大河ドラマ『麒麟がくる』に「三好三人衆」が登場します。

足利義輝を暗殺したので、悪いイメージがある!って方や

三好さんって人が三人(衆)なの?(←まぁまぁいい線いってます。)

と、思う方もいらっしゃるかもしれませんね。

 

三好三人衆は、戦国時代に畿内を中心に活動していた3人組で、メンバーは

・三好長逸(みよしながやす (ながゆき))

・三好宗渭(みよしそうい)

・岩成友通(いわなりともみち)

です。

 

この三人がどのような人物だったのか。

それぞれご紹介していきたいと思います。

 

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三好三人衆の筆頭格だった三好長逸

 

三好三人衆の筆頭格だった三好長逸

 

三好長逸(みよしながやす)は、戦国時代の武将です。

三好一族の長老的存在だった三好長逸は、松永久秀と並んで三好政権の双璧と称された程の実力者で、三好三人衆の筆頭格。

 

これほどの武将なので、さぞかし史料がたくさんあるのかと思いきや・・・

意外や意外、三好長逸の生まれは阿波の人?

誕生日は(??~1573)

…。と、

三好長逸の生没年や生まれた頃のことは意外にもわかっていません。

 

三好長逸の祖父・三好之長は、子息とともに刑死していて、長逸の父は三好之長の四男の孫四郎長光です。

そんな三好一族は、戦乱で命を落とす者が多かったので、特に三好長逸は生きているだけで敬愛されていました。

 

三好長慶にとって、三好長逸は実に頼れる親族で、一族の年長者として信頼され、

・政治

・軍事

・外交

…の全てを任され辣腕をふるいました。

 

長慶が主君・細川晴元を追放し実権を奪うと、三好長逸は三好軍の主力を率いて、

VS 細川軍

VS 足利義輝

と戦っています。

 

そんな足利義輝とは和睦を繰り返し、そのたびに接待役を務めていたのが三好長逸です。

 

三好一族は、畿内近郊の権力者として力を得てきた一族なので、足利将軍家と利害関係が同じ。

対立は避けられませんでした。

 

そのため三好長逸は、幾度も戦に参戦。

長慶不在時は、芥川山城主を務めるほどの信頼関係。

 

三好長慶は、

・足利将軍家を圧倒

・畿内を制す

・織田信長に先駆けて天下人とも称される

と、進み…。

 

1560年(永禄3年)、他の重臣よりも早く従四位下に叙せられ、三好義興(長慶の子・後継者)が、京常駐時は留守を任されるなど、長慶の信任はさらに厚くなっていました。

しかし、三好長慶&三好義興が急死。

 

三好義興が死で急遽、後継者に名があがったのは三好義継。

三好義継は、長慶と義継は伯父と甥の関係にあたる十河一存(そごうかずまさ)の子どもです。

 

そして、1563年(永禄6年)三好義継が家督を継ぐ事になります。

1565年(永禄8年)「永禄の変」勃発。

 

「永禄の変」は、将軍・足利義輝が、三好一派や松永久通らに殺害された大事件で、足利将軍家とその勢力を奪おうとする三好家の、不安定な状況をも露呈させる事件となりました。

 

三好長慶は、松永久通に目をかけていて、我が子の世代同士で支え合う体制の確立を意識していました。

 

なので松永父子は家臣団の中でも常に中心となっていたのですが、「永禄の変」によって、三好家臣団に不協和音が響きわたるようになり、松永久秀父子は権勢を失います。

結果的に三好長慶の目論みがはずれ…。

 

そのような中で結成されたのが「三好三人衆」。

メンバーは、

・三好長逸

・三好宗渭

・岩成友通

 

1566年(永禄9年)松永久秀と三人衆は対立します。

で、構図はこうです↓

 

松永久秀&久通父子 VS 三好三人衆

三人衆はこの戦いを有利に進めていき、松永久秀の居城を包囲しましたが、戦線が膠着するうちに、実権を三人衆に奪われていた三好義継が久秀のもとへ出奔してしまったのです。

 

整理するとこんな感じ↓

・三好義継は松永久秀を選択

・足利義昭を擁立した織田信長と共闘を選択

 

一方、三好三人衆は、

・三好義継(主君)を失う

・時代を見据える能力も失う

・散々対立していた将軍家・足利義昭を頼れないといった状況。

 

松永久秀は、畠山高政(三好家によって地位を奪われた元の河内守護)らと結託。

かたや三好三人衆の三好長逸は、京を追放されたルイス・フロイスらを保護。

 

フロイスは著書に三好長逸のことを記しています。(「日本史」)

 

「長逸は生来善良で教会の友人」

「天下の4人の執政の一人で堺にきわめて豪華な邸宅を有する」

 

など。

 

しかしどんどん勢いを得ていく久秀。

東大寺に布陣した三人衆を襲い、大仏殿の焼き討ちを敢行。

さらに、三好長逸の嫡子を討ち取ったのです。

 

そこで三人衆は、足利義栄(よしひで)を14代将軍に就任させて、後ろ盾を得ました。

 

しかし1568年(永禄11年)、織田信長が足利義昭(三人衆が追放した)を擁立し60,000人の兵を率いて上洛を開始。

 

三人衆は、

・近江の六角義賢

・紀伊の国人衆

・高野山

ら各地の反織田勢力と結託し、防戦。

しかし、止めることはできず・・・

 

・六角家は鎧袖一触で滅亡。

・足利義栄は重病で保護。→急死。

・三好義継&松永久秀→織田家に降伏。

 

すると織田信長は、あっという間に上洛し、足利義昭を15代将軍に据えると、三人衆も各個撃破しました。

そうして三人衆の勢力圏は、阿波にまで後退。

 

1570年(元亀元年)、摂津で荒木村重が織田家に反旗を翻すと、三好長逸は篠原長房(三好家の筆頭家老)と四国軍を率いて摂津へ軍を進め、織田軍は石山本願寺にいきなり背後を襲われたうえに、浅井&朝倉家も兵を進めたことで織田軍の戦況は優勢から劣勢に…。

そして三人衆は、摂津&河内の奪回に成功。

 

しかし、阿波で篠原長房が三好長治に殺される事件が起きます。

そんな騒動の中、三好家は更なる攻撃に転じることができませんでした。

 

1573年(天正元年)、信長包囲網崩壊。

そして

・浅井&朝倉の滅亡

・三好義継の滅亡

・足利義昭の追放

と、次々に…。

 

そうして三好長逸は織田軍に敗れ、消息を絶ったのです。

最期は、

・戦死した!?

・隠居した!?

・捕らわれ幽閉された!?

・病死!?

 

と、ありますが、三好長逸は生誕と同じく没年も未詳で、はっきりわかってはいません。

 

父を追放された三好長慶に仕えた三好宗渭

 

父を追放された三好長慶に仕えた三好宗渭

 

三好宗渭は戦国時代の武将で、三好三人衆のうちの一人です。

父 → 三好政長。

弟 → 三好為三。

 

宗渭は、父、弟とともに細川晴元に仕えていました。

1544年(天文13年)、宗渭は父から家督を譲り受けます。(実権は父)

 

1547年(天文16年)「舎利寺の戦い」では、父とともに参加。

細川晴元 VS 三好長慶

 

1548年(天文17年)

長慶に父とともに標的にされた宗渭は、籠城していた摂津榎並城を包囲されます。

しばらく耐えてつつ、父・政長の救援を受けようとしますが、それに失敗。

 

1549年(天文18年)「江口の戦い」では、父・政長が長慶に討たれました。

宗渭は摂津榎並城から逃亡。

 

そして細川晴元が13代将軍・足利義輝と京都から近江へ逃亡。

香西元成、波多野晴通と通じ、長慶と徹底的に戦いましたが、後に臣従し家臣となりました。

 

三好長慶に敵対した畠山高政を破る等、軍の前線指揮官として戦っています。

そして時は流れ・・・

三好家がこれからって時に、三好長慶が亡くなります。

 

宗渭は、三好長逸、岩成友通と三人で、まだ若い三好義継を補佐。

(「三好三人衆」の誕生)

 

その後、足利義輝を暗殺し、足利義栄を将軍に擁立。

しかし、松永久秀が三好義継と手を結んだ事により、三好三人衆と対立関係に。

 

そして「東大寺の戦い」では大敗します。

一旦は松永久秀を堺に追いやり京都で権勢をふるいましたが、織田信長と三好義継&松永久秀が組み、京都を退去し、阿波へ。

 

 

そのあとの事については諸説あり、

・阿波で死亡したらしい説。

・奇禍に遭い、哀れな死(具体的には不明)を遂げた説。

・豊臣家の家臣となり「大坂夏の陣」で豊臣秀頼に忠節を尽くし討死。

 

…。と、

はっきりとしたことはわかっていません。

 

三好長慶の奉公人から出世した岩成友通

 

三好長慶の奉公人から出世した岩成友通

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

岩成友通に関する史料は少なく、生誕日や出生地や父母は誰かなど、詳細ははっきりしていませんが、

・大和国出身説

・備前国から流れてきたという説

・西九条の荘園の下級役人説

があります。

 

三好三人衆のうちのひとりなので、もしかして阿波(三好氏の本拠地)?とも考えましたが、阿波の出身ではなさそうです。

三好氏が畿内に勢力を広大している最中に、新規登用されたと推察されています。

 

さて、そんな岩成友通が初めて史料に登場するのは、1550年(天文19年)です。

そして、1551年(天文20年)、堺で天王寺屋の津田宗達の茶会に出席したということがわかっています。

三好長慶の政権が確立されていた頃です。

 

岩成友通は三好家の奉公人の一員でしたが、三好長慶時代の活躍については不明です。

 

それでも三好長慶からの信頼は厚かったので、三好長慶の死後は、後見役として任命されています。

いわゆる三好三人衆です。

 

岩成友通は、外様出身者として三好政権の運営を担うことになったのです。

そう考えると大出世ですが、それにはそれだけの政治 & 軍事センスがあったと言われています。

 

そんな岩成友通語には、こんな経歴があります。

・ 1566年(永禄9年)、勝竜寺城(長岡京市)を奪取。

 

本格的な整備をし、重要な防御拠点とされました。

これは、政治と軍事の拠点として生まれ変わる功績。

 

・1568年(永禄11年)、織田信長の手に渡るまで、勝竜寺城の城主として京都では知られた人物でした。

岩成友通は、血筋ではなく実力で名を残した武将です。

 

晩年は織田信長に臣従していましたが、足利義昭が各地の大名に司令を送り、織田信長に敵対すると、岩成友通も再び織田信長に対立の姿勢をとるのでした。

(「信長包囲網」)

 

1573年(天正元年)

「第二次淀古城の戦い」で戦死。

 

43歳だったとされていますが、確かではありません。

これによって、三好三人衆は完全に崩壊したのでした。

 

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