大河ドラマ『麒麟がくる』に、源応尼・げんおうに(華陽院・けよういん)が登場します。

源応尼(華陽院)は、あの有名な徳川家康を竹千代時代から教育をしたおばあちゃまです。

今回は天下人のおばあちゃん、源応尼(華陽院)にスポットをあてて見ていきましょう!

 

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目次

『麒麟がくる』真野響子が源応尼(げんおうに)/華陽院(けよういん)を演じる!

 

『麒麟がくる』真野響子が源応尼(げんおうに)/華陽院(けよういん)を演じる!

画像引用元:https://www.talent-databank.co.jp/search/t2000090389

 

源応尼(華陽院)は、徳川家康のおばあちゃまです。

家康の母(於大おだいの方)の生母にあたります。

 

源応尼(華陽院)は、今川義元を頼って駿府で出家している人物です。

今川の人質として竹千代が駿府に入った後、竹千代の育成にあたり、天下人・徳川家康にまで導く教育をした人物としてよく知られていますよね。

 

その源応尼(華陽院)を演じられるのは、いつまでも美しい女優の真野響子さん!

源応尼(華陽院)は、とても綺麗で聡明で、三河一の美女として知られているので、真野響子さんにはピッタリな役どころですよね。

 

真野響子さんは役どころによって、上品にも見えますし、キャリアウーマン的な役も似合いますし、どんな役どころでも期待を裏切らない演技で魅了されます。

 

着物もよくお似合いになりますし、振る舞いも素敵ですし、文句なしですね!

出演シーンが楽しみです。

 

松平竹千代を育てた祖母 源応尼(げんおうに)/ (けよういん)

 

松平竹千代を育てた祖母 源応尼(げんおうに)/ (けよういん)

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

松平竹千代を育てた祖母、華陽院は「於富の方」「於満の方」「源応尼」とも言います。

1492年(明応元)戦国時代に生まれた」となっていますが、生自には諸説あり、詳しいことはわかっていません。

 

・江州佐々木氏流、尾張の青木加賀守弐宗の娘

・尾張の宮の善七の娘

・大河元綱の幼女(実の娘説あり)

・大河満成の娘

 

概ね、

・近江六角氏に仕えた青木一宗の娘

・近江内左衛門尉元綱の幼女

と、いったところが推測されています。

 

名前は「お富」「お留」とされ、出生に感じては殆ど詳しいことはわかっていませんが、一番初めに結婚したのは、すでに離婚歴のあった三河国刈谷城城主・水野忠政ということはわかっています。

 

離婚歴があるので立場は継室(後妻)となります。

 

水野忠政と源応尼の間には、3男1女の子供たちが生まれています。

で、その一女が家康の母です。

 

夫婦仲もよく円満そうな水野家ですが、この家康のおばあちゃまの美しさに目をつけたのが、松平清康(三河で勢力を拡大していた岡崎城城主)です。

 

この時、はっきりとした年代はわかっていませんが、家康のおばあちゃまは40歳前後で、松平清康は18歳とされていて、水野忠政と離縁するように迫った。又は、清康が水野家を攻略した時に、和睦の条件だった。などと言われています。

 

とはいえ、「松平清康との結婚の事実はなかった」という説もあるので、あくまで一説という事です。

しかし、これが本当なら夢のあるエピソードですよねぇ〜。

 

若い子から告白されるなんて、どれだけの美貌だったのか見てみたくなりますが・・・

それほど美しく、スタイルとかもイケてたんでしょうね。

 

順風満帆に見えますが、時代は戦国時代。

源応尼は松平清康と死別し、この後、再婚&死別を繰り返すこととなるのです。

 

松平清康のあと再婚したのは、星野秋国

次に、菅沼定望

そして川口盛祐

 

と3回再婚していますので、全部で5回の結婚。

戦国時代だからといっても5回の結婚はなかなかないのではないでしょうか。

 

モテモテだったことが伺えますが、5人目の川口盛祐と死別した後は仏門に入って、

・源応尼(げんおうに)

または、

・華陽院(けよういん)と、名乗りました。

 

1541年 娘の於大の方は松平広忠の正室になり、1543年 松平竹千代(のちの徳川家康)を生んでいます。

 

1551年 松平竹千代が、人質として暮らしていた織田信秀のもとから、今川義元が居住する駿府に送られてきたのは、源応尼が出家したあとだったと言われています。

 

1547年(天文16年)松平竹千代(家康)は大変病弱であったので、娘に代わり(家康の母)身の回りのお世話をするために付き添い、庵室を設け、8年間親の代わりとなって、孫の松平竹千代を育成しました。

 

その役は自分から申し出たとも言われていますが、岡崎から招かれてきたという説もあります。

 

家康は、勉学の為に智源院の智短和尚手習いを学んだり、大岩臨済寺の今川家軍師・太原雪斎からも勉学を教わり、源応尼(祖母)から熱心に教育を受けたと言われています。

 

そして源応尼は、1560年 70歳を過ぎた頃に死去。

 

家康は戦に出ていて葬儀には立ち会えなかったそうですが、家康は、母とは3歳、父とは8歳の時に死別しているので、幼少期自分を育ててくれた祖母に対し、感謝していました。

 

そして、1512年(永正9年) 庵室に近い「知源院」を祖母の墓所に定めました。

 

1609年(慶長14年) 家康が大御所として駿河に引退し、源応尼(祖母)の50回忌の法要を営んだ時に、その法名から寺名を改め玉桂山華陽院(ぎょくけいさんけよういん)としました。

そして宗派も、真言宗から浄土宗に改宗しています。

 

静岡県にある華陽院は、源応尼の菩提寺。

ここに今も、3歳で夭折した家康の娘(五女)の市姫と並んで眠っています。

 

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