大河ドラマ『麒麟がくる』で登場する、織田信長の息子・織田信忠(奇妙丸 きみょうまる)。
戦でもたくさんの武功を挙げてきた武将です。
父・信長の存在が大きすぎてあまり目立っていませんが、織田信忠は武将としても優秀で、誰もが信長の後継者として認める存在でした。
将来有望!
織田家の星!だった信忠。
彼を生んだのは、側室・吉乃(きつの)。
今回は、この信忠生母・吉乃についても見ていきたいと思います。
目次
織田信忠(奇妙丸 きみょうまる)を生んだ信長の側室・吉乃(きつの)とは?
織田信忠は織田信長の長男で、信長の数多くいる子どもの中でも有名ですよね。
その、織田信忠の生んだ母は、側室の吉乃(きつの)という人物です。
といっても、この吉乃と言う名前も…。というか本名も、年齢さえもわかっていません。
正式には「生駒 家宗(いこま いえむね)の娘」とあるだけで、年齢も、39歳説と29歳説があります。
側室なのに長男!?と思われた方もいるかと思いますが、正室の濃姫(帰蝶)との間には子どもがいなかったので、側室ですが長男となるんですね。
吉乃は、側室として二男一女をもうけたのですが、実は
・次男の信雄
・長女の徳姫
の生年はわかっているのに、信忠の生年は、不思議なことにはっきりとはわかっていません。
なので、もしかすると吉乃と信長の子どもでは無い可能性もある…。という説もあるのだとか。
吉乃は、尾張(愛知県西部)の丹羽郡小折村で、馬借(運送業)を経営する生駒家宗の娘でした。
そんな吉乃は、信長の側室になる前に土田弥平次という人物のところに嫁いでいます。
しかし、土田弥平次が戦死してしまい、実家に戻っています。
弥平次の土田氏と実家の生駒氏というのは、実は親類関係にあたるのです。
その土田氏というのは、土田御前(信長の生母)の出自と言われているので、土田弥平次は土田御前の甥っ子だったとも言われています。
と、いうことは、信長と土田弥平次はいとこになりますね。
行き来があってもおかしくないので、吉乃と信長は、親戚付き合いで知り合ったのではないか?ということも考えられます。
二人が出会った頃は人妻だったのか、未亡人だったのか、わかっていませんが、確かなのは信長がこの吉乃にベタ惚れだったということ。
結婚前に吉乃の住んでいた屋敷にちょくちょく通って、口説きおとして嫁にした・・といった恋愛結婚だったそうです。
嫁いだ日付は不明ですが、信忠が1555~1557年の間に誕生していると考えられているので、信長が21歳~23歳の頃に結婚していたと思われます。
それに吉乃は側室でしたが、正室と同等の扱いを受けていたそうです。
信長は、正室の他に9人の側室がいたと言われていますが、その中でも、最も愛した女性こそが吉乃だと言われているのです。
とはいえ、吉乃に関する史料はなく、正史や一級資料にも殆ど登場しないので、はっきりとはわかっていません。
かなり謎めいた女性です。
1566年(永禄9年)病気がちだった吉乃は天に召されました。
亡くなった日付も、9月13日と5月13日説とあります。
生前に家督相続された織田信忠
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
織田信忠は1557年(弘治3年)、織田信長と側室の吉乃の間に長男として誕生しました。
信長と正室の帰蝶との間には子どもがいなかったので、吉乃は事実上の正室だったようです。
乳母は、慈徳院(じとくいん)です。
信忠の幼名は「奇妙丸」(きみょうまる)。
生まれた時の顔が奇妙だったので 「奇妙丸」と信長が名づけたのだそうです。
(ちょっと、ひどい話ですね。。^^;)
1567年(永禄10年)
織田信忠(奇妙丸)は、松姫(武田信玄の五女)と婚約が成立。
1568年(永禄12年) 足利義昭が、第15代将軍就任直後、坂井政尚、柴田勝家らの補佐を受け、政務を執ったとみられています。
このときの信忠(奇妙丸)は12歳。
信長は早い段階から家督譲渡を意識していたと考えられています。
1572年(元亀3年)「小谷城の戦い」で初陣を飾ります。
この頃の信長は、包囲網が敷かれていて、日々合戦に明け暮れていた頃。
同盟を結んでいた信玄は将軍に加担したので、その同盟は破棄となり、信忠と松姫の婚約は破談しています。
1573年(天正元年) 元服。
この頃より「勘九郎信重」を名乗っています。
この時、勘九郎信重は17歳。
少し遅めの元服でした。
この頃に、尾張国の支配権の一部を与えられています。
1574年(天正2年) 「長島一向一揆」殲滅に向け、出陣。
独自の軍を率いて、遊撃軍としての役割を果たしています。
1575年(天正3年)「長篠の戦い」参戦。
武田軍と対峙。
その直後、「岩村城攻め」に総大将として出陣します。
そして岩村城を奪還しています。
数多くの戦いに参戦し、武功をあげていった信忠。
その後、河尻秀隆に岩村城を預けて、岐阜に戻ると、信長からの家督を譲渡されました。
着実に、織田家の後継者として階段を上り、周りから認められるようになります。
そして1576年には、正室・帰蝶(濃姫)の養子となり、帰蝶(濃姫)を養母とした正式な嫡子となったのです。
形式的ですが、家督を継承したのです。
そして、従来の尾張!東美濃の支配権に + 岐阜城も譲られ、信長 & 信忠父子は官職などの変遷をしています。
一覧にすると↓
1575年(天正3年)
・3月28日 → 信忠、出羽介に任官。
・6月1日 → 信忠、正五位下に。
・7月3日 → 信長、朝廷から「天下人」の公認を受ける。
・11月4日 → 信長、権大納言に。
・11月7日 → 信長、右近衛大将。信忠は秋田城介に。
つまり、信長が信忠へ家督を譲渡した理由は、
・信長 = 天下人
・信忠=織田家当主
と、立場を分けさせたかった。という事なのです。
父・信長と共に本能寺の変で人生の幕を閉じる
信長の天下統一まであともう一息というところまで来ていた頃。
1582年6月2日 未明。
中国攻めに行っている秀吉から信長に援軍の要請があり、信長は後から信忠と行くからと、明智光秀に先に行くよう命じました。
この時信長は本能寺に泊まり、信忠は本能寺から少し離れたところにある妙覚寺に泊まりました。
そして運命の時が訪れます。
この日明智光秀は信長を裏切り、本能寺を襲撃したのです。
光秀の本隊は本能寺をまず襲撃しました。
知らせを受けた信忠は、すぐに本能寺に向かおうとしますが、父・信長の自刃の知らせが入ります。
そして光秀の攻撃に備えるため、
・津田源三郎(異母弟)
・斎藤利治(側近)
・村井貞勝
らと、二条城へ行き籠りました。
二条新御所に入ると信忠は、この時ここを居宅にしていた皇太子の誠仁親王を脱出させ、わずかな兵と篭城しました。
すると明智勢からの攻撃が開始されます。
近衛前久邸の屋根から二条御所を銃矢で撃つ、明智勢の伊勢貞興の猛攻激には耐えられず、信忠は自害しました。
信忠の介錯をつとめたのは、鎌田新介。
遺体は、二条御所の縁の板を剥がさせて隠すように命じられたとされています。
織田信忠26歳で人生の幕を閉じたのです。
信長の遺体も発見されておらず、信忠も首も見つからず、明智光秀の元にはどちらも届きませんでした。
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