大河ドラマ『麒麟がくる』で、「美濃のマムシ」こと斎藤道三を祖父にもつ斎藤龍興(さいとうたつおき)が登場します。

 

斎藤龍興は、若くして家督を継ぎ、国を奪われ、城を追われ…。

武将としての気概を発揮し、織田信長に対して抵抗を続けていきます。

家臣や信長に苦しめられたその人生とはどのようなものだったのでしょう。

 

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目次

龍興14歳にして家督を継ぐ

龍興14歳にして家督を継ぐ

斎藤龍興は、1547年(天文16年)

◎ 祖父・・・斎藤道三

◎ 父・・・斎藤義龍

の、戦国武将一族の子として誕生しました。

 

母については諸説あり、

① 長井道利という家臣の娘

② 隣国の浅井氏から嫁入りした近江の方

(「美濃国諸旧記」)

とされています。

 

正確な史料がないので、あくまで一説にすぎないのですが、長井道利の娘が仮に母だったとすると、庶子(嫡男より身分が下の子)となり、近江の方が母だったとすると、嫡子(家督を継ぐ子)となります。

 

1561年(永禄4年)、斎藤龍興は、父・斎藤義龍の急死により、15歳で家督を継ぎました。

若かったので、実際に政治を仕切っていたのは、義龍に仕えてきた重臣たちであったとされています。

 

父の義龍はリーダーシップがあり、かなり独裁者だったようなので、家督継承した龍興の前には、すでにたくさんの問題がありました。

 

まず、当時の美濃は家臣団との風通しがあまりよくなかったので、義龍在任時から問題でしたが、義龍が亡くなったことで、さらに家中の政治面に大影響が出ていた上に、彼の死を好機と見た信長が、美濃の侵略を考え始めるのです。

 

難しかった家臣からの信頼と信長との攻防

難しかった家臣からの信頼と信長との攻防

 

父の義龍が33歳で亡くなり、龍興本人もまだ家督継承の準備など考えてもいなかったのでしょう。

跡継ぎの心構えなど何も知らないうちに、当主になってしまったのです。

 

当時、織田、浅井など強力な武将がひしめき合っている状況…。

前途多難のスタートを切ることになるのです。

 

そして、龍興が家督継承すると、すぐに織田信長の軍勢は美濃への侵攻を始めます。

戦の経験もろくなかった龍興は一気に苦境に立たされます。

 

もちろん龍興は、経験値的に軍を指揮するのは無理なので重臣たちが迎え撃ちましたが、重臣らが次々と命を落としてしまいます。

そしてとうとう龍興の居城「稲葉山城」(後の岐阜城)まで、信長軍が攻め込んで来ました。

 

この稲葉山城は山の上に築かれた『難攻不落の城』と呼ばれていたので、さすがの信長でも攻めきることができずに撤退します。

 

結局、龍興は難を逃れることが出来たのですが、信長がこれで引くはずもなく、再び信長と龍興は激突する事となります。

 

1563年(永禄6年)「新加納(しんかのう)の戦い

・織田軍→5,700

・斎藤軍→3,500

数では圧倒的に斎藤軍が不利な状況でしたが、斎藤軍の中には名軍師の竹中半兵衛がいたので、戦いは斎藤軍が有利に展開していきます。

そうして織田信長は、またしても退却することになるのです。

 

名軍師がいるので、龍興のこれからは安泰…。と思われましたが、龍興自身がそこを上手く扱える器ではなかったので、

・戦での戦い方

・家臣の使い方

・主としての心構え

などがよくわかっておらず、自分の気に入った側近ばかりを重用し、特に家臣の中でも悪評の高い斎藤飛騨守(さいとうひだのかみ)の言う事ばかり聞いていたそうです。

 

そういったタイプの人間は、龍興にとって耳の痛〜いことは言いません。

本当に当主の事を心配する重臣でしたら、重要なアドバイスをしたのでしょうが、とにかく経験未熟な龍興にはイエスマンの方が心地よかったのでしょう。

 

しかも、それだけでなく、龍興は徐々に酒と女遊びにふけるようになりました。

真剣に龍興の事を考えて注意する家臣の言うことには全く聞く耳をもたず…。

もちろん飛騨守は何も言わず…。

といった状態で、龍興は主君としての責務を果たしているとは言い難い状況でした。

 

こんな意識の低い龍興に対し、竹中半兵衛は、きついお灸を据えるべく荒療治に出ます。

その策略は、『稲葉山城を乗っ取る』というものでした。

 

1564年(永禄7年)、半兵衛は、城内に務めていた弟の看病と言う名目で、荷物に武器を紛れ込ませます。

 

そして無事、武器を運び込み、城内で武装蜂起。

わずかな人数で稲葉山城を乗っ取ってしまったのです。

 

龍興は一目散に逃げ出します。

この時、美濃三人衆の一人、安藤守就(半兵衛の舅)が、斎藤飛騨守を討ち取ったと伝わっています。

 

半兵衛は下剋上は全く考えてもいなかったので、乗っ取ったあと、すぐに龍興に城を返しましたが、この事件は、龍興が君主としての能力の低さが露呈することになり、家臣に城を乗っ取られた事実はあっという間に広まる事となります。

 

すると、龍興の影響力はみるみるうちに低下…。

竹中半兵衛の思いとは逆に、お灸を据えた結果は、当主の信頼を無くす事に繋がります。

 

そうして美濃国内の豪族の心は急速に龍興から離れ、見限る事となり、続々と信長に寝返っていくのでした。

 

その出来事により、再び信長が動きます。

1565年(永禄8年)、信長は本格的な美濃攻略を開始し始めます。

 

そうして1567年(永禄10年)に織田信長が攻め込んだ時、龍興の命も…。と思われましたが、なんとか命は落とさずに済みました。

しかし、戦に敗れた龍興は、城を追われてしまうのです。

 

1569年(永禄12年)「本圀寺の変」または「六条合戦」事件。

龍興は三好三人衆らと共に、足利義昭を襲います。

 

この時信長は、京都を明智光秀らに任せ、留守にしていたので、その隙を狙ったと思われています。

ここから龍興は、信長に対する攻撃を積極的に行っていくのです。

 

1570年(元亀元年)、三好三人衆の『対信長籠城戦(野田城「福島城の戦い」)』を支援。

 

石山本願寺法主・本願寺顕如などと働いたとされ、この戦は、織田信長 vs 石山本願寺戦の初戦にあたり、これから約10年にも及ぶ激しい戦となるのですが、実はそこに龍興が関与していたのでした。

 

そして1573年(天正元年)、信長が朝倉氏攻めにかかった「刀禰坂の戦い」によって、龍興は命を落としています。

26歳という若さでした。

 

龍興が家臣や信長などに苦しめられた原因は、若さだけではなかったのでしょう。

実際、幼くして家督を継いでも、その後成功していく武将もいます。

 

家督を継いだ時の自分の心得や家臣達、国の情勢などが上手く合致した時、初めて大きな力となるのでしょうね。

 

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