として締結されたものでしたが、締結された翌年1573年(天正元年)西上作戦の途上中、信玄は吐血し、信濃への帰還中に病没したのです。

 

濃越同盟は、その後も継続。

信長は謙信に南蛮式マントなどのプレゼントを贈っていたそうです。

 

歴史がもう少し進むと、織田信長と上杉謙信は敵対関係になってしまうのですが、この時点ではまだ争うこともなく平穏そうに見えますね。

 

手取川の戦いで信長軍を退けるが、その後病死となった最期

 

手取川の戦いで信長軍を退けるが、その後病死となった最期

 

1571年(元亀2年)

北条氏康が亡くなり、北条氏政(北条氏康の次男)が家督を継ぐと、北条家は上杉側との同盟を破棄します。

そして武田信玄と同盟を結び直し、上杉謙信と敵対するようになりました。

 

1574年(天正2年)

上杉謙信は、利根川を挟み北条氏政と睨み合っていました。

その時、利根川は増水していて渡れず、決着がつかないまま謙信は撤退しました。

 

同年の「第三次関宿合戦」では、関東諸将らが救援軍を出してくれず、上杉謙信は攻撃をしないまま降伏。

そうして上杉派の勢力は大幅に低下していく事になるのです。

 

1576年(天正4年)

謙信は、能登国(現在の石川県北部)の覇権を手に入れる為、上洛を急ぎます。

そして、能登国の拠点である七尾城に目を付けました。

 

その七尾城内では、

・上杉謙信派

・織田信長派

で、対立が起きていました。

 

上杉謙信は、なんとか戦わない方向で和解を考えていましたが、交渉は決裂・・・

七尾城の戦い」が勃発したのです。

 

上杉謙信は、外堀から埋める作戦を成功させ、七尾城を孤立させましたが、七尾城は難攻不落の山城だったので、攻略にはおよそ1年もの時間を要しました。

 

さらに同時期、北条軍の進軍や敵軍による諸城奪還で戦況は悪化していました。

 

1577年(天正5年)「手取川の戦い

長い籠城戦の末に七尾城内で疫病が流行。

上杉謙信は、能登国の覇権を握ったのです。

 

同年、七尾城から援軍要請を受けていた信長は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)をはじめ、30,000人にも及ぶ軍勢を派遣。

そうして進軍を開始したのですが、道中、意見の相違で豊臣秀吉離脱など、足並みが揃わない状況。

 

一方、上杉謙信は迎え撃つ為、南下。

既に着陣している連絡を受け形勢不利を悟り、信長軍勢は撤退を開始。

 

それを見た上杉謙信は、織田軍を追撃。

そして撃破に成功。

 

翌年1578年(天正6年)

上杉謙信は、次の遠征に向けて準備を行なう最中、城内の厠で倒れ急死。

享年49歳。

脳溢血などの病気と言われています。

 

上杉謙信がその生涯で参戦した合戦は、約70回。

敗戦となったのは僅か2回。

で残り68回は勝利 or 引き分け。

軍神と呼ぶべき武将だったことがわかりますね。

 

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