室町幕府最後の将軍は15代将軍・足利義昭。
有名ですよね。
兄の、13代将軍・足利義輝が暗殺されて、還俗してからの将軍に就任した人物。
これは、ご存じの方も多いと思います。
…。が、ちょちょちょちょちょっちょっと、まって!?
・・んっ!?
13代将軍→15代将軍?
14代将軍はいずこへ?
と、思いませんでしたか?
大河ドラマ『麒麟がくる』で、腫れ物が原因で京に一度も来なかったことで知られる将軍「足利義栄」が登場します。
んでもって、この足利義栄(よしひで)が紛れもなく14代将軍なのです。
13代将軍・義輝殺害後、三好三人衆が擁立し就任しています。
という事で、今回はその14代目の将軍、足利義栄にスポットを当てていきたいと思います。
目次
三好一族より擁立され 将軍になった足利義栄
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
1538年(天文7年)、足利義栄は阿波で生まれました。
父→足利義冬(足利義維)
母→大内義興の娘
の嫡男として誕生しました。
正室 → 結城氏の娘
とあります。
父の足利義維(よしつな)は、室町幕府第11代将軍・足利義澄の次男。
つまり、十二代将軍・足利義晴の弟です。
なので、将軍の甥っ子ちゃんになります。
義栄が生まれた頃の父・義維は兄・義晴と対立中で、将軍職を争っていました。
兄と同等の力を持っていた父・義維。
義維は夫婦揃って阿波に移っています。
義栄が生まれたのはそのあとのこと・・・
義栄の他に弟が2人、妹が1人いたようですが、ふたりとも史料には登場しないので、おそらく歴史の表舞台には出てきません。
義栄の次に生まれた弟は足利義助なのですが、義栄の息子説もあります。
この人物は阿波に留まり、長宗我部氏を支援し、戦国時代を生き延びています。
1523年、10代将軍・足利義種 VS 細川高国
阿波の撫養(鳴門市)に移り、足利義維を養子に迎え客死。
義維は、細川之持(阿波守護)の世話を受けました。
そして細川家より、阿波・阿波公方館(平島館)にて3,000貫の領地を得ていました。
そんな義維ですが、1555年4月〜は、大内義長に世話になっていたようです。
そして1563年頃、将軍家の血筋にあたるということで、義維と息子の足利義栄は、三好長逸らによって、阿波に戻されています。
1565年(永禄8年)「永禄の変」
13代将軍・足利義輝が、松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)らに襲撃を受け、暗殺される事件が起こり、次期将軍争いとなりました。
で、三好三人衆が時期将軍候にあげたのは父・足利義維。
この時、父・義維は中風を患っていたので、嫡男の足利義栄(足利義親)が要請を受けることになったのです。
しかし、朝廷への献金不足で、征夷大将軍になかなか就けず…。
1567年(永禄10年)、三好政権の手引きで摂津国に入国。
名を義栄と正式に改めます。
摂津・富田の普門寺にて山科言継の使いを受け、三好三人衆の力添えで1568年2月に、室町幕府第14代将軍就任を果たしたのです。
しかし将軍に就いたといっても、三好三人衆と松永久秀の力で就いたようなものだったので、将軍としての権力は小さいものでした。
当時の京都は三好三人衆、松永久秀が支配していて、京都にいる他勢力や幕臣達からの支持は受けられず…。
で、この頃、三人衆と松永久秀の争いが止まず、しかも足利義栄自身も背中に腫れ物を患っており、将軍に就任はしましたが、京都には入らず富田にとどまりました。
それに三好政権が分裂する事により、足利義栄の立場はより不安定なものになっていきました。
その一方では、将軍家を正統な血筋で再興しようという思いもあり、足利義昭(義輝の弟)は、明智光秀の仲介を受けて尾張の織田信長を頼ります。
そうして1568年9月、織田信長は、足利義昭を擁立します。
上洛していた軍勢によって、三好三人らを京都から追放する事に成功します。
義栄は背中の腫物が酷くまたしても上洛出来ず。
そして本拠地が京都の室町幕府将軍でありながら、一度も上洛する事なく将軍職就任半年とちょっとでクビになったのです。
その直後、足利義栄は、以前から患っていた腫れ物が悪化し29歳(31歳?)で病死しました。
その後、松永久秀が織田信長に臣従。
15代将軍には、足利義昭が就任。
1573年、父・足利義冬(足利義維)も65歳で死去。
阿波・平島館は、弟の足利義助が継いだそうです。
義栄は本当に腫れ物が原因で京に入れなかった?
室町幕府13代将軍・足利義輝暗殺後に、松永久秀、三好三人衆によって擁立され、室町幕府14代将軍に就任した足利義栄でしたが、背中に腫れ物を患っており京には入れず…。
そして半年後に、織田信長が足利義昭を奉じて上洛。
背中の腫れ物も悪化の一途をたどり、結局は将軍位を追われ、一度も京を訪れる事なく病死しました。
しかし、腫れ物で亡くなると聞くと『どんな腫れ物?』と思ってしまいますが、悪性腫瘍だったのでは?と想像します。
肉芽腫症は良性のものが多く、背中やお腹、脇の下や顔にも出来ますが、まれに悪性のものもあります。
もし悪性腫瘍なら、体も衰弱していったと思われますし、京に行くことも出来なかったんだろうなぁと思います。
それに当時の医学では病名もよく解らず、『腫れ物』とだけしか解らなかったのかもしれませんね。
さて、そんな義栄ですが、歴史書によっては一度も上洛していない将軍ということでスルーされたり、一応将軍になっていた期間はあるのですが、なかったことにされたり…。という事も多々。。。
足利義栄の詳細はもちろん。亡くなった年齢や没日時、場所など諸説あり、はっきりとはわかっていません。
ちなみに、日本史上の幕政において、将軍在職中に幕府本拠地に入ったことのない将軍は、足利義栄と徳川慶喜の二人だけです。
もしかしたら、めちゃくちゃ敏腕将軍だったかもしれませんが、色々なタイミングや周りの環境も悪く、何も発揮できぬまま将軍職を退く事になったのでした。
もしかすると、それもこれも全部含めて実力と言う見方もできるかもしれませんが、担ぎ上げられて将軍になったのに、なんだかとっても気の毒ですよね。
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